「潔いね。丸腰で行きますか」呆れたような顔で笑ってくれたのが救いだった。|うさぎの耳〈第九話〉谷村志穂
◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉
由希奈からの電話で聞き書きしたファームの名前には、はじめ覚えがなかった。けれど、すぐにわかった。そこはどんな理由なのか、名前が変わっていた。前身であるファームは、昔から、隆也がよく憧れを口にしていたファームだった。
隆也は間違いなく、そこにいる。そこへ行けば、きっと隆也に会える。
全身が俄(にわ)かに熱を帯び、後に倒れそうになり、理玖が昼寝をしているベッドの端に腰掛けた。
会って、どうしたいのだろう。
なぜなの?と。
なぜ、黙っていなくなったのかと訊きたいのか?もう自分が嫌いなのか?それとも、はじめから好きですらなかったのか?
急に、今出かけるべきは自分一人であることに気づいた。
これは、理玖と自分と隆也の問題ではなく、隆也と自分の問題なのだ、と。
新千歳空港まで行けば、車で一時間もかからない。北海道まで行けば、なんとかなる。
急いでいつものカーキ色のバッグに、理玖の着替えやおむつ、哺乳瓶などを詰める。
ベビーカーを押して、最寄り駅まで進む。
ちょうど帰宅ラッシュの時間だったこともあり、駅はごった返していた。理玖は抱き抱えたのだが、泣き出して止まらなくなり、ベビーカーも畳んだところで身動きが取れなくなった。
途中の駅で降りて、莉子に電話をした。
「やっぱり、直接タクシーで莉子さんの家まで向かいます。近くで待ってていい?」
仕事中だったはずだが、莉子は小声で、
「それなら、なんとか、M駅まで来られる?」
と、仕事場のある最寄り駅を口にした。
莉子は今、サウナのある施設で、マッサージの施術の仕事をしている。なんとそこには、付属の保育施設があるのだそうだ。自分の子でもない理玖を預けられるのかと訊いたら、
「そこはちょっと嘘つかせてもらうよ」
と、カラッと言った。
「うちの子に、する」
「何日かはかかるかもしれないけど、本当にいいの?」
「なんとかするよ。だめなら仕事休めばいいし。ようやく見つかりそうなんでしょ?」
指定された最寄り駅でタクシーを降りると、施術用のピンクのストライプの制服を着た莉子が、汗ばんだ顔で、待っていてくれた。かっこいいとは言えない制服なのに、一つに結んだ髪が首の後ろのいい位置にあり、洗練されて見えた。
思わずそれを伝えると、
「そんなことに気づく余裕があるとは、感心。本当は、ついていってあげたいくらいだけど、代わりに、リクくんをしっかり見ているから。ちゃんと話しておいで」
ベビーカーのハンドルを、莉子が受け取る。
「リクくんの分の荷物、こっちに移して」
「あ、それ全部、理玖の」
そう言われて、ベビーカーにかけてあった、カーキ色のバッグを指さす。
自分は、ショルダーバッグ一つになった。
「潔いね。丸腰で行きますか」
呆れたような顔で笑ってくれたのが救いだった。
理玖が、またぐずり出し、こちらに向かって手を伸ばしてくる。
「リクくんも、覚悟を決めよう。ママきっと、父ちゃん、捕まえてくるから」
と、ベビーカーのシートで身を逸らしてむずかる理玖の頭を撫でる。きっと今日はしばらくこんな風かもしれない。
「莉子さんしか頼る人がいなくて、本当にごめん」
「いいから、早く行きなよ。旦那ね、あなたの顔を見たら、逃げ出すかもしれないよ。それも、覚悟してるよね?」
逃げ出す隆也は、想像もつかなかった。ただ、頷くしかなかった。想像なんて、何一つ出来はしないはずだった。ここまですべてが、想像もしなかったことの連続だったのだから。
「じゃあ、行きます。また、連絡します」
地下鉄への階段を下りていく。ベビーカーも荷物もなく、莉子の言う丸腰で階段を下りるのは久しぶりだった。途中、振り返ると、もう二人の姿はなく、そこにはぽっかり開いた地上への出口と、茜色に染まり始めた空が見えた。
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。