三軒茶屋のバーで出会った20代男女。曖昧な関係のまま半年が経ち、ある夜男が…
東京に点在する、いくつものバー。
そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。
どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。
カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。
▶前回:10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ
Vol.14 <マティーニ> 佐藤至(いたる)(36)の場合
夜が、好きだ。
バーカウンターの中に立ちながら至(いたる)は、改めてそう感じた。
コンテンポラリージャズの流れる、静謐(せいひつ)な空間。
磨き上げた木製カウンターでちらほらと交わされる、密やかな会話。
カウンターには様々な形のグラスが並んでいて、そのグラスの──カクテルのどれもが、不思議とそれを飲む人の“本当の姿”を表している。
心が、丸見えになる。そんな不思議が起きるのは、バーという場所をおいては他のどこにもない。
静謐で、密やかで、親密なカクテルの魔法。
その魔法を司る魔法使い…バーテンダーとして生きる夜の時間を、至はこの上なく愛しているのだった。
至がこのバーをオープンして、この秋でちょうど5年を迎えた。
三軒茶屋の住宅地という立地上、お客は決して、ひっきりなしの入れ食い状態というわけではない。
けれど、メイン層である近隣の住民や勤務者のお客のうち、ほとんどが数ヶ月から数年通ってくれている常連客だというのは、至にとっては理想的な状況といえる。
カクテルの魔法をもって、お客様の人生に寄り添いたい。いい時も、悪い時も。
それが、至がこのバーをオープンするときに願ったことだったから。
「ご馳走さま」と小さな声でつぶやきながら、目の下に大きなクマを作った40代の男性客が席を立つ。
― 彼の今夜の苦しみを、少しでも癒やすお手伝いができていますように。
店内にたったひとり残っていたお客様を見送りながら、至がそう考えたその時だった。
「こんばんは…」
女性客と入れ違いに、遠慮がちに首をすくめながら新たなお客様が入ってくる。若い男女の客だった。
その二人組の姿を見るなり、至は思わず微笑みを浮かべる。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
「佐藤さん、今日は2人で来たよ」
「翔平さん、こんばんは。早紀子さんはお久しぶりですね」
「すみません佐藤さん、ご無沙汰しちゃって…」
やってきたのは、翔平と早紀子だった。翔平は、店に通って2年ほど。早紀子は半年ほどになる。
翔平は週に1度は1人で飲みに来るほどの常連客だが、早紀子の方は、1人でバーに通うことに気後れする気持ちが未だに少しあるのだろう。1人でやってきたのはひと月に2回あるかなしで、最近は翔平と連れ立って2回ほど来店したくらいだ。
それでも、至にとって早紀子は思い入れの深いお客だった。
「おふたりとも、今日は何にしましょうか?」
「俺はまずはビールください。早紀子ちゃんは?」
「どうしようかな。私は、何かさっぱりしたものを。フルーツを使ったカクテルとかありますか?」
「今の時季ですと、梨か…温州みかんのカクテルはいかがですか?」
「いいですね!私、柑橘類大好き。温州みかんでおまかせします」
「かしこまりました」
半年前、勇気を振り絞って初めてバーを訪れた時の、緊張で強張った早紀子の顔を思い出す。
それに比べると、今カウンター越しに座っている早紀子は、まるで別人のようだった。
スマートで背伸びしない注文。くつろいだ表情。それに心なしか、随分と綺麗になったような気もする。
きっと、翔平と良い時間を過ごしているのだろう。
そう考えると至は、自分はまだ一杯も飲んでいないというのに、胸がふわっと温かくなるような気がした。
たとえ目の前のふたりがどういう関係だとしても、出会いの場を提供できたということが誇らしかった。
2週間前、バーテンダーになった頃から憧れていた凄腕のバーテンダー・小平の店に行った時に言われた言葉を覚えている。
『バーテンダーに必要なのは、豊富な話題と、人を観察する目……佐藤さんは一流のバーテンダーです』
こんなに嬉しいことはなかったが、ビールとみかんのカクテルを提供してから至は、翔平と早紀子から一番遠いカウンターの隅でグラスを拭き続けた。
こちらからふたりに話しかけるつもりはない。必要がなければ口を開かず、心地よい沈黙を忠実に守ることも、バーテンダーの大切な仕事の一つだと心得ているからだ。
静謐で、密やかで、親密。ビールと温州みかんのカクテルが引き立てる2人の世界。
それを邪魔する権利は、どんなに偉大な魔法使いでも持っていない。ただ、魔法の時間が切れないように、至はグラスの中身だけを見守り続けた。
翔平と早紀子のグラスは、まもなくほとんど同時に空になるように見えた。
気の合う同士は飲むペースが似ている、というのは、至がバーテンダーとして働くうちに見つけた、いくつかの法則のうちのひとつだった。
またしても温かな気持ちになりながら、至はグラスを拭く手を止め、そっとふたりのそばに立つ。
「次はいかがいたしましょうか?」
静かに問いかけると、翔平と早紀子は互いに目を見合わせる。そして、少しはにかんだ表情を浮かべて、早紀子が答えた。
「マティーニをお願いします」
「ウォッカ・マティーニじゃなくて、シェイクじゃなくてステアでいいですからね」
横から翔平が茶々を入れるが、「もう!」と恥ずかしそうに顔を赤らめる早紀子は、自分の両頬に手を当てるだけだった。
触れ合う様子がないところを見ると、もしかすると、まだお互いの気持ちは伝え合っていないのかもしれない。
「かしこまりました。基本的なドライ・マティーニをお出しします」
そう答えながら至は密かに、渾身の一杯を提供しよう、と気合を入れる。
心が丸見えになる、バーの魔法。それを披露するのに、こんなに適したタイミングもないだろう。
“カクテルの王様”と名高いマティーニは、作り方はこの上なくシンプルだ。
ドライジンとドライベルモットを、ステアするだけ。
削ぎ落とされたレシピなだけに奥が深く、バーテンダーの技術や哲学が浮き彫りになるカクテルだと、至は思っている。
またその種類の多さも、マティーニが人を魅了してやまない理由だろう。
ジンとベルモットの比率が7対1になれば、エクストラドライマティーニ。
ドライベルモットをスイートベルモットに置き換えれば、スウィート・マティーニ。
ドライマティーニを氷を入れたグラスに注げば、マティーニ・オン・ザ・ロック。
ジンをウォッカに置き換えれば、ウォッカ・マティーニ。
ウォッカ・マティーニをステアではなくシェイカーで混ぜ合わせて作れば、ボンドマティーニ…。
数え上げれば300種類を超えるともいわれるマティーニは、まさに“カクテルの王様”の名にふさわしいカクテルなのだ。
今夜、注文を受けて作るドライ・マティーニは、数あるマティーニの中でも代表なレシピのマティーニだ。
よく冷やしたミキシンググラスに、たっぷりの氷とジン、ベルモットを4対1の比率で入れる。
しっかり冷えるまで、氷ごと回しながら丁寧にステアする。
同じくよく冷やしたグラスに氷が入らないように注ぎ、レモンピールを絞って香りをつける。
仕上げに、ピックに刺したグリーンオリーブを添える…。
どの工程も、誠心誠意、真心を込める。一挙手一投足に、優しさを込める。
そうして出来上がった2杯のマティーニを、至は胸を張ってふたりに向かって差し出した。
「お待たせいたしました。マティーニでございます」
ゆっくりとグラスを持ち上げ、早紀子が口をつける。それを追うように、翔平もグラスを傾ける。
「…美味しい!」
同時に漏れたため息のような喜びの声を聞き、至の胸はまたしても、度数の高いカクテルを流し込んだかのように高揚した。
ふたりが満足そうにマティーニを味わうのを確認すると、至はまたしてもカウンターの端へと影を潜める。
さっきから、至の胸は温かになるばかりだ。幸福に酔いしれるバーテンダーには、もしかしたら、アルコールは必要ないのかもしれない。
「俺…早紀子ちゃんのこと…。…告白するのはこの店でって……」
「…うれしい…私も…。こちらこそ……」
「これからも…いろんなマティーニをふたりで……」
離れた場所からジャズに紛れて、断続的にふたりの会話が聞こえていた。
至はグラスを拭きながら、そっと横目で確認する。マティーニのグラスは、同じペースでまもなく空になろうとしていた。
だけど今回は、「次は?」と聞きに行く必要はないだろう。そう見計らった至は、密かに会計の準備を進める。
早紀子の手と、翔平の手は、カウンターの上でしっかりと結ばれていた。
磨き上げられたカウンターの上では、2つのグラスは寄り添っていた。
「じゃあ佐藤さん、ごちそうさまでした」
静かに流れるコンテンポラリージャズに、クスクスと幸福な恋人たちの忍び笑いが重なり、この上なく美しいジャムセッションに変わる。
至の読み通りマティーニを飲み干したふたりは、そのジャムセッションをBGMに店を後にするのだった。
と、その時だった。
入れ違いに、新たなお客様が入ってくる。30代くらいに見える女性だ。おそらく、今までこの店に来たことはない。
「いらっしゃいませ」
「すいません、初めてなんですけど…。職場が近くて、ずっと気になってて…」
「もちろん、歓迎いたします。どうぞ」
女性客の目は、少し赤いように見えた。
疲れや、悲しみの中にいるのかもしれない。
はたまた、喜びと感動の中にいるのかもしれない。
まだ分からない。
スマホに目を落としたままで、表情はぎこちない。
もしかしたら、誰かとやりとりしているのかもしない。
グルメアプリかなにかで、小説でも読んでいるのかもしれない。
「あの…どうしよう。フラッと入っちゃったんですけど、あんまりバーとかわからなくて。マティーニ?とか頼めばいいのかな」
少し緊張した表情を浮かべる女性に、至は優しく微笑んだ。
夜が、好きだ。
至がそう感じるのは、バーテンダーになってから一体何度目だろうか。
心が丸見えになる、バーの魔法。
静謐で、密やかで、親密な、カクテルの魔法。
世界一“テンダー(優しい)”な魔法使いとして、今宵も人々の人生に寄り添う───その誇りを胸に、至は言った。
「お客様のお好みを教えてください。バーにはいろんな一杯がありますからね。…マティーニのほかにも」
Fin.
▶前回:10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト