「話がある」と彼氏の元カノから呼び出され…。疑心暗鬼の女が提案した“意外なルール”とは?
あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?
「元カレとはもう、なんでもないから」
大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。
だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。
しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。
「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。
◆これまでのあらすじ
彼氏の健作と社内恋愛中の千秋。そこで転職してきた雛乃は、健作の中学時代からの幼馴染であり、7年間も付き合っていた元カノだった。
「私立一貫校の内部生あるある」だと言いながら、別れても友達として付き合い続ける健作と雛乃。
モヤモヤするあまり会社で雛乃を避けた千秋だったが、彼女に「話がある」と呼び止められ…。
▶前回:結婚式の打ち合わせに、なぜか“彼氏の元カノ”がやって来た。そこで彼の過去を暴露し始めて…?
人気がまばらなオフィスで、雛乃ちゃんはエレベーターホールへと続くドアをしっかりと背中で押さえながら、厳しい声で言った。
「行かないでください。私、千秋さんに話があるんです」
いつもニコニコと柔らかく微笑んでいる雛乃ちゃんの目が、突き刺すように鋭く私を見つめている。
「雛乃ちゃん…」
初めて見る雛乃ちゃんの形相に戸惑う私だったが、ふと我に返る。
出社率が下がり人気がまばらとは言え、ここはオフィスだ。険悪な雰囲気で揉めていては、どんな噂が立つかもわからない。
そう考えた私は、断固として進路をふさぎ続ける雛乃ちゃんに向かってなだめるように言った。
「わかった、わかったよ。じゃあ…ちょっと外で話そうか?」
必死の形相で「話がある」と迫る雛乃。その内容とは…?
結局、一緒にランチ休憩をとることになった私と雛乃ちゃんは、表参道の『アンカフェ』を目指すことにした。
オフィスから歩いて10分ほどの移動時間は、完全に無言。
誰よりも人当たりが良く、いつもニコニコと笑顔をたやさない雛乃ちゃんが思い詰めている様子は、否が応でも私を緊張させる。
― いったい「話」って何なの…?
思いあたるのは、やはり昨日の集まりだ。
私と健作の結婚式の打ち合わせという名目でありながらも、健作と雛乃ちゃんの青春の思い出話を聞かされることになった、憂鬱な会。
― もしかして…。過去の思い出話をしているうちに、やっぱり健作への想いが復活しちゃった、とか…?
そんな予想をしてみただけで、心臓が握りつぶされたように鈍く痛む。
私よりも美人で、細くて、若くて…。私よりもずっと前から、健作と一緒にいた雛乃ちゃん。
いやだ。私から、健作を取らないで。
そう強く願っても勝ち目はひどく薄いように思えて、もはやランチなど一口も食べられそうにないほどに胃が縮む。
けれど『アンカフェ』に到着し、テラス席に座った雛乃ちゃんが開口一番に言ったのは、私が予想したこととはまったく違う言葉だった。
「私、転職しようと思ってます」
パスタランチを手早く注文すると、雛乃ちゃんはキッパリと宣言した。
「千秋さんには教育担当として親身にご指導いただいているのに、本当に申し訳ないです」
そう言葉を続けて、深く頭を下げる。
健作を取られるかも…。なんてことを予想していた身としては、あまりにも唐突な話すぎて、動揺した私は言葉をつっかえさせながら答えた。
「えっ、えっ?そんな、転職するって…。雛乃ちゃん、まだ先月うちに転職してきたばかりじゃない。まだひと月しか経ってないのに、どうして?」
「はい。なので、実際に転職できるのはもう少し先になってしまうとは思うんですけど…。でも……」
私の疑問に、雛乃ちゃんは下唇とぎゅっと噛んで黙ったままだ。
沈黙の合間に、ランチセットのコーヒーとスープが運ばれてくる。だが、それには目にもくれず何か言いにくそうな雛乃ちゃんを見て、私は恐る恐る問いかけた。
「…もしかして、私のせい?」
私がつぶやくようにそう言うと、雛乃ちゃんはうなだれた顔を勢いよく上げて、全力で否定する。
「違います!千秋さんのせいなんかじゃありません!千秋さんはいつも優しくて、面白くて、かっこよくって…。私、本当に憧れてるんです。
でも、だから私、これ以上千秋さんを嫌な気持ちにさせたくありません。お2人がいるって知らなかったとはいえ、昨日みたいな会に絶対に参加するべきじゃなかった。
ちょっと時間はかかるかもしれないですけど、千秋さんと健作さんのお2人からは、今後きちんと距離を置かせてもらうつもりです。数々の軽率な行動、本当に申し訳ありませんでした」
堰を切ったように言い切ると、再び深く頭を下げた。
「やだ、顔あげてよ雛乃ちゃん。そんなに思い詰めないで…!」
そして、どうにかなだめることしかできない私に、雛乃ちゃんはさらなる予想外の話を打ち明ける。
「私、前の会社に好きな人がいるんです」
「…え?」
雛乃からの、突然の謝罪と告白。それを聞いて千秋は…
「前の会社に、好きな人?」
唐突に始まった恋愛トークに、私の口から出たのは間の抜けた相槌だった。しかし、そんなことは気に留めず、雛乃ちゃんはとつとつと想いを打ち明けはじめる。
「私、ここに来る前に、前職の上司と1年半付き合ってて。でも、外資って暗黙の了解で社内恋愛禁止じゃないですか。だから、私がまず転職してから結婚しようって、彼と2人で話しあって決めたのに…。
それなのに…。健作さんに相談してたことを彼に言ったら『元カレとそこまで仲がいいのは浮気』って決めつけられて、フラれちゃったんです」
そう語る雛乃ちゃんの表情は、もはや泣き顔だ。
彼のことがまだ忘れられない。でも、健作との友情を理解してもらえないのなら、価値観も違うからきっと上手くはいかないだろう。
そう自分に言い聞かせていたけれど、自分が元カノであると知った後の私の様子を見ていたら、だんだんと考え方を改めなければいけないという気持ちになってきたのだという。
「私とけんちゃ…健作さん、本当にもうなんでもないんです。そりゃ、昔は好きなときもありましたけど…今はただの親友なんです。
でもやっぱり、私と健作さんみたいな関係は、特殊な環境だから許されてただけだってようやくわかってきて。
だから、私の恋はもうほぼ可能性ゼロなんですけど…。でも、千秋さんと健作さんは険悪にならないで欲しいです…!」
そこまで言うと、雛乃ちゃんはアイスコーヒーを手に取った。そして、ストローを咥えようする。口元に、マスクをつけたまま。
「ちょ、雛乃ちゃん…落ち着いて…」
涙目でしばらくマスク越しにストローと格闘する雛乃ちゃん。その様子を前にして私の口から思わず出てしまったのは、安堵のにじんだ笑い声だった。
「あははは…」
ようやくマスクの存在に気がついた雛乃ちゃんは、眉毛をハの字に下げたまま私を見た。
うるうるときらめく、丸くて愛らしい瞳。
でも、可愛らしい雛乃ちゃんの顔を真正面から見ても、私の心はまったくざわつかないのだった。
健作と雛乃ちゃんは、本当に今はもうなんでもなかった。
ふたりは、本当にただの親友だった。
心配するようなことなど、モヤモヤする必要など微塵もなかった。
『2人がそれだけ無防備だってことは、逆に考えれば本当に何の心配もないってことだよ…』
数日前の和香の言葉が脳裏に浮かぶ。和香の言った通りだった。こんなことは、こんな感覚は、私立の一貫校では当たり前のことなのだ。
そしてその感覚は、一般的な世間の感覚とはズレている。
でも、その“ズレ”を本人たちが自覚してくれているのなら…。もうこれ以上、ありもしない妄想や嫉妬で自分を苦しめる必要は、まったく無いのだった。
心の中にずっと立ち込めていた霧が、すっきりと晴れたような爽快な感覚。
急におおらかな気持ちになった私は、ひとしきり笑い終わると雛乃ちゃんに言った。
「雛乃ちゃん、思い詰めすぎだよ。私が嫌な気持ちになるから転職するなんて、そんなこと言わないで。一緒にお仕事がんばろうよ」
しかし、すっきりとした気持ちにはなったけれど、ここ数日間ずっとモヤモヤとし続けたことは事実だ。
― 健作や雛乃ちゃんと、私は感覚が違う。それは明らかなんだから、ハッキリはしておかないと。
そう考えた私は、この機会に正直な気持ちを伝えておくことにした。
「正直に言うとね。確かに、雛乃ちゃんが健作の元カノで幼馴染って聞いてから、ちょっとだけ嫉妬しちゃう気持ちもあったの。きっと、雛乃ちゃんにはバレてたよね。
…だからさ、ひとつだけルールをつくってもいいかな?」
「ルール、ですか…?」
キョトンとした顔でこちらを見つめる雛乃ちゃんに、私が提示したのはこんなルールだった。
「私のためを想ってのことでも、もう絶対に隠し事をしないこと。
最初に知り合いだってことを隠されてたのが、変に疑心暗鬼になる原因だったと思うの。私、隠されるくらいなら、2人のこと何でも知りたいよ。
…健作とも雛乃ちゃんとも、これから長い長ーい付き合いになるんだから」
「千秋さん…!はい、もちろんです!」
すっかり打ち解けた私たちの元に、パスタセットの渡り蟹のトマトクリームスパゲッティが運ばれてくる。
パスタを食べながら、私と雛乃ちゃんは他愛もない話で盛り上がった。
白いブラウスに、真っ赤なソースのシミが付いてしまったことに気がついたのは…。
ずっと、後になってからのことだった。
▶前回:結婚式の打ち合わせに、なぜか“彼氏の元カノ”がやって来た。そこで彼の過去を暴露し始めて…?
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疑念は晴れた。嫉妬は終わった。そう思っていた千秋を襲った困難とは