ある意味、占い師が「最強」だった。平安貴族の1日は、朝の運勢占いをチェックしてからスタート⁉
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*TOP画像/安倍晴明(ユースケ・サンタマリア) 藤原道長(柄本佑) 大河ドラマ「光る君へ」25回(6月23日放送)より(C)NHK
『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代の「占い」について見ていきましょう。
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陰陽師と占(うら)・占い(うらない)
かつて、「占い(うらない)」は「占(うら)」と呼ばれていました。
「うら」は陰に隠れた部分を指し、一般の人には見えない運勢という意味が込められています。
平安時代は陰陽師(おんみょうじ) ※1 に帝も上流貴族も重大な判断をゆだねていましたが、それは自分たちには見えない運勢を彼らなら分かると考えていたためです。
※1 陰陽師は奈良時代に始まる律令国家の陰陽寮(おんみょうりょう)における役職名
平安貴族は今日の運勢を朝起きたらチェックしていた
現代を生きる私たちの中にも本日の運勢チェックを朝のワイドショーなどで行っている人は多くいます。今日の星座ランキングを見て自分の星座が上位にランクインしていれば期待する人や、ラッキーアイテムが自宅になかったか出勤前に探す人もいますよね。
平安貴族も朝の出勤前に暦を見て、本日の運勢チェックを行っていました。また、彼らは自分を守ってもらうために属星(ぞくしょう)を唱えていました。属星とは生まれた年に決まるもので、その人の運命を支配する星です。
占いであれもこれも決まった平安時代
平安時代、宮中には陰陽師が在籍しており、祈祷や占いを行っていました。陰陽師は天文学者でもあり、彼らの天文占いには中国の占星術が用いられています。
当時は陰陽師による占いであらゆることが決められていました。
例えば、沐浴は吉凶にかかわると陰陽道 ※2で考えられていたため、沐浴の日は占いによって決められていました。縁起のよい日に沐浴するので、頻度は5日に1回程度だったそう。
当時は爪を切る日も髪の毛を洗う日も占いで決めていました。また、外出時は凶の方角を避けていました。
さらに、プライベートな決めごとにとどまらず、政治の方針や国家の政策を決める際も占いに依存していました。貴族にとって陰陽師は頼もしい存在だったそうですよ。
平安時代は日常生活におけるさまざまなことが占いで決められていましたが、現代の日本でも占い師に相談し、アドバイスをもらう人は少なくありません。例えば、恋に悩む女性の中には告白すべきかどうかの判断を占い師にゆだねる人もいます。人間は何かを決めるときに誰かに頼りたくなる、すがりたくなる特性がある生き物なのかもしれませんね。
※2 すべての存在現象は陰陽と木火土金水の組み合わせで生じるという陰陽五行思想が6世紀頃までに大陸から日本に伝わっていた。陰陽道は災厄の回避を役割としていた。
忌日と鬼門は人によって異なる
平安貴族が気を付けていたのが忌日(いみび)と鬼門(きもん)です。
忌日は穢れ(けがれ)をこうむる日のため物忌をし、身を清め、行動を慎まなければなりません。また、鬼門は不吉な方角のことで、その方角に向かうことを避ける必要があります。
忌日も鬼門も人によって異なるので、貴族たちは自分がいつ該当するのか陰陽師に占ってもらっていました。
「手相占い」は平安時代からあった!
私たちにとっても手相占いは身近なものですよね。占い師に手相を見てもらったことがある人や、本などを参照しながら自分で手相を把握しようとした経験がある人も少なくないはずです。
手相占いは平安時代の中頃に仏教とともに日本に伝わりました。貴族階級に受け入れられ、人を見極める方法として扱われるようになったそうです。
なお、手相が一般的に普及したのは江戸時代末期以降になります。水野南北の『南北相書』は手相についての日本最古の文献です。
参考資料
川村裕子『平安男子の元気な!生活』 岩波書店 2021年
繁田信一『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』 ジー・ビー 2020年
菅原正子『占いと中世人―政治・学問・合戦』 講談社 2011年
荻野文子『キーワードで味わう平安時代 人物&できごとガイドつき常識事典』 Gakken 2024年