恋愛を諦めた1人の医師。そんな彼の心を捉えた、忘れられない女性とは…
憂鬱(ゆううつ)―。
まるで曇り空のように、気持ちが塞ぎ込んでしまうこと。
失恋を経験した人だったら、少なからず経験したことがある感情だろう。
”ドクターK”と呼ばれる男も、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。
彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。
恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?
恋を忘れたドクターK、39歳
僕は、もう本気で人を好きになることはない。
20代の時にある女性と別れて以来、ずっとそうだ。あんなに好きになれる人は、きっともう現れないと思っているから―。
◆
「影山、週末何やってんの?」
短い昼休憩中、病院の食堂でうどんを啜っていると、同僚が声をかけてきた。
「金曜日と土曜日は、群馬の病院でバイト。日曜日は一日中寝ていたい」
僕は、そっけなく返答した。
同僚の明石は、東京大学医学部時代の同級生。これまで彼女ができれば報告し合い、時にはお互いの彼女を連れて一緒に旅行したこともある親しい仲だ。
「うちの奥さんの後輩を紹介しようと思ったんだけど、相変わらずつれないなぁ…」
呆れた顔で、明石が続ける。
「お前、鍛えてるからいい体してるし、清潔感もある。ちょっと口下手なところをのぞけば、女にモテるはずなんだけどなぁ」
彼の心配をよそに、僕は答えた。
「別に、女には不自由してないよ」
医師という肩書きを魅力的に思う女性は多く、正直、こんな僕でもその気になれば付き合う女性には困らない。
そこまで時間に余裕がない、というのも本音だ。
僕は消化器外科、明石は整形外科に所属している。要領がいい明石は、忙しい合間を縫いながら独身生活を謳歌し、昨年あっさりと別の病院の看護師と結婚した。
「とりあえずさ、日曜日の夜、来られるなら連絡しろよ」
その時、明石に呼び出しが入る。
「俺、医局から呼び出し来たから行くわ」
彼は急いで食事を終え、大慌てで去っていった。
― まったく…。あいつ、僕が恋愛する気がないってわかってるのに。
僕が”恋”を諦めたきっかけは、今から12年前にさかのぼる。
医者として生まれた運命を思い知らされる、12年前の出来事とは
恋を諦めた27歳
「おかえりなさい。クリームシチュー作ってあるよ」
研修医時代、僕には美憂という彼女がいた。彼女は僕よりも一足早く家に来て、食事を作って帰りを待ってくれていたものだ。
2つ下の美憂とは、大学を卒業する直前にテニスサークルで知り合った。僕が研修医になりたてだった25歳のとき、知り合いを通じて再会したのがきっかけで付き合い始め、気がつくと2年が経っていた。
東京女子大出身で、大手銀行勤務。派手さはないけれど、素朴な印象の小柄で可愛い子だ。
「やったー!めちゃくちゃ腹減ってんだ!」
根が真面目な僕は、周りの研修医のように適当に遊ぶということができなかった。
医者の卵だからといって言い寄ってくるキラキラした女の子たちを、いつも警戒していたのだ。
美憂は秋田出身。真面目な性格で擦れてもなく、安心して付き合うことができた。
「クリームシチューにはやっぱりご飯だよね?私いつも上にかけちゃうの」
美憂のこういう気取らないところが好きだった。僕の実家では、クリームシチューはパンと一緒に出てくるけど、彼女の作る素朴な料理が忙しい僕の楽しみになっていた。
当時の僕は、いろんな科を決められた期間でローテーションする初期研修の時期で、目まぐるしい毎日を過ごしていた。
病院にいるときは電話に出られないし、メールやSNSも禁止されている。
僕は時間があるときに「疲れた」とか「ねみぃ」とか、ただの愚痴とも取れる1行メールを送るくらいだったが、彼女はそれを「生存確認」と言って喜んだ。
「合鍵、もらってもいい?」
彼女にそう言われた時、「本気で僕のことを思ってくれてるんだな」と正直嬉しかった。
なかなか連絡ができなくても、健気に家で待っていてくれる美憂を見て、結婚するならこういう子がいいのかもと思うようになっていった。
◆
研修医になって3年が過ぎた、ある日。
「修史、ちょっといいお嬢さんがいるの。一度会ってくれないかしら?」
僕は神戸に住んでいる母から、初めて見合いの話を持ちかけられた。
「研修が忙しいから無理だよ。それに僕、彼女いるしさ。今度紹介するよ」
その時は、適当にあしらって電話を切った。
きっと美憂と会えば、見合いさせようなんて思わないはず。礼儀作法だの家のしきたりだのにうるさい母だが、有名女子大を卒業し、メガバンクで働いている美憂なら文句の付けようがないだろう。
だから、しばらくして「東京に行く用事ができたの」と母から連絡があった時、僕は美憂を紹介しようと決めたのだ。
帝国ホテルのラウンジで待ち合わせし、お茶をしている間中、話し下手な僕が間に入らなくとも、2人は話が弾んでいたように見えた。
それを見て、ひょっとしたら母も、彼女を気に入ってくれたのかもと僕は期待した。
病院を継ぐ男に課せられた、厳しすぎる結婚相手の条件
しかし、美憂を紹介した日の夜、母から連絡があった。
「素敵なお嬢さんだけど…結婚だけは、やめてちょうだいね」
そうは言われたけれど、僕は大して重く捉えなかった。時が経てば、母も許してくれると思っていたからだ。
だが、僕の考えが甘かった。
母はSNSで美憂を探して、「修史とは別れてほしい」と伝えていたのだ。
母の言い分はこうだ。
僕はいつか、父が経営する病院を継ぐ身である。今理事長を務めている父親は地元の政治家とも親交が深く、世間体を保つためにも、僕の結婚相手は良家のお嬢さんでないと話にならない。
「私、お母様からよく思われていなかったみたい…」
美憂からその一部始終を打ち明けられても、僕は「ごめんね」としか言うことができなかった。
母のことを疎ましく思う気持ちは、少なからずある。だが、すべては実家の病院を考えてのことだと思うほかなかった。
それに両親の反対を押し切ってまで美憂と結婚しても、その先にそれぞれの幸せがあるのか、僕にはわからない。
この一件以来、僕は無意識的に美憂を避け、仕事に没頭するようになった。
そして美憂も同じように、母から別れるように言われて以降、少しずつ家にくる頻度が減っていった。
顔を合わせる機会が減り、僕の中での美憂の存在も段々と薄れていく。
僕の短い休憩時間中に、彼女へ欠かさず送っていた短いショートメールも、気がつけば2ヶ月も間が空いてしまっていた。
― どうせ結婚しないんだから…。
そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
しばらくして、何気なく彼女のFacebookを見た時、僕との関係はもう終わったと一目見てわかる写真がアップされていた。
美憂が僕の大学の後輩と腕を絡ませ、幸せそうに笑っていたのだ。
「こういう大人しそうな子の方が、意外としたたかなんだよ」
明石の一言で、僕は少し救われた。
― そっか。僕のことが好きとかじゃなく、ただ医者と付き合いたかっただけなのかもな。
気になる子がいたこともあったし、僕に興味を持ってくれる子もいた。だけど、「付き合おう」の一言を、それ以来口にしなくなった。
ズルイとは思うけど、どうせ僕に自由な恋愛は許されない。
決められた相手と結婚するまで、女性は遊ぶだけの、その時を全力で楽しむ関係でいい。
そう思っていた。あの時までは…。
彼女と出会った34歳
それから7年が経ち、34歳になった僕は、医師として働き始めてから4年目の春を迎えていた。
「おい、影山。週末、うちの親父が知り合いと一緒にクルーザーで初島に行くんだけど、お前も来ない?」
世話好きの明石は、時々僕を飲みの席や遊びに連れ出してくれる。この週末は珍しく地方病院でのバイトがなく、天気もよさそうだ。僕は明石の誘いに乗ることにした。
明石の父親は麻布周辺の一等地にいくつもの不動産を所有し、あの界隈で幅を利かせている名士である。
朝9時。明石の車で逗子マリーナに着くと、明石の父親とその友人たち、そして数人の女性が楽しそうに談笑していた。
「明石ジュニア、遅刻!遅いじゃないの!」
ある女性が僕らに気づき、真っ先に声をかけてきた。
白いサマーニットにエミリオ・プッチのショートパンツ。男性陣を前に美しい脚を惜しげもなくさらしたその女性は、シャネルのビーチサンダルをペタペタと鳴らしながら、僕らの前にやってきた。
歳は僕らよりも上に見えるが、年齢を感じさせないほどに綺麗で、洗練されていた。
「すいません、愛子さん。こいつが寝坊したんですよ」
明石が適当なことを言い、茶々を入れた。
「ほら、お友達のセンセも早く」
臆せず僕の腕をとり、笑いかけてきた彼女を見て、僕は思わずドキッとしてしまった。
この時、僕はまだ、彼女の正体を知らなかった…。
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