さすがにどうかと…30代女優が「親の14光り」と呼ばれた“最大要因”と明らかな実力
なんでもかんでも「親の7光り」だと形容するのは勝手だけれど、「親の14光り」という造語は、さすがにどうかと思う。
こんな造語が誰のために作り出されたのか。(以前にも誰かいたかのかもしれないが)石橋静河のためである。石橋は、先日10月28日に行われた「東京ドラマアウォード 2024」授賞式で主演女優賞を受賞している。受賞対象になった『燕は戻ってこない』(NHK総合、2024年)での名演が記憶に新しい彼女に、さっきの造語はどのように作用しているというのか。
イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、石橋静河の過去作を振り返りながら、彼女の魅力が自明であることを解説する。
◆「親の14光り」とは……
今年の夏ごろ、石橋静河に関して、なんだか変なタイトルが付いたネット記事を嫌というほど目にした。タイトルに必ず「親の14光り」と入っていたのだけれど、パッと見てその意味がまず理解できなかった。
14光りとは、ようするに父・石橋凌の7光りと母・原田美枝子の7光りを足した14ということらしい。なんだよその単純計算。話題作りに余念がないネット記者たちは、よくもこんな造語、命名ができるよなぁ(SNS上での批判的命名でもあるようだが)……。
そんな造語が生まれた背景には、石橋が出演したドラマ『ブラック・ジャック』(テレビ朝日、2024年)が最大要因としてあった。同作では、石橋が演じたドクター・キリコ役を女性に変えた設定が手塚治虫原作ファンのひんしゅくを買った。さらに2次元のキャラクターを実写化へ翻訳するためのビジュアル再現度が批判に輪をかけ、さっきの造語へとつながったのだと筆者は理解している。
◆撮れ高をみたす回答
2017年に公開された『夜空はいつでも最高密度の青色だ』で、映画初主演を果たした石橋が、『日刊スポーツ』のインタビューに答えた当時の記事が参考になる。「両親の存在はプレッシャーだった」という記者の直球質問に対して石橋はこう答えた。
「プレッシャーでは…ないですね」。ぶしつけな質問に対してしっかり明言している。さらに、アメリカとカナダでダンス留学を経験してきた石橋が演技の道へ進んだことについて「女優に転身した」と質問が投げかけられる。
「自分自身が持っているものを否定しなくなった時に、1番自分らしくいられるのかな、ちゃんと伝わるようになるのかなと感じ始めています」と言葉を手繰り寄せる彼女はきっと内心、どうして初主演映画の内容については聞かずに自分の親との関係性ばかり探られるのかと首をかしげていたように想像する。
それでもちゃんとインタビュー記事としての撮れ高をみたす回答をしながら、はっきりと二世俳優などというなよと釘をさしてもいる。にもかかわらず、同インタビューから7年以上経った今、今度は14光りという造語がうまれてしまう現実はどうしたものか。
◆素晴らしい俳優であることは自明
だけど例のタイトルが付いた記事をよくよく読んでみると、芸能関係者(これがまた眉唾物だと思うけど)への取材を踏まえながら、そんな批判にさらされている石橋だが、ドラマが放送されてふたを開けて見るとやっぱり彼女の演技は素晴らしいもので、存在感があると肯定的に捉えるものばかりだった。
下げを見せかけておいて上げる。評価が低いドラマを逆に評価して関心を集める。ネット記事にはよくある手口である。筆者の場合、いい作品なのになぜか頭ごなしに評価が低い作品に対して、いやいやなかなか肯定できる作品ですよと擁護することはある。
でも『ブラック・ジャック』に関してはなんだかそれもバカらしくなった。ドラマ本編はおろか、予告編すら見ていないことをここに告白しておく。だって、わざわざ上げ記事を書くまでもなく、石橋静河とは誰がなんといおうと素晴らしい俳優であることは自明のことだから。下げに見せかけて上げ評価をしてる記者や芸能関係者たちはたぶん、全然演技のなんたるかなんてわかっちゃいない。
◆「存在感がすごい」とは?
まぁでも筆者も結局は14光りの話題からわざわざ始めてしまっているのだから、これまた上げ記事のバリエーションに数えられちゃうのかなぁ。と、不安をもらしつつ、今一度、石橋静河の魅力をちゃんと主張しておくのは無駄ではない。
そもそもある俳優の演技を評価するとき、「自然体」と形容するのは論外だとして、「存在感がすごい」みたいな言い方にはもっと違和感がある。石橋の演技を評価する声の大半は後者である。
確かに石橋静河の存在感はすごい。でもそれまた自明のことで、じゃあどうすごいんだよ。と聞いたら、ほとんどの人は絶対に口ごもる。俳優は演技をして画面上に存在する。その画面に感じる存在感がすごいとは、なんだかよくわからないんだけれど、ある役柄を演じる石橋が今確かにそこにいて、やたらと生々しいなにか。で、そのなにかというのは、「存在感」などと一言で簡単に集約できるものではない。
つまり、本来言語化が難しいにもかかわらず、それを単に「存在感がすごい」と形容してしまっては、形容して評価したはずの石橋の存在感がどうも薄れてしまうという問題がある。
◆石橋静河と出会ってしまった感覚
10月28日に授賞式が行われた「東京ドラマアウォード 2024」で、石橋が主演女優賞を受賞した『燕は戻ってこない』は、まさにそうした一言ではとても片付けられないほど生々しい存在の質感が感じられた作品である。
主人公・大石理紀(石橋静河)は「変われると思ってた、あの町を出れば」と心の中でつぶやきながら地元・北海道の北見から上京した。でも職を転々とする他なく、手取り14万円でコンビニのおにぎりを買うのも勇気がいる。そんな毎日を変えるため、エッグドナー登録をして代理母になるまでの間、石橋は複雑な感情を(うまく抑制しながら)込めて終始微笑を浮かべて演じている。この微笑がなんとも生々しい。
あるいは『きみの鳥はうたえる』(2018年)。冒頭、閉店後の書店を写すカメラが横移動した次のカットで、石橋が初登場する。照明が暗い室内に、下手の方を向く石橋の横顔のアップが浮かぶ。そのショットの中で上手に顔を動かす。その動きひとつだけで、石橋静河と出会ってしまった、みたいな強烈な感覚になる。石橋静河の存在感はすごい。
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu