「朝ドラにBL要素いる?」「国民的ドラマで?」の声も…『虎に翼』への“トンチンカンな意見”に反論

『虎に翼』(NHK総合)を見るまでは、朝ドラを見ることがこれほど有意義だとは思わなかった。毎朝、必ず学びがある。映像作品としても楽しい。

 伊藤沙莉扮する主人公によって考え方がアップデート中の視聴者は多いと思う。なのに、第11週第51回まできて、ある場面の描写を安易に「BL」と形容する反応には、ちょっと閉口した。これは反論しておかなければ……。

 イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、第51回を「BL」と断定することが誤読であり、差別的でもあると思う理由を解説する。

◆よねが放った一言

 もうびっくり。『虎に翼』第10週第50回ラストで、主人公・猪爪寅子(伊藤沙莉)と明律大学で法律を学び、裁判官になった花岡悟(岩田剛典)が餓死したのである。生真面目な花岡は、闇市で取引される食べ物を拒み、極度の栄養失調になった。

 食料管理法を担当していた裁判官の死に多くの人々が衝撃を受けた。一番心を痛めたのは、学友であり、無二の親友・轟太一(戸塚純貴)だった。第11週第51回、新聞でそれを知った轟は、飲み崩れる。

 ぐでんぐでんになって地面に崩折れた轟の元にやってきたのが、山田よね(土居志央梨)。轟とは学生時代に歪みあってばかりいた意外な人物の再登場だが、さらに意外なのは、よねが働いていたカフェでの会話内容だ。階段に座る轟に、よねが放った一言とは。

◆セクシュアリティの曖昧さが描かれる意味

「惚れてたんだろ、花岡に」

 そう言われた轟は、「何を馬鹿なことを言ってんだよ」とやや声を荒げる。よねは素直に詫びるのだが、轟が重い口をひらく。「俺にもよくわからない」と。轟は確かに花岡に「惚れてた」。でもだからと言って、その時点で自らの性的指向を自認しているわけではない。

 ここにきて、轟のセクシュアリティの曖昧さが描かれる意味。それを読み解く前に、この場面に対するネット上での反応を確認しておきたい。正直、目も当てられないものばかりなのだけれど……。

「朝ドラにBL要素?」や「国民的ドラマでBL?」という疑問は、一見素朴な響きだが、いや、これは誤読が過ぎる。寅子に対してズレまくった了見を提示する法学者・穂高重親(小林薫)以上にトンチンカンな見方だと思う。

◆「BL」と形容することは乱暴

 寅子の「はて」を頼りに、あらゆる差別や偏見に疑問符を投げかけ、しめやかなメッセージとして回収してきた本作を見てきた、良識ある視聴者なら、ここでわざわざ「BL」というワードが口をついて出るはずがない。

 仮に同性である花岡に心を寄せる轟が、男性の同性愛者だとして、でもそれを「BL」と形容することはあまりに乱暴ではないか。現在の「BL」文化を準備した(とも言える)「JUNE小説」(雑誌『JUNE』に掲載された男性同性愛小説)の元祖と目される森茉莉が、代表作『恋人たちの森』などを出版するのは戦後15年以上も後のこと。

「JUNE」は「BL」より耽美的要素が強い。誤解を恐れずに言えば、恣意的なフィクション性が強い「BL」とはニュアンスが違う。その上で理解するなら、轟の「惚れてた」感情とは、もっと踏み込んだ、生身の人間の実感が宿るもの。

「JUNE」的な同性愛の表象と言ったほうが近いかもしれない。この感覚を理解するのは当事者でも容易ではないが、ひとつの解釈を導入して説明することはできいるかもしれない。

◆ホモソーシャルという考え方

 例えば、戦後最大の作家・三島由紀夫が1949年に発表した『仮面の告白』を読めば、(轟と同じ)戦後を生きる男性が男性を愛する同性愛の基礎知識は得られる。三島が描く主人公の場合、朽ち果てる男性の肉体を夢想するのだが、「兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」と感情が高まる轟の言葉は、三島的な耽美的世界の反語のようにも聞こえる。でも、男性同士のつながりとは、同性愛だけではない。

 社会学的には、もうひとつ、ホモソーシャルという考え方がある。ホモソーシャルとは、社会の中での男性同士の強い結びつきを定義した言葉だ。女性嫌悪(ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)というふたつの嫌悪が含まれていることが、この言葉の肝心なところ。

『虎に翼』がかなりの話数をかけて主人公の抵抗の歴史として描いてきた核心部分に関わってくる考え方でもある。当初の轟は、寅子たちが女子部から上がってくるなり、女性嫌悪(蔑視)的な発言で、反感を買いまくっていた。

 レディファースト精神で取り繕っていた花岡もまた、次第に女性蔑視の心境を吐露する。つまり、ある時期までの花岡と轟は、ミソジニーによって、同性同士のつながりを強化し、男性主体の社会構造を補強していたことになる(寅子がそれを打倒しようとしたのは言うまでもない)。

◆本作の鋭い批評性

 定義上、それが同性愛に傾斜することはない。言わば、ホモセクシュアルすれすれの関係で踏みとどまることで、ホモソーシャルな男性社会の仕組みがかろうじて保たれたということ。男性社会の枠組みを変革することが目指されつつ、そうした社会の中でしか育まれない、男性同士の朋友精神(友情)が温められる美しさは否定し切れない。

 ところが、戦後、GHQの指導で公布された新憲法では、「基本的人権の尊重」が明記された。

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 よねは、カフェの壁に憲法のこの文言を書き写している。そんなよねが轟のセクシュアリティを示唆するところに、本作の鋭い批評性がある。

「ずっとこれが欲しかったんだ」と言うよねの言葉は、まさに新憲法を体現したものだろう。轟が同性愛者だとしても、「社会的関係において差別されない」ことは言うまでもない。そしてそれは同時に、愛する同性の片割れ(花岡)を失った轟にとっての社会的救いでもある。

安易に「BL」と形容し、「朝ドラにBL?」という疑問を抱くこと自体、立派な差別と成りかねないことに意識的になる必要がある。

◆脚本家が仮託する“愛のかたち”

 本作の批評性を裏打ちする脚本家・吉田恵里香の素晴らしい批評眼も特筆しておかなければならないだろう。BL要素と誤読されたよねと轟の場面への反応を受け、吉田は放送後すぐにX上で補足説明している。

「轟の、花岡への想いは初登場の時から【恋愛的感情を含んでいる】として描いていて私の中で一貫しています(本人は無自覚でも)」

 そう、轟は「自覚」しているわけではないのだ。その上で、人物造形としては、「同性愛は設定でもなんでもない」と言うのが、何とも誠実な作り手の態度ではないか。つまり、轟の花岡への気持ちが、ここにきて明かされるからと言って、それがそもそも裏設定ではなかったということ。

 過去には、「ハリー・ポッター」シリーズの原作者J・K・ローリングが、ホグワーツ校長のダンブルドアが実はゲイだったという事実を裏設定として2007年に公表している。ダンブルドアの中年期を明らかな同性愛描写で表現した『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』(2022年)にもやはりBL要素への批判的(差別的)意見が散見された。

 単純な比較論で申し訳ないが、でも『虎に翼』の吉田は、ローリングよりもっと誠意を持ってキャラクター造形にあたっている。丁寧な説明を惜しまない態度にもまた脚本家としての愛情深い眼差しを感じる。花岡を想いながら、こらえようとする轟の瞳に写るのは、脚本家が仮託する“愛のかたち”である。

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】

音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu

2024/6/18 8:46

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