ケンカしている暇なんてない。家族・社員・酒蔵を守るために、「手放したもの」と「新たに得たもの」
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様々な価値観が多様化する昨今、「家族像」もそれぞれに唯一の在り方が描かれるようになりつつあります。
この「家族のカタチ」は、私たちの周りにある一番小さな社会「家族」を見つめ直すインタビューシリーズです。それぞれの家族の幸せの形やハードル、紡いできたストーリーを見つめることは、あなた自身の生き方や家族像の再発見にもつながることでしょう。
今回ご紹介しているのは、石川県能登町に暮らす数馬しほりさん。150年以上の歴史を誇る老舗「数馬酒造」の若女将です。
前編では、しほりさんが愛する能登での穏やかな日常を襲った震災当日の様子と、不安と困難の中大きな支えとなった子どもたちの意外な強さについてをお聞きしました
今回の中編では、震災直後から今に至るまでの歩みを辿りながら、家業への責任と家族のケアをいかに両立してきたのかをうかがいました。
◀この記事の【前編】を読む◀元旦に襲った大地震。大人も子どもも必死だったあの日。
【家族のカタチ #3(中編)|能登編】
「がんばるぞ!」家族4人で誓い合った日
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役場で一晩を過ごし迎えた、震災翌日。ここからどんな形で生活をしていくか、早速考えなくてはいけません。「覚悟したというのか、意外にも心は落ち着いていたと思います。まずは自宅に行って安全に過ごせるかどうか自宅の状況を確認することから始めました」というしほりさん。
「めちゃくちゃな家の中で、唯一、和室は居住空間としてどうにか成り立ちそうでした」。
しほりさんたちは、この一室で生活しながら日常を取り戻すことを決意します。
「家に戻ってまず取り掛かったのは、腹ごしらえ。震災後は食事を取れていませんでしたから。子どもたちをこたつに座らせて、元日のおせちやお雑煮の残りを紙皿によそって食べました。
家の中を見渡せば、ひどい状況が広がっているのですが、これはもう私たちの現実。子どもがいるからこそ余計に、心を健やかに保つことが大切だと思いました。腹ごしらえを済ませたら『さぁがんばるぞ!』と気合いを入れて、家族全員でエイエイオーと声を出しました」。
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長い断水に加えスーパーが暫くのあいだ再開できず、炊き出しは有難かった。ちゃんぽん麺でお腹も心もぽかぽかに。
そんな心と裏腹に、地震の不安と隣り合わせの状態は続きます。
「余震が断続的にあったので、いつでも避難できるように、地震後3週間以上は、寝巻ではなく普段着で寝起きしていました。
子どもたちの学校再開までも時間がかかり、家で過ごす時間がとても長かったのですが、その間はテレビのニュースはなるべくつけず、不安を煽らないようにして過ごしました」。
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断水が長引くにつれ、たらいのお湯で洗髪したり体を温めたりといった工夫も
一方で、状況に適応していく人間のたくましさも感じたといいます。
「地震直後は断水がつづき体を拭くことしかできませんでした。しばらくして給水車の支援が始まり、生活に使える余裕が出てきました。やっと頭を洗える!と、やかんや大きな鍋を集めてお湯を沸かし寒さに震えながら行水しました。震災から12日後の1月13日のことでしたね。
子どもたちには大きなプラスチックの衣装ケースにお湯を張ってお風呂を準備しました。おもちゃみたいなお風呂に身をよじらせて入る子どもたちの笑顔が印象的でした。
当たり前に思っていた生活のひとつひとつが、とても幸せなことだったと気づくと同時に、じゃあ今の状況でどう子どもたちと楽しんで暮らすことができるのかと、自分の中での知恵くらべが始まっていました」。
“時間”と“好き”を味方に。心の傷を自ら癒し、立ち直った我が子
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給水所で水を受け取りにいくのも、率先して気丈に手伝ってくれていた。でも実は不安が渦巻いていた子どもたち。
非常事態下の新しい生活に少しずつ慣れてきた頃、子どもの心に蓄積された傷も見えてきました。
「地震から1週間ほど経った頃でしょうか。長男が、1人で過ごすことへの恐怖を訴えるように。
震度5レベルの余震が多かったので、本震の恐怖が癒えるどころか、だんだんと不安が募っていったのでしょうね。トイレ、暗闇、いろいろな場面で1人になるのを怖がって、家から出るのを嫌がるようになってしまったんです。ひどい落ち込みや体調の悪化はなかったものの、息子の心は大きな影響を受けていることがうかがえました。
そんな状態でしたから、学校再開後もしばらくは車で送迎していました。道もがたがたでしたしね。このあたりの倒壊家屋は6月くらいまで手つかずの状態で、通学路の周りに広がるそういった風景も、幼い心の不安を煽る要素になっていたのかなと思います」。
母として寄り添ってあげていたい気持ちがありつつも、老舗酒蔵の若女将でもあるしほりさん。酒蔵の復旧に向けた仕事は、発災後から待ったなしでした。
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数馬酒造(地震前に撮影)
「我が家は会社と同じ敷地内で暮らしています。仕事中は子どもたちだけでお留守番をしてもらうことになりますが、すぐ傍に大人がいて子どもが安心しやすい環境だったのは助かりました。
でもそれ以上に、長男のがんばりがありましたね。仕事に向かう私に『がんばってね!』『お酒は大丈夫?』『いってらっしゃい!』などと声をかけてくれるんです。それでも、私の仕事が終わるなり抱きついてきていました。
大変な状況下でも、彼なりに心細い気持ちを一生懸命コントロールしながら、私たちの応援団でいてくれたことがとても嬉しかったです」。
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断水期間中、食事を楽しめるようにと企画した「卵料理の兄弟対決」で笑顔を見せる長男
そんな息子さんも、数カ月かけて、徐々に本来の活発さを取り戻したといいます。
「春休みになるころ、ようやく息子たちだけで友だちの家に遊びに行けるようになりました。地震で地面から突き出してしまったマンホールを怖がっていたのも、いつのまにか遊び道具に変化したり。子どもたちなりに現実を受け入れていったのだと思います。
長男の大好きなミニバスケットボールクラブが再開したのも大きかったです。風景が変わっても、好きなものは変わりませんから。大きなエネルギーをもらったようです。いつも使っていた体育館に立ち入れなくなったり練習する機会がなくなったりなどありましたが、仲間たちと一緒に夢中になれる時間がなによりの癒やしになったと思います」。
ケンカしてる暇なんてない。苦境でも冷静でいられた理由とは……
家族に感謝しながら、地震直後の日々を振り返るしほりさん。一方で、若女将を務める「数馬酒造」は地震で大きな打撃を受けていました。社長でもある夫、社員、全国で商品を待つお客さま……多方面に気を張って対応する日々をどのように乗り越えたのでしょう。
「職場はお正月休み中で人的被害こそなかったものの、建物は傾き、壁面は崩れ、保管中の酒瓶も800本以上破損しました。蔵の中ではタンクが倒れ、津波の影響で床は汚泥だらけ。これを掃除しようにも、断水状態で思うように身動きは取れません」。
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震災翌日の酒蔵の様子
「その状況下で、私たちは大きく3つのものへの対応を急ぐ必要がありました。その対象は、“社員”、“お酒”、“お客さま”。なかでも、状況を踏まえてまず大切にしたのは、社員らの生活安全です。
社長でもある夫は、考えるべきことも多く、ショックも疲れも大きかったはずですが、だからこそ『事実だけに目を向け、感情に振り回されない』ことを心がけ、冷静でいようとしていましたね」。
そんな夫・嘉一郎さんの姿にしほりさんも応えます。
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力を合わせて蔵の片づけを行った社員のみなさん。ホームページの「復興レポート」でもその様子を伝えた
「全国のお客さまや取引先からは、震災直後から多くのご心配やお問合せをいただきました。とても心強い一方で、被災した蔵への対応が山積みでしたから、ひとつひとつ丁寧に対応できる状況ではありませんでした。
そこで公式HPで、お客さまやお取引先にむけて、現在の状況について、できる限りの発信を続けました。現在はとしてまとめていますが、このレポートを通じて最新の状況や、私たちの奮闘をなるべくありのままの言葉でお話させて頂きました。
心を寄せてくださる皆さまへの感謝と、問合せ対応に奔走する夫の負担を軽くしたい思いもあり……私にできることを日々探しながら必死で奔走していましたね」。
多くの役割と責任を引き受けたしほりさん。ところが、キャパシティがパンクすることはなかったと当時を振り返ります。
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被災後の数馬酒造の店内。
「心がけていたのは、オンとオフをはっきり切り替えること。
普段とはまったく違う対応や思考を求められる毎日で、疲れが溜まることは自覚していました。ですから、しばらくの間は、会社全体で就業時間を午前中のみに短縮。午後は仕事をしない、と意識的に線を引くように決めたのが良かったと思っています。
夫は、会社のことを考えると気が揉めたでしょうけれど、一歩家に入れば2人の息子が甘えて、カードゲームに誘ってくるんです。それに付き合う夫の笑顔を見ると、余裕を奪われるどころか、スイッチをオフにしてくれる大切な時間だなと感じました。
いま思い出しても、間違いなく大変な時期ではありましたが……そういえばケンカするようなこともありませんでしたね。――というより、そんな無駄なことをしている暇がなかったということかもしれません(笑)」。
「私がやらなきゃ」を手放し、家族がチームに
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5年前、宇出津の夏の伝統「あばれ祭」にて。被災を経て、一家は新たなカタチで再始動した
こうして、体力と精神的なバランスをとっていたというしほりさん夫婦。仕事がままならないもどかしさの一方で、結果的に嘉一郎さんが家族とともに過ごす時間が増え、家族のカタチにも小さな変化が生まれたといいます。
「私は、もともと全て自分でやらないと気が済まないところがあるんです。そういう部分を、年齢を重ねながら少しずつ手放していこうとしていたのですが、あの震災を機に拍車がかかったといいますか……。家事も、自然に皆で手伝ってくれるように。
お風呂掃除は夫と子どもが協力して引き受けてくれるようになり、食器洗いの手伝いは夫が、洗濯物干しは子どもたちにお願いできるようになりました。
一人で引き受けていたら回らない状況で肩肘を張っていたのをやめた今、夫が補ってくれて、子どもたちも助けてくれる。――家族全体がチームになったような、そんな気がするようになりました」。
▶【後編】へつづく▶復興へ向けての日々。大変だった。でも、惨めではなかった。そして今思う、大切にしていることとは?__▶▶▶▶▶( https://otonasalone.jp/?p=444735&preview=true )