ガラパゴス化した“もうひとつの日本”の実話! 南洋の孤島で戦い続けた最後の日本兵『ONODA』

 日本における終戦記念日は1945年8月15日だが、海外の前線に送られた兵隊の中にはかなり遅れて日本の無条件降伏を知った者も少なくなかった。フィリピンのルバング島に配属された小野田寛郎陸軍元少尉も、その一人だった。彼が日本の敗戦を受け入れたのは、1974年3月10日だった。それまではジャングルに潜み、約30年間にわたって知られざる戦争を続けていた。日本だけでなく、世界を驚かせたこの事件を映画化したのが、アルチュール・アラリ監督が撮った『ONODA 一万夜を越えて』だ。主人公である小野田の若い頃をオーディションで選ばれた遠藤雄弥、壮年期を津田寛治が演じ分けている。

 フランス人のアラリ監督は、小野田寛郎の自伝『わがルバン島の30年戦争』は読まず、フランスで1974年に出版された『ONODA 30 ans seul en guerre』をベースに映画化している。そのため日本で知られている小野田像とは異なるエピソードも描かれている。それにしても、小野田元少尉は投降の機会がありながら、なぜ戦い続けたのか。30年間にわたる孤島のジャングルでのサバイバル生活が、上映時間174分の中でリアリティーたっぷりに描かれている。

 小野田元少尉がジャングルに籠り続けた要因のひとつとして、彼が陸軍中野学校の卒業生だったことが挙げられる。陸軍にはスパイ養成機関としての中野学校、毒ガスなどの化学兵器の開発を目的にした習志野学校があった。陸軍に入隊した小野田(遠藤雄弥)は中野学校二俣分校への入校を命じられ、ゲリラ戦の戦い方を学ぶ。このときに出会った教官・谷口(イッセー尾形)が、小野田の運命を二度にわたって大きく左右することになる。

 小野田が中野学校に入校したのは1944年。戦局は悪化しており、日本での本土決戦が囁かれていた。中野学校の生徒たちはゲリラ兵となり、敵軍の日本上陸を少しでも遅らせることが使命だと教え込まれる。そのためには恥を捨てて、最後まで生き延びなくてはならない。

「君たちに死ぬ権利はない」

 谷口教官の教えを、小野田は30年間にわたって守り続けることになる。

 中野学校卒業生たちは、沖縄をはじめ各地へと飛び、敵軍を撹乱させるための秘密戦や情報戦の準備を進めた。小野田は見習い士官としてフィリピンのルバング島に配属されるものの、圧倒的な物量を誇る米軍の猛攻の前に何もできず、部隊が壊滅していくのを目の当たりにするだけだった。他の日本兵たちが次々と自決していく中、小野田は谷口教官の教えに従ってジャングルに潜み、ゲリラ戦を展開する。小野田に従うのは、島田庄一(カトウシンスケ)、赤津勇一(井之脇海)、小塚金七(松浦祐也)の3人だけ。4人は敵に見つからないよう、ジャングルを日々移動しながら反撃のチャンスを待ち続けた。

 1945年8月、米軍が撤退し、旧日本軍に向かって投降が呼び掛けられる。飛行機からは戦争が終わったことを知らせるビラが舞い落ちてきた。だが、中野学校で謀略戦について学んだ小野田は、これは敵国の巧妙な罠だと主張する。ビラの日本語に誤字があったからだ。他の3人も、小野田に従い、徹底抗戦することを誓い合う。

 ジャングルでサバイバル生活を続けた小野田の忍耐力は、常人離れしたものがある。だが、この優れた忍耐力と用心深さが悲喜劇を招く。海の向こうでは、米軍が朝鮮戦争、ベトナム戦争を始めていた。ベトナム戦争を題材にした『地獄の黙示録』(79)では、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐が、ジャングルの奥地に独立国を築き上げた。だが、小野田にはカーツ大佐のようなカリスマ性はない。あくまでも上官の命令を守る組織の一員として、ジャングルに留まる。小野田の気まじめさに引きずられ、4人だけの戦争が続く。

 米軍が消え、代わりに現れたフィリピン警察軍を相手に小野田たちは戦う。主な食料はバナナやヤシの実だったが、それだけでは栄養が足りないので、島で暮らすフィリピン人が放牧している牛を銃で仕留め、貴重なタンパク源とした。お米なども奪った。日本では英雄視される小野田だが、現地のフィリピン人にとっては山賊同然の存在だった。通報を受けたフィリピン警察軍や自警団との銃撃戦が交わされ、仲間は一人、また一人と減っていく。フィリピン側の犠牲者も多数に及んだ。1972年に小塚(千葉哲也)が亡くなってからは、小野田(津田寛治)ひとりっきりとなってしまう。

 ジャングルで50代を迎えた小野田を津田寛治が演じているが、本人によく似ている。津田は13kg減量して映画の撮影に挑んだそうだ。カンボジアでのロケ撮影は4か月にわたったという。ストイックな生活を送る人間の顔つきは、似てくるものなのかもしれない。

 英雄と狂人との違いは紙一重。狂気によく似た英雄談に、日本のひとりの若者が引き寄せられる。のちに冒険家として知られる鈴木紀夫(仲野太賀)だった。

「パンダ、小野田さん、雪男に会うのが夢」

 日本ではすでに死亡したと思われていた小野田に会うために、鈴木青年は単身でフィリピンのルバング島へと渡る。

 日本政府が派遣した大規模な捜索隊が探し出せなかった小野田に、鈴木青年はあっさり遭遇する。島でのテント生活を始めた鈴木青年に、ジャングルに隠れていた小野田は興味を抱き、銃を持ち構えながら近づいた。「小野田さんですか?」と鈴木青年は呼び掛け、持っていたタバコを勧めた。敵ではないかと疑っていた小野田だが、鈴木青年の全身に漂う邪気のなさを感じ、勧められたタバコを受け取る。鈴木青年の笑顔が、懐疑心の強かった小野田の心を開かせた。

 ジャングルでの30年に及ぶ生活を追ったこの映画には、さまざまなメタファーが潜んでいる。アラリ監督は市川崑監督の戦争映画『野火』(59)や同調圧力の恐ろしさを描いた若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)などから影響を受けていることを明かしている。また、アラリ監督はジョセフ・コンラッド(『地獄の黙示録』の原作者)やロバート・ルイス・スティーヴンソンなどの冒険小説が好きらしい。小野田がルバング島に潜み続けたのは、山下奉文将軍の隠し財宝を守るためだったという都市伝説もある。スティーヴンソンの『宝島』のような話だが、実際に今もフィリピンで財宝探しを続けている日本人やフィリピン人たちがいる。

 小野田たちが小さな島で戦い続ける様子は、ポツダム宣言を受け入れずにガラパゴス化した“もうひとつの日本”でもある。食料は限られ、捜索隊が残したラジオが唯一の娯楽という質素な生活だが、日本兵として祖国を守り抜くという頑強な信念が、彼らを支えた。だが、信念を貫くあまり、時代の流れから取り残されてしまう。閉ざされた環境にいた彼らは、一種の「エコーチェンバー現象」に陥っていたとも言えるだろう。平和な社会に顔をそむけ、ひとりぼっちになっても戦い続ける小野田の姿は、シルベスター・スタローン主演映画『ランボー』(82)のようだ。津田寛治がランボー、イッセー尾形がトラウトマン大佐に思えてくる。

 鈴木青年と小野田は親子ほど年齢が離れていたが、すぐに懇意になる。鈴木青年は一見すると平穏だが、学歴や資産が一生を決めてしまう戦後日本の風潮になじめず、大学を中退して世界各地を放浪していた。鈴木青年の目には、孤独な戦いを続ける小野田が魅力的な人物に映った。鈴木青年が島に渡っていなければ、小野田の日本への生還もなかったに違いない。

 映画は小野田がルバング島に別れを告げるシーンでエンディングを迎えるが、小野田は「最後の日本兵」として1974年3月12日に帰還し、日本中が大騒ぎとなる。30年ぶりに帰国した小野田が見たものは、平和であることが当たり前となり、すべてはお金が物を言う高度経済成長を遂げた日本社会だった。小野田のことを「軍国時代の亡霊」と中傷する声もあった。

 日本には自分の居場所がないことを悟った小野田は、半年後にはブラジルへと渡り、未開地を開墾しての牧場経営を始める。一方、脚光を浴びた鈴木青年は雪男の捜索というもうひとつの夢を実現するためにヒマラヤへと向かい、1986年に遭難死を遂げている。小野田元少尉も鈴木青年も、戦後の日本が失ったものを追い求め、それぞれ自分の戦いを貫いた。終戦記念日は必ずしも8月15日ではない。今の日本にも、孤立無援状態でサバイバル生活を余儀なくされている人たちは少なくない。

 

『ONODA 一万夜を越えて』

監督/アルチュール・アラリ 脚本/アルチュール・アラリ、ヴァンサン・ポワミロ

出演/遠藤雄弥、津田寛治、仲野太賀、松浦祐也、千葉哲也、カトウシンスケ、井之脇海、足立智充、吉岡睦雄、伊島空、森岡龍、諏訪敦彦、嶋田久作、イッセー尾形

配給/エレファント・ハウス 10月8日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開

(c)bathysphere

https://onoda-movie.com

2021/10/2 11:00

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