結婚式の打ち合わせに、なぜか“彼氏の元カノ”がやって来た。そこで彼の過去を暴露し始めて…?
あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?
「元カレとはもう、なんでもないから」
大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。
だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。
しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。
「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。
◆これまでのあらすじ
健作と社内恋愛中の千秋。会社の後輩・雛乃が、彼の元カノだということを知ってしまう。
別れても友達として付き合い続けることは「私立一貫校の内部生あるある」だと聞かされたものの、2人の関係にモヤモヤ。
そんなとき、結婚式の打ち合わせに「雛乃も呼ぼう」と提案され…?
▶前回:シンガポールに単身赴任中の夫には、内緒で…。娘の幼稚園受験に夢中な女が、隠していたコト
「ひなも呼びましょうよ!」
恵比寿にある『マーサーカフェダンロ』まで、わざわざ集まってくれた健作の友人・深山くんと菊田くん。
最初は、4人で和やかに談笑していたはずなのに。
突然そう言い出した菊田くんの顔は「名案が浮かんだ」とでも言いたげで、キラキラと輝いている。
海外渡航が夢と消えた今、今年予定していたハワイでの挙式は延期になった。
それでも、少しずつできることから進めておきたい。余興のVTRや、プロフィールを盛り込んだ小冊子の制作だけでも。
そんな目的で、彼らに依頼している会なのに。…なぜ、健作の元カノを呼ばなくてはならないのか。
マスクの下で思わず顔がひきつったが、菊田くんはハイテンションのまま続けた。
「いや、健作って中高はマンドリンクラブにすべてを捧げてたじゃん。俺と深山はクラスとか大学時代のことなら知ってるけど、クラブのことはあんまりわからないからさ。
ひなが千秋さんとも親しいなら、今ここに呼んで昔の話聞ければ、ちょうど良くない?久しぶりに、ひなにも会いたいしさ」
戸惑う千秋が、3人の前で言ったこととは…?
「確かに、それはある」
先ほどまで私を気遣ってくれている様子だった深山くんも「私と雛乃ちゃんが、すべてを承知の上で仲良くしている」という事実を知った今、この案に乗り気のようだった。
私が何も気にしていないと本気で信じている健作は、言わずもがなニコニコと賛成している。
和やかで、ポジティブな空気。しかもそれは、私と健作の結婚を祝うためなのだ。…もはや私には、込み上げるモヤモヤを押し殺す道しか残されていなかった。
ニッコリと微笑むと、3人に向かって明るく答える。
「そうですね、私は全然OKです」
30分ほど経った頃。
「ごめんなさい~!思ったより遅くなっちゃった」
テラス席のビニールカーテンをかき分けて、雛乃ちゃんが私たちの元へとやってきた。しかし私と健作の姿を目に留めた彼女は、目を丸くして歩みを止める。
「えっ、けんちゃん?それに、千秋さんも…」
「ビビった?これ、健作の結婚式の打ち合わせ!ひな、こいつの面白エピソードたくさん覚えてるだろ?VTRと冊子に盛り込むから、全部暴露よろしく!」
驚いた顔で固まる雛乃ちゃんに、菊田くんが笑いかける。どうやら彼女は、私たちがいることを聞かされずに呼び出されたらしい。
だが私は、そんなことよりも雛乃ちゃんの第一声が気になっていた。
― やっぱり雛乃ちゃんも、プライベートでは「けんちゃん」って呼んでるんだ。
会社では健作のことを「日比野さん」や「健作さん」と呼んでいたが、今は休日。それに旧友たちとの場だ。
気が緩むのも無理はない。むしろ会社という公の場では気遣いができている証拠、とも言えるだろう。
私は気分を切り替えると、精一杯の笑顔を心がける。
「雛乃ちゃん、お休みの日なのに来てくれてありがとう。よかったら協力してくれる?」
向かいに座った彼女に、悲しい気持ちを押し殺しながらメニューを差し出す。
「はい、私でよければ…!」
すると雛乃ちゃんも、可愛らしい笑顔を私に向けてくれた。そして…。私の本当の憂鬱は、この瞬間から始まったのだ。
テーブルに広げられた、たくさんの写真。それを1枚ずつ手に取りながら、雛乃ちゃんの思い出話は尽きることがなかった。
「中2の合宿のとき、課題曲が『星空のコンチェルト』なのに、けんちゃんはそのときハマってた『Love so sweet』ばっかり弾いてて…」
健作は、カラオケに行くといつも嵐を歌う。それに『Love so sweet』は彼の十八番だ。
「けんちゃんの家は食べ物に厳しすぎて、中3で初めてカツ丼を食べたんだけど。それから毎日、部活の後にカツ丼を食べに行ってて。あだ名が…」
健作の一番の好物は、今でもカツ丼だ。私が食べたいものを聞くと、いつだってカツ丼をリクエストする。
「高2のときかな?みんなで江ノ島の花火大会に行ったら、けんちゃんは感動しすぎて…」
江ノ島は、彼が大好きで大切にしている場所だ。私にプロポーズをしてくれたのも、江ノ島だった。
「も~、なんでそんなことまで覚えてるんだよ~!」
恥ずかしそうに笑い声を上げる健作の横で、私の気分はどんどん落ち込んでいく。
私の大好きな健作は、雛乃ちゃんとの青春によって作られてきた。そのことを、痛いほど思い知らされたのだ。
テンションがどんどん下がっていく私とは対照的に、雛乃ちゃんが話す健作の失敗談を聞いて、菊田くんと深山くんは涙を流すほどゲラゲラと爆笑していた。
そして、次の瞬間。深山くんは、耳を疑うようなことを言ったのだ。
「は~、おもしろ…。やっぱひなちゃん、細かいところまでよく覚えてるわ。さすが7年近く付き合ってただけあるね」
その言葉に、動揺した千秋は…
「えっ、7年も付き合ってたの?」
それまで当たり障りなくニコニコと話を聞いていた私だったが、今度ばかりは驚きのあまり、思わず声が出てしまった。
でも、4人の笑顔は崩れない。
「いやいや、千秋さん!まあ中高通してそんな感じだったけど、途中何回も別れてるから。実質そんなに付き合ってないよ」
「そうそう。本当、部活ばっかりで。カップルらしいことなんて何もしてないんですよ」
健作と雛乃ちゃんは笑いながら、なんでもないことのような軽い口調で弁解する。
「今となってはさ。お前たちが付き合ってたのとか、本当ネタだよな」
「うん、健作よかったな〜!ひなみたいなのじゃなくて、千秋さんという素敵な女性が見つかって」
「ちょっと!それは言い方ひどくないですかー?」
私の動揺はまたしてもこんなふうに、同窓会的な雑談に埋もれて流されてしまった。
呆然とする私の背後から、店員さんがそっと声をかけてくる。
私にとって最悪な結婚式の打ち合わせは、テラス席の利用が2時間半までだったことによって、どうにかお開きになったのだった。
◆
― なんだか、全然休めた感じのしない週末だったな。
翌日の月曜日。出勤日の私は、デスクのパソコンに向かってダラダラと客先へのメールを書いていた。
おとといの、居心地の悪かった会の帰り道。
2人になった健作は「楽しかったな」と上機嫌で、帰り際にはまたいつものように、下唇を噛むキスでじゃれてきたけれど…。
私は、うまく笑えていただろうか。そのときの私はヘトヘトに疲れていて、とにかく1人になりたかった。
― 健作は在宅勤務みたいでよかった。今日はランチデート、楽しめそうにない気分だったから。
雛乃ちゃんが健作の元カノだと判明してから、ずっとモヤモヤした気持ちが渦巻いている。
遠い過去のことに、嫉妬なんてしたくない。でも仲のいい2人を目の前にすると、いい気持ちもしない。
堂々巡りの思考で頭がいっぱいになった私は、小さなため息をつき、隣のデスクをチラッと一瞥する。
― もうすぐ雛乃ちゃんが、客先から帰ってくる。
予定では、昼頃にオフィスへ戻ってくるようだ。
手元のスマホが指し示す時刻は、11時40分。このままデスクに座っていれば、当然の流れで一緒にランチを買いに行くことになるだろう。
「難しいこと考えずに、普通に接してればいいのよ」
普段の私だったら、カラッとした気持ちでそう割り切れたかもしれない。
だけど、あの憂鬱な打ち合わせの疲れが癒えないままでいる今は、あまり彼女と一緒に行動したいという気持ちにもなれないでいた。
― 雛乃ちゃんを待たずに、今のうちに先に1人で出ちゃおうかな。うん、そうだ。そうしよう。
気分が乗らないときは、無理して会わなくてもいい。そう割り切った私は、おもむろに財布を持ってエレベーターへと向かう。
けれど、オフィスのドアノブに手をかけようとした瞬間。まるで私が来るのを待ち構えていたように、反対側からドアが開けられたのだった。
「あっ、千秋さん!今からランチですか?早いですね」
ドアを開けたのは、予感した通り雛乃ちゃんだったのだ。
いつも通りの柔らかな笑顔。目尻は優しげに下がり、肌は白くツヤツヤとしていて…。昨日見た写真の、中学時代の面影が残っている。
「うん、もうお腹すいちゃって。ごめん、先に行かせてもらうね」
心の準備ができていなかった私は、微笑みを浮かべながら、そそくさとその場を去ろうとした。
…でも。雛乃ちゃんは、それを許してくれなかった。
細い体をサッとドアの隙間に滑り込ませたかと思うと、後ろ手にドアを閉めて、強引に私の行く手を阻んだのだ。
「え…、雛乃ちゃん?」
彼女の顔に、もう柔らかな微笑みは浮かんでいない。そして厳しい眼差しをこちらに向けると、うなるようにこう言った。
「行かないでください。私、千秋さんに話があるんです」
▶前回:シンガポールに単身赴任中の夫には、内緒で…。娘の幼稚園受験に夢中な女が、隠していたコト
▶Next:10月6日 水曜更新予定
気まずい会から一夜明けた今。雛乃が千秋に話したいこととは