恋に悩むアラサー男が、訳あり人妻から受けた“禁断の”レクチャー
夏・第3夜「謀る女」
「この先の街へ通じる道が、土砂崩れで遮断されたらしいよ」
昨夜まで降り続いていた雨が、今朝は止み、久しぶりに青空が広がっていた。その空を見た僕は、発作的に奥多摩に来ていた。
ここは、道が空いていれば都心から車で2時間くらいで来れる自然の宝庫だ。
僕は、釣りやデイキャンプが趣味なのだが、百貨店勤務で平日休みが多いため、一人ででかけることが多い。
今日も、渓流釣りをするために、一人でやって来た。
しかし、土砂崩れが山道をふさいでしまっては帰れない。僕は夕方立ち寄った釣り小屋でそのことを聞いて、立ち往生してしまった。
「そうですか…参ったな、車はあるけど通れないんじゃ帰れないな…」
「じゃぁ、この近くの宿に聞いてあげようか?
気のいい夫婦がやってる小さなペンションで、渓流が見えるから夏は人気でね。奥さんが少し足が不自由だから平屋で4部屋しかないんだけど。梅雨時の平日ならきっと空いてるさ」
「すみません、その宿を紹介していただけますか?」
いかにもお人好しそうな、親父くらいの年のおじさんが、釣り小屋の売店の奥で電話をしてくれた。僕は少しほっとして、窓の外を見る。
朝は晴れていたのに、夕方になりしとしと雨が降り始め、山は一層薄暗くなってきた。
雨の夜、山に閉じ込められた男が出会った奇妙な夫婦とは?
女主人のもてなし
「時田さま、今日は本当に大変でしたね」
21時頃、夕食を食べ終えた僕は、ペンション「シークレットガーデン」のダイニングで一息ついていた。
「他に予約がなくて、時間も遅かったから、急ごしらえで…。フルコースというわけにいかなくて、ごめんなさい。でも、主人が近所に食材を分けてもらいに行ったから、朝食は期待していてくださいね」
釣り小屋のおじさんの口利きもあり、ペンションのオーナー夫妻は、急な宿泊客を快く受け入れてくれた。
4部屋しかない小さなペンションで、ちょっとかっこいい40くらいのオーナーと奥さん二人で切り盛りしている。
ヨーロッパのコテージのような外観と内装で、抑えた照明が素敵な宿だった。
「ご旅行でいらしたんですか?まさか道がふさがるなんて、都心の方はびっくりしますよね」
フルコースを出せなかったお詫びに、と奥さんがご馳走してくれたワインとオリーブをちびちびやっていると、彼女がオープンキッチンを片付けながら話かけてきた。
「まあ、旅行っていうか、気分転換に釣りにきたんです。家にいると、ろくでもないこと考えちゃうから」
「あら、どんな?」
エマ、と木で彫った小さなネームプレートをつけた奥さんは、ちょっと驚いたようにこちらを見た。
30代前半くらいだろうか、歳は僕と変わらないように見える。小柄で肌が驚くほどきれいで、黒目がちな瞳が印象的だ。
「…僕、2年付き合っていた彼女に、急にフラれてしまって。ちょっと青天の霹靂だったので、どうしていいかわからなくて」
「セイテンノヘキレキ。ずいぶん難しいこと、おっしゃいますね」
エマさんは、何がおかしいのかクスクスと笑いだした。
その可愛い笑い声とワインの力で、僕は肩の力が抜けた。一人旅を気取っている大人の男というポーズなんて、このダイニングで誰も求めてない。
「いや、でもね…いまだになんでフラれたのかよくわからないんです。だって、2年間すごく楽しかったし。最後のデートだって、映画を見て、ご飯食べて、とっても平和だったんですよ」
僕は瑞穂のことを思い出して、なんだか泣きそうになった。
照明を落としたダイニングは、雨が降り注ぐ音さえも聞こえるような静かな空間だった。感傷的になるなというほうが無理だ。
「瑞穂はWEBデザイナーなんですけど、最近独立して、すごく忙しそうだった。
僕はできる限り、彼女を応援しようと頑張ったつもりだったんだけど…。休みが合わないことが大きかったのかもしれないな。
どちらにせよ、もう僕ができることなんて何もないですよ」
「そうかしら?本当に?」
突然、エマさんが、こちらを強い目で見た。
「復縁できるチャンスは、まだまだあるんじゃないですか?」
このあと、エマによる禁断のレクチャーが始まる…!?
復縁の理由
「復縁?瑞穂とやり直すことができるんですか?」
僕は驚いて、キッチンでグラスを磨いているエマさんを見つめた。
「まだ、好きなんですよね?一回別れようって言われたくらいで諦めちゃうんですか?
私なんて、ここだけの話、お付き合いしている頃、主人に何回も別れようって言われましたけど、聞き入れませんでした」
「え!?今のご主人に?」
僕は、にこにこと料理を作ってくれたこのペンションのオーナーを思い浮かべる。背が高く、精悍な顔立ちの、なかなかカッコいい人だった。
飛び込みのゲストのために、こんな夜更けの雨の中、食材を調達に行ってくれるくらいだから、きっと性格だっていいんだろう。エマさんが粘って結婚したのかと思うと、余計に彼がいい男に思えてくる。
「まあでも、それはエマさんだから。きっとオーナーも、別れるなんて本気じゃなかったんですよ。僕はそんな風にうまくいくとは思えないな…」
エマさんは、するとそこでまた不思議な感じにほほ笑んだ。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「…時田さま、ワイン、もう少し召し上がりますか?そうだ、ちょっと珍しいいただきものがあるんです」
そしてエマさんは、ひょいと不安定なスツールに乗って、ワインセラーの一番上の右端のボトルを取り出し、ぴょんと飛び降りて、にこっと笑った。
― あれ?なんだか…。
その時湧き上がった違和感は、形になる前に、オーナーが帰宅したエンジン音にかき消された。
「あ!主人が帰ってきたわ」
エマさんは、ワインを素早く注ぐと、玄関にオーナーを迎えにいった。
「あなた、おかえりなさい。今、時田さまに私たちの馴れ初めをお話していたのよ」
エマさんは、「あなたもどう?駆けつけ一杯」とオーナーにグラスを差し出す。
「時田さま、エマがつまらない話をお聞かせしたようで…すみません。おしゃべり好きな女なんです」
オーナーは、エマさんから赤ワインのグラスを受け取ると、僕と乾杯のしぐさをしてから、一口、飲んだ。
「いえ、僕がフラれたっていう話をしたら、エマさんが慰めてくれたんです。実は僕、来週の彼女の誕生日にプロポーズをしようとしていたんですけど、フラれてしまいました」
酔いも手伝い、なんだか笑い話にしてしまいたくて、僕は告白した。
「プロポーズしてみたらいいじゃないですか。どうせ失くすものなんかない。僕も若い頃は、こいつの大事さに気づけなくて紆余曲折ありました」
「どうして気づいたんですか?」
そこに復縁のヒントがあるかもしれないと、僕はつい不躾な質問をしてしまう。
「いや、お恥ずかしい話なんですけども、僕とエマがドライブデートをしていて、交通事故にあってしまって。
エマはその事故がもとで、ご覧のように少し右足を悪くしてしまいました。日常生活にはさほど影響はないと医者は言いましたが、とくにこんな天気の日は痛むようで。
原因は明らかに僕の過失なのに、エマは僕を一切責めずに、それどころかそれまで以上に笑顔で優しく接してくれた。そして夢だったオーベルジュを開くという計画も心から応援してくれました。そんなできた女性とは、結婚するしかないでしょう」
「もう、あなた、恥ずかしい、時田さまがびっくりしてるわよ。さあ、お風呂に入ってきて。袖が雨で濡れているわ」
エマさんが、オーナーを風呂場に急き立てる。
「時田さま、お邪魔してごめんなさい。ゆっくりしていらしてください。グラスもそのままにしておいてくださいね」
そしてエマさんは、オーナーが風呂場に向かったのを確認すると、そっと目くばせして、その場でトントンと足でリズムをとった。
バレエシューズのような部屋履きをはいた右足は、しっかりと重心を支えている。
「まだまだ、やれることは、ありますよ、時田さま。男と女の間のことは、手段を選んではいけません」
おやすみなさい、と彼女は甘く囁いて、ダイニングを出て行った。
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