「鏡越しに…」安ホテルに住む外国人女性の誘惑に葛藤した夜
9月中旬、少し肌寒い日が増えるとともに、夏の終わりを実感する。もう秋は目の前である。この時季を迎えると、僕のことを「スウィーティー」と呼んだ、外国人の彼女との甘い夜(!?)の思い出がよみがえってくる。
◆突然、声をかけてきた女
あれは僕が21歳のときのことである。当時、僕は映画制作の仕事に就くことを夢見てニューヨークの映画専門学校に通っていた。脚本、撮影、編集などについての実践的な内容を8週間という短期間で教えてくれる学校である。
その授業の一環で撮影のワークショップを行っていた。クラスメイトと3人のチームを組んでマンハッタンの路地裏でカメラを回した。秋が深まってきており、冷たい風に吹かれた枯葉がカサカサと乾いた音を立てて石畳の上を滑っていた。
撮影を終えてカメラなどの機材を片付けていると、ひとりの若い女性が話しかけてきた。
「あなたたち、ここでなにしてるの?」
「映画学校のワークショップで撮影をしていたんだ」
「ふーん、そういうことなら私が出演してあげてもいいわよ」
「え?」
「私、女優を目指してるの。だから演技は得意よ」
「でも……」
僕は頭を抱えてしまった。彼女は濱田マリをカレーの中にぶち込んで三日三晩コトコト煮込んだような顔をしていた。その顔は僕のタイプではなく、僕の作品に出演してもらいたいという気にはあまりなれなかったのである。
「もう撮影終わってるから」
「でも、またなにか撮影するでしょ?」
「するけど、次の内容はまだまったく決まってないんだ」
「じゃあ、内容が決まったら教えてよ」
どうして彼女がこんなにしつこく食い下がってくるのか不思議だった。女優を目指しているというが、たかが映画学校の生徒の作品に出演したところで女優としてのステップアップに繋がるとはとても思えないのだが……。
「どんな内容にするにしてももうキャストは決まってるんだ。だから、ごめんなさい」
僕がそうはっきりと断ると、彼女はようやく諦め、しょぼんと肩を落として立ち去っていった。もうキャストが決まっているというのは嘘だった。
◆安ホテルで奇跡の再会
その数日後のことである。僕はタイムズスクエア近くの安ホテルをアパート代わりにして住んでいた。その日の授業を終えてそこに帰ると、ミニスカートを履いた女性が尻を振りながら階段を上がっていた。
いったいどんな顔をしているのだろうかと気になってしまった。二段飛ばしで階段を上がって彼女を追い抜き、さりげなく振り向いた。
「あ!」
そして二人同時に声をあげてしまった。数日前に僕に声をかけてきた彼女だったのである。
「どうしてここに……」
「あなたこそどうしてここに?」
「僕はここに住んでるんだよ」
「本当に? 私もここに住んでるのよ」
「え、そうなの?」
「よかったわ。あなたにはもう一度会って話したいと思ってたところなの。私の部屋に来なさいよ」
彼女はそう言うと、有無を言わせずに僕を自分の部屋に連れていった。
◆絶対に見ちゃダメだよ
その部屋にはベッド、タンス、テレビ、ビデオデッキ、CDコンポなど生活に必要な家具家電がひと通り揃えられ、ハンガーラックには何着もの服が吊り下げられていた。生活感に溢れており、彼女がここにかなり長く住んでいるであろうことをうかがわせた。
「ちょっと着替えるからあっち向いてて」
彼女がそう言って服を着替えはじめたので、僕はくるりと顔を背ける。が、その先にあったのは大きな鏡である。
「絶対にこっち見ないでね」
彼女は服を脱いであられもない下着姿になる。それがその鏡に丸見えになっていた。
「絶対だよ。絶対に見ちゃダメだよ」
彼女はバカなのか、それとも、わざとやっているのか。その真意がわからないまま、僕はその鏡をちらちらと見続けた。
着替えが終わると、彼女は僕にホットチョコレートを出してくれた。喉が焼けるかのように甘いそのドリンクをちびちびと飲みながらお互いの身の上話をした。
彼女の名前はエンジェルといった。アメリカ人だと思っていたのだが、違うらしい。が、その出身国は忘れてしまった。当時の僕は世界地理に疎く、知らない国名だったので、聞いてすぐに忘れてしまったのである。
「それはどこにある国?」
僕がそう訊くと、彼女は世界地図のヨーロッパの東のほうを指差していたような気がする。とにかく、エンジェルはニューヨークで女優になることを夢見てヨーロッパの東のほうから単身渡米してきたということである。
◆エンジェルの誘惑
「知り合いのディレクターに撮ってもらった私のPVがあるの」
彼女はそう言ってビデオデッキに一本のカセットテープをセットした。テレビ画面に映し出されたのは海沿いのどこかの公園である。そこにビキニ姿のエンジェルが立っていた。彼女はそのメリハリのあるセクシーなボディを見せつけるかのようにさまざまなポーズをとる。
それにしても、こうして見てみると、彼女の胸はかなり大きかった。Eカップ、いや、もしかしたらそれ以上あるだろうか。それが彼女の動きに合わせてぷるるんと揺れていた。
エンジェルの顔はタイプではなかった。が、その体の魅力には抗しがたく、僕の下半身は男として当然の生理現象を起こしてしまっていた。それを彼女に気付かれないよう、体勢をあぐらから体育座りに変えた。
何気なく視線をテレビから横に向けた。そして、はわわわわ……と気が動転してしまった。テレビに映っていたのとまったく同じものがそこにあった。僕のすぐ隣に座るエンジェルのタンクトップから胸の谷間が覗いていたのである。
「うううう……」
僕の性欲は爆発寸前だった。彼女を押し倒したいという獣のような衝動をギリギリのところで理性で抑え込んでいた。
「どうしたの? なんだかとても苦しそうよ」
エンジェルが僕の顔を覗き込んで訊いてくる。
「僕はぜんぜん大丈夫だよ」
しばらくして彼女はベッドの上に移り、艶かしい声をあげた。
「ああん……」
な、なんだ、今のは……。誘っている。あきらかに誘っているではないか! が、それでも僕はその誘いに乗るわけにはいかなかった。
恥ずかしながら、そのときの僕はまだ一度も女性経験がなかった。そして、はじめては絶対に好きな人と……と固く心に誓っていた。ここでエンジェルに僕のはじめてを捧げるわけにはいかなかったのである。
しかし、この部屋にいたら僕の理性が飛んでしまうのは時間の問題である。早々に退散することにした。
「もうそろそろ自分の部屋に戻るよ」
「もっとゆっくりしていけばいいじゃない」
「明日の撮影のために絵コンテを描かないといけないんだ」
「じゃあ、仕方ないわね。またいつでも遊びに来てね」
同じホテル内の自分の部屋に戻り、絵コンテの作成に取りかかった。が、脳裏にはビキニを着たエンジェルの姿がずっとこびりついており、絵コンテにはまったく集中することができなかった。
◆ニューヨークに残るべきか否か
それからというもの、エンジェルは頻繁に僕の部屋を訪れるようになった。そして僕を自分の部屋に連れていき、いつも必ずホットチョコレートを出して、自分の映っているビデオを見せてくるのである。
その日、彼女が僕に見せてきたビデオは日本のニュース番組を録画したものだった。ニューヨークで開催された日米対抗のカラオケ大会の様子をレポートしていた。
「これに私も出場したのよ。アメリカ側でね」
しばらくしてエンジェルの姿が映し出された。サンバカーニバルのような派手な衣装を着てグロリア・ゲイナーの「I will survive」を歌っていた。
「へー、歌も歌えるんだ。すごいね」
「いろんなことをマルチにこなせる女優を目指してるのよ」
ビデオが終わると、エンジェルはベッドの上に移って「ああん……」と艶かしい声をあげる。僕はホットチョコレートを一口飲み、ゆっくりと深呼吸をして自分の心から邪念を追い払う。彼女の部屋にいるときはいつも精神修行をしているかのような気分だった。
そして数週間が過ぎ、僕の通っていた8週間の映画学校ももう間もなく終わりを迎えようとしていた。その頃にはエンジェルは僕のことを「スウィーティー」と呼ぶようになっていた。
「ねえ、スウィーティーは学校が終わったらどうするの」
「日本に帰るよ」
「ニューヨークに残ればいいじゃない」
「そうはいかないよ。ビザが切れるし、お金だってもうないし」
「そういうことなら私に任せてよ。私も外国人だし、ビザのことはそれなりにわかってるから。仕事を探すのも手伝えると思う」
「本当に?」
「もちろん。ニューヨークに住む外国人同士、助け合っていきましょうよ」
自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がって考えた。学校が終わってからもニューヨークに残りたいという気持ちはあった。映画監督、役者、ミュージシャン、ダンサー……などを目指す人たちが一堂に会してバチバチに火花を飛ばし合う。これほど刺激的な都市は他になく、その空気を吸えるというだけでも僕にとっては毎日が夢のようだった。が、その一方で日本の生活が恋しくなりはじめている自分もいた。
◆映画学校の修了を迎えた日
エンジェルの助けを借りてニューヨークに残るか、それとも、日本に帰るか……。僕の心はその2つの選択肢の間でいつまでもふわふわと揺れていた。
そしてついに映画学校の修了を迎えた日の夜のことである。
トン、トン。
僕の部屋のドアがノックされた。
「スウィーティー、私よ」
いつものようにエンジェルが僕を迎えに来たのだ。が、僕はベッドの上でじっと息を潜めて居留守を使った。長い葛藤の末、結局、僕は日本に帰ることを選んだのだ。
しかし、もしエンジェルがナタリー・ポートマン似の巨乳だったならば、僕は間違いなく彼女の助けを借りてニューヨークに残ることを選んでいただろう。巨乳はたしかに魅力的である。が、それだけで男を引き止めることはできないのだ。
「ねえ、スウィーティー、開けてよ。いないの?」
僕が居留守を使い続けると、やがてドアの向こうから彼女の気配が消えた。そして窓の外から聞こえてくるマンハッタンの夜の喧騒だけが室内を満たしていった。
<文/小林ていじ>
―[「夏の恋愛」失敗談]―
【小林ていじ】
バイオレンスものや歴史ものの小説を書いてます。詳しくはTwitterのアカウント@kobayashiteijiで。趣味でYouTuberもやってます。YouTubeで「ていじの世界散歩」を検索。