恫喝外交で条約締結に成功した!?「赤鬼」ペリーが隠し通した「弱点」

 嘉永六年(1853)六月三日、アメリカの東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが蒸気船(黒船)と帆船の計四隻を率い、江戸湾の浦賀沖に姿を見せた。いわゆる黒船来航だ。

 そのペリーは「恫喝外交」によって江戸幕府の鎖国体制に風穴を開け、翌年の三月三日に日米和親条約を締結して日本を強引に開国させたといわれる。

 こうして当時の日本人に「赤鬼」と呼ばれたペリーだが、彼には意外なアキレス腱があった。アメリカ側の史料などから日米交渉の知られざる裏側を探ってみよう。

 まず、アメリカが日本の開国を望んだのは主に(1)中国との貿易で中継地となる港が欲しかったこと(2)太平洋での捕鯨業が盛んで日本に船の寄港地を確保する必要があったことだった。

 次に、本当にペリーが「恫喝外交」を行ったのかどうか。『ペリー提督日本遠征記』から事実関係を拾ってみよう。

 この書はアメリカ政府からの依頼で彼が監修に当たり、乗組員の日記や覚書を中心に編纂された一級史料だ。まず浦賀沖に停泊したペリー艦隊の旗艦「サスケハナ」艦上でアメリカが初めて幕府と交渉した際、浦賀奉行所の役人に「船を取り巻く(幕府の)番船を撤退させなければ武力で追い払う」(『ペリー提督日本遠征記』の日本語訳を意訳=以下同)といい、役人は慌てて船上から指示を出し、番船を退かせている。

 ペリーはまた、外国との唯一の窓口である長崎へ回航するよう求める幕府の意思を無視し、「この地で大統領の国書を渡すつもりだから無礼は許さない」という姿勢を貫いた。

 二回目の交渉では、後述する香山栄左衛門という浦賀奉行所の役人が「江戸(城)へ(貴殿の来航を)報告し、訓令を仰ぎたい。それまで四日かかる」と申し出たところ、「蒸気船なら一時間で江戸まで航行できるので三日だけ待とう」と言った。

 つまり三日以内に返答がないなら、一時間で江戸まで艦隊を進めると宣言しているのだ。

 さらに各艦からボートを出し、幕府の抗議を無視し、ペリーは江戸湾内を測量し、海図を作成した。このとき、柴村(横浜市金沢区)まで測量していたことが分かっている。

 しかも、この間、前述した香山栄左衛門が幕府老中に宛てた上申書によると、アメリカの使節の一人は、幕府が国書の受け取りを拒んだら、その恥辱をそそがなければならないとして、こう続けたという。

〈浦賀において余義なき場合(戦争)に至り申すべし。その節に至り候とも、(降伏を含めて)用向きこれあり候えば、白旗を建て参りくれ候え。鉄砲を打掛け申すまじく〉

 幕府が交渉を蹴ったら戦争になる、ただし降伏するなら白旗を掲げてこい、そうしたら攻撃はしない――そう恫喝したという。

 しかし、この話は『ペリー提督日本遠征記』には見えず、さすがにペリーも、そこまでの恫喝は控えたはずだ。

 しかし、この話以外は信憑性があり、幕府は結果、久里浜村(横須賀市)へのペリーの上陸を認め、彼は武装したアメリカ兵三〇〇名を伴い、フィルモア大統領の国書を幕府へ渡すことに成功した。

 こう見てくると、幕府がペリーの恫喝に屈したのは事実といえるが、このとき彼は日本側が知らないアキレス腱を抱えていたのである。

 まずペリーは、フィルモア大統領から乗員への暴力に報復することを除き、軍事力に訴えてはならないという命令を受けていたのだ。

 幕府が上陸を拒んだら「武力に訴えて上陸する準備をさせていた」としているが、それはあくまで「最後の手段」。このように交渉の舞台裏で行動が制約されていたのである。

 そして二番目のアキレス腱は、彼が託された大統領国書そのものにあった。というのも、ペリーが嘉永五年一〇月一三日にノーフォーク港(バージニア州)を出港して翌年六月に浦賀に来航する間にアメリカ国内で政権交代が実現。ホイッグ党(後に共和党へ吸収)のフィルモアから民主党のピアース(第一四代大統領)へ政権が移っていたのだ。

 つまり幕府が受け取った国書は正確には前大統領が署名した文書という形になり、そこで通商や開港、難破したアメリカ国民の保護を日本に求めていながらも、外交上の効力には疑問符がつく。

■幕府は事情を知らずに和親条約を締結した!?

 ペリーは、そんなことは一切知らない幕府に国書を渡すや、一年後に再来航して返事を聞くと述べ、六月一二日、浦賀沖を後にした。来航して、わずか九日後のことだ。

 こうして彼は、幕府に前述のアキレス腱を勘づかれる前に、さっさと国書を渡し、引き揚げようとしたといえそうだが、実はもう一つ、大きな問題を抱えていた。

「一ヶ月以上沿岸に滞留できるだけの十分な食糧と水を持っていなかった」のだ。

 幕府がなおもペリーを焦らし、沿岸で無為に時を過ごさせれば、彼は幕府に国書を渡すことなく帰路に就かねばならなかったのだ。

 その後、ペリーは約束より半年早く翌嘉永七年一月一六日、航海が難しい冬にわざわざ香港を出港。

 蒸気船と帆船七隻(後に二隻が追加)で神奈川沖に現れ、前述した柴村沖に投錨した。

 これは、彼が一二代将軍徳川家慶の死を知り、その幕府の混乱につけ入るのが狙いだったといわれるが、それだけではない。

 その頃、ペリーは中国沿岸部の香港、マカオ、上海を行き来していたが、そこでロシアのプチャーチンがアメリカと共同で日本に開国を求めようとする動きを知り、ロシアを出し抜くために予定を早めて再来日したのだ。

 このときも彼には中国問題を優先する政府内の一派との対立から条約締結のための全権を与えられておらず、それがアキレス腱になっていた。

 そこで日本への外交文書の冒頭、本国の政府には無断で「Special Ambassador to Japan」( 特命全権大使)の一文をつけた。

 こうして幕府はペリーがいくつものアキレス腱を抱えていたことを知らず、最後には和親条約を締結する。

 しかし、その後の日本の近代化の流れを見ると、彼がアキレス腱を隠しつつ、恫喝に近い姿勢で日本を開国に踏み切らせたことが幸いしたといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

2023/9/22 7:00

この記事のみんなのコメント

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  • 昔戦後の東京裁判でアメリカが日本を日清戦争とか攻めた時日本の石原莞爾がその裁判の証言でそれならペリーを有罪にしてからにしろ日本はペリーが来るまで鎖国で静かに暮らしてたのをアメリカがペリーをよこし強引に開国させたからだ!と言ったら裁判官は静かになったのは有名ですね~その後ペリーは、クジラの脂だけ取ってほかは海に捨てたのに日本は骨一つも全て使ってたのに捕鯨を反対してるのだからね。

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