『青天を衝け』では後半に描かれるか――渋沢栄一に影響を与えた尾高惇忠の愛娘 富岡製糸場の人身御供になり女工の歴史を変えた?

 今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公、渋沢栄一。その栄一に大きな影響を与える人物としてドラマに登場するのが従兄弟にあたる尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)だ。栄一の妻、千代は惇忠の妹だから栄一にとっては義兄にもあたる。

 学問に秀でた人だったようで17歳で私塾、尾高塾を開き、栄一を含む近所の子供たちに漢籍に論語、そして剣術を教えた。唯、水戸学に早くから感化され、筋金入りの尊王攘夷派となってしまったから、開国に舵を切った徳川幕府には批判的になり、高崎城乗っ取りや横浜商館焼き討ち計画などのテロを企てる。ドラマの中で田辺誠一演じる惇忠が「幕府を転覆させる」などと叫びながら、栄一らを煽る姿は今の感覚で言えば、テロの首謀者だ。幸いにもこれらの無謀な企てはどれも実行に至らず、淳忠も栄一も事なきを得た。

 淳忠はその後、栄一が徳川最後の将軍、徳川慶喜に仕えるようになると考えを改め、幕府を支持する佐幕派に転向していく。1868年(明治元年)に戊辰戦争が始まると彰義隊、振武軍に加わり、各地を転戦。新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった函館戦争にも参加している。

 榎本武揚ら函館政府降伏後は故郷の下手計村(しもてばかむら、現在の埼玉県深谷市下手計)に戻るが、1871年(明治4年)、大蔵省の官僚になった渋沢栄一の縁もあり、群馬県富岡に設立された官営・富岡製糸場の初代所長となる。2014年6月に世界遺産に登録されたあの「富岡製糸場」だ。

(見出し)新工場を建てるも工女が集まらず フランス人は若い娘の生き血を吸う

 

「殖産興業・富国強兵」を推し進める明治政府は生糸を日本の輸出の要にしようと、その品質改良と大量生産に乗り出した。

 その要となったのが富岡製糸場だ。生糸技術者であったフランス人のポール・ブリュナ、4人のフランス人工女を含む10人を高額の給与でお雇い外国人として雇い、大量生産を可能にする器械製糸技術の導入を図る。

 1871年(明治4年)3月から建築が始まった工場は翌年の1872年(同5年)の夏までには主な建物が完成する。後は工場の操業開始を待つだけであったが、工女募集の通達を各地に出してもまったく人が集まらなかった。

 惇忠は当初、1871年の廃藩置県で家禄を失った武士階級の娘らが応募に殺到すると見込んでいたが、その目論見は見事に外れる。工場周辺の住民が、お雇い外国人のブリュナらフランス人が飲む赤ワインを見て血と思い込み、しかもそれが若い娘たちの生き血だとするデマが瞬く間に広がったからだ。

「富岡製糸場に娘を送れば外国人に生き血を取られる」

 この噂の打ち消しに政府は何度もこれが根も葉もないことを説く「告諭書」を出すが、それでも工女は集まらない。

意を決した惇忠は当時14歳だった長女の「勇(ゆう)」を説き伏せ、工女第一号として入場させる。当時の工女の募集要項は15歳から25歳。惇忠は年齢に達していなかったが背に腹は代えられなかったようだ。勇の決断は同じ下手計村の同世代の少女たちを刺激したようで5人の少女たちが勇と共に入場する。

 惇忠はその後、域内の村々へ工女の募集に行く際は娘の勇を同行させ、「工場長、自らが娘を入場させているのだから富岡製糸工場は安全である」と説き、工女たちを集めていく。

 こうして、富岡製糸工場は当初予定の1872年7月から3カ月遅れの10月4日から操業を開始する。最終的には32道府県から工女が集まり、550人以上の工女たちが繰糸器械を操りながら、生糸生産に携わるようになっていく。技術伝習工女とも呼ばれた彼女ら工女は、技術習得後はそれそれの地元に戻り、最新の技術を広げることで日本の生糸産業を支え続けた。

 日本の生糸輸出は1909年(明治42年)に世界一となり、世界市場の80%を占めるまでになるが富岡製糸場はその象徴だった。

 これもよくよく考えれば、父である惇忠の窮状を見かねた勇のけなげな決断によるところ“大”だが……。ただ、今回の大河ドラマ『青天を衝け』では少女時代の勇を、子役の和田葵が演じているが、いまのところこれといったセリフもない。歴史の陰に隠れがちな存在とはいえ、日本の産業近代化に大きく寄与した勇。明治期を描くドラマ後編では、父の惇忠だけでなく、勇のもう少しの登場を期待したいところだ。

2021/5/1 17:00

こちらも注目

新着記事

人気画像ランキング

※記事の無断転載を禁じます