『光る君へ』興福寺・僧のスピリチュアリズムと式部の「殿御は皆かわいいもの」の真意

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回・第34回の『光る君へ』で描かれた、興福寺の僧たちが自分たちの要求をいくつか通そうと御所で暴れる様子に衝撃を受けた方もおられるようです。しかし、大暴れしたわりには道長(柄本佑さん)の毅然とした態度により、ほぼ要求は通らないことになりました。しかし興福寺の別当(代表者)・定澄(赤星昇一郎さん)が「ひとつでもこちらの望みが通ったならば上出来だ」と言っており、その成功率の低さに疑問を感じたという声もありました。

 ほかならぬ筆者もこれには驚いたのですが、道長の時代には興福寺で「強訴」のシステムが完成されていなかったことから、かなり迷信深かった史実の道長でさえ、強気に振る舞えた部分があったようです。

 しかし、12世紀以降には興福寺の別名・山階寺(やましなでら)から「山階道理」という言葉まで生まれるほど、どんなメチャクチャな理屈でも興福寺の僧たちから強訴されると、朝廷が要求をのまざるを得なくなる状況が生まれました。

「要求の大半が通らないことを見越した上で、京都で暴れてみる」のが道長の時代の興福寺による強訴だとすれば、平安時代末(院政期)にもなると、朝廷を意のままに操るための方法が興福寺で確立され、強訴の成功率も上がったのです。

 それでは、具体的にはどのような変化があったのかというと、御神体の持ち出しが行われるようになったのです。当時、興福寺が一体化していた春日大社の本殿に安置されている御神体の「神鏡」を榊の枝につるし、それを僧兵たちの手で京都まで運びいれ、「興福寺のいうことを聞かないと神罰が下るぞ」という脅しが行われるようになりました。記録では、こうした訴えが最初に起こされたのは寛治7年(1093年)の「春日神木入洛事件」だとされています。

 明治時代以降、政府の方針で寺と神社は別物ということになりましたが、それ以前では「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、仏教と神道が一体化しているケースがよくありました。そして、興福寺は春日大社の御神体の威光を背景に、朝廷を強請(ゆす)る方法を編み出したのでした。こうした「神鏡」を使った強訴を「神木動座」と呼びますが、さすがに御神体を持ち出すのですから、興福寺側でも本当に強訴を行うべきかを僧侶全員が顔を隠し、声音も変えて、誰の発言かはわからないように協議した上での決行だったそうです。

 さらに前回のコラムでも触れましたが、興福寺は藤原氏の氏寺で、朝廷の高級役人たちの大部分を藤原氏出身者が占めていた時代に、興福寺から「自分たちの言う事を聞かない藤原の誰それは、もはや藤原氏の者とは認めない」と宣言される「放氏」を行われると、謹慎するしかなくなるのでした。そうなると朝廷も機能麻痺に陥るのです。

 こうした興福寺の強訴の手法は、比叡山・延暦寺や、後にはさまざまな寺社が真似るようになっていきました。前回のドラマには検非違使(現在の警察官のような役人たち)たちが、宮中に侵入した僧たちを追い払ったというセリフがありましたが、後には「神鏡」を掲げ、訴えを起こしている僧たちを攻撃しようものなら「神の怒りに触れて死ぬ」、「弓矢も地面に落ちるから届かない」とまで信じられるようになっていたのです。

 そんな中、道長の時代よりも150年ほど後の話ですが、平清盛が八坂神社こと祇園社に仕える「神人」たちと小競り合いを起こし、清盛たちが放った弓矢が神輿に突き刺さって大騒ぎになるという事件も起きました。久安3年(1147年)6月15日の「祇園闘乱事件」です。

 当時から、こういうスピリチュアルな何かは、信じる人は信じるけれど、信じない人はまったく信じなかったのでしょうが、宗教的権威を背景に寺社がやりたい放題に振る舞えたのが、平安時代末の11世紀~室町時代後半の16世紀くらいまでの日本だったのですね(さすがに本格的に戦乱の世ともなれば、神威も霞んだというべきでしょうか)。

 さて、前回のドラマでは、藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)の書いた『源氏物語』が宮中の人々の間で評判を呼んで、皆がその虜になっていく様子が描かれました。まひろが執筆している局(つぼね)に一条天皇や彰子が足を運ぶ描写を見て、史実でもこういうことがあったのかが気になる方もいたかもしれません。

 寛弘5年(1008年)の秋、当時の宮中の慣例で、お産を控えた彰子(ドラマでは見上愛さん)が実家にあたる土御門第に宿下がりしていた頃には、一条院にいる天皇(ドラマでは塩野瑛久さん)のために『源氏物語』の草子をせっせと作っていたという記録が『紫式部日記』には出てきます。紫式部は毎朝、彰子のもとに参上し、昨晩に書いた原稿の清書をお願いしたそうですね。

 一条院にいる頃には、天皇の訪問もあったのではないでしょうか。ドラマではボカされていますが、史実の一条天皇は相次ぐ火事の結果、平安宮(御所)を出て、臣下の邸宅を御所風に改築したところ――いわゆる「里内裏(さとだいり)」で暮らすようになっていたからです。

 長保元年(999年)6月の火災以降、一条天皇は崩御するまで、母・詮子(ドラマでは吉田羊さん)の手で里内裏として改装された一条院で暮らすことが多く、中宮の彰子や、その女房である紫式部も一条院に出入りしていたのでした。一条院は、平安宮の北東に隣接する大邸宅とはいえ、さすがに宮中よりは手狭で、自由な空気があったようですね。

 ちなみにドラマの彰子だけは『源氏物語』の「面白さがわからぬ」と、作者にス トレートすぎる感想をぶつけていました。そういう内容は『紫式部日記』には出てきませんが、たしかに『源氏物語』のあのあたりの部分の光源氏は、ドラマの彰子が「何をしたいのかわからぬ」と評するにふさわしい問題行動を繰り返しており、義母の藤壺 の宮に手出しして密通し、兄・朱雀帝の婚約者といえる朧月夜という女性も寝取ったりもしています。

 前回のドラマでは、庭にやってきた鳥を見て、まひろが光源氏が運命 の女性――まだ少女時代の紫の上に出会う 『若紫』の内容を思いつくシーンがありましたが、『若紫』の巻より、少し先の『須磨』の巻では、右大臣家の姫君・朧月夜 とのスキャンダルが露見し、しかし正式な結婚を拒否したので罪を問われ、具体的な罰が下される前に都を逃げ出し、須磨に避難せざるを得なくなりました。そんな光源氏だからすべては自業自得なのですが、物語内ではなぜか「光る君のなんと哀れなこと!」という扱われ方で、(おそらくドラマの彰子のように)光源氏が好きではなかったり、ドラマの男性登場人物たちのように光源氏に自己投影できていない場合、意味不明な部分はたしかにあるのですね。

 物語の主人公で、帝の皇子で絶世の美男子という「だけ」の光源氏が、とにかくもてはやされ、何をしても許される異常な状況が際立つのが、そのあたりの『源氏物語』の特色ともいえるでしょう。ドラマでは、『桐壺』の巻から順番にまひろによる『源氏物語』の執筆は続いているようですから、まさに彰子も『須磨』のあたりまで読んで「なに、この話」と思っていても、おかしくはないと感じました。

 また、まひろが彰子に「殿御は皆かわいいもの」とアドバイスしていた内容についてですが、『源氏物語』にもそう思える部分があるのかどうか、気になった方もおられるでしょう。

 かつてドラマでは「熱愛の記録」ということになっていた藤原道綱母(ドラマでは財前直見さん演じる藤原寧子)の『蜻蛉日記』同様、『源氏物語』に対する『光る君へ』流の解釈といえるでしょうか。あるいは、物語の多くの女性キャラの精神年齢が、光源氏よりも高くなったとき、彼の幼稚さやワガママも許せるようになっていくケースもあるにはあるのですが(それを瀬戸内寂聴さんは「心の背丈が伸びた」などと表現)、そういう意味で「殿御はかわいい」と表現できるのかもしれません。

 ただ、それは晩年の紫の上や、もともと男性にあまり期待していない花散里など、女性側が光源氏のマインドコントロールに振り回されなくなったケースであって、熱愛中の話ではないはずです。やはり『源氏物語』は、運命の愛を求めようとして得られない男女の行き違いと苦悩の物語だといえるのではないでしょうか。

2024/9/15 12:00

こちらも注目

新着記事

人気画像ランキング

※記事の無断転載を禁じます