『光る君へ』文才豊かな女性貴族の教師・赤染衛門(凰稀かなめ)の華麗すぎる恋愛事情

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 8月11日『光る君へ』は、パリ五輪中継のためドラマの放送はお休みでした。ということで、今回は取り上げる機会を逸した話題でお送りしたいと思います。第30回「つながる言の葉」では、ドラマ本編での日照りの今夏の映像と、現実の記録的猛暑の夏がリンクしているようで興味深かったのですが、暑くても平安時代の貴族の女性たちは、ドラマで見るように「重ね着」で耐えるしかなかったのでしょうか?

 たしかに史実でも儀式があったり、身分の高い人の前に出るときなどは真夏でも「重ね着」を余儀なくされたわけですが、当時は織物技術が現代よりも高かったといわれ、普段では向こうが透けて見えるほどに薄い絹織物で作られた単衣(ひとえ)だけを羽織って生活していたと伝えられます。つまり、男女ともに胸などはシースルーで見えてしまってもOK……というのが当時の常識だったわけですね。

 また一説に、平安時代の日本は意外にも寒冷期で、平安初期(9世紀)の嵯峨天皇の時代では西日本の最高気温は25.9℃。これでも平安時代における最高気温だったそうで、そこから平安時代後期(11~12世紀)になると、最高気温は約24.0℃まで下がっていたそうです。(川幡穂高氏「西日本における歴史時代〈過去1,300年間〉の気候変化と人間社会に与えた影響」)。羨ましいというしかない涼しさですね。これくらいなら、真夏に「十二単」でも余裕かもしれません。

 さて前回は、ドラマにあかねこと和泉式部(泉里香さん)が登場したので、平安時代を代表する「恋多き女」の素顔についてお話しました。和泉式部は、紫式部(ドラマでは吉高由里子さん)にとっては道長(柄本佑さん)の娘で、ときの中宮・彰子(見上愛さん)にお仕えしている時の同僚でした。ドラマ同様、史実の道長も入内した彰子と天皇(塩野瑛久さん)の仲が深まらないことに悩んでおり、その打開策として、天皇が文学好きなのに合わせ、「彰子のところに来れば面白い作品が読めますよ……」という仕掛けを考えたのです。

 そうやって彰子のもとには紫式部や和泉式部、さらにはドラマでは倫子(黒木華さん)の主宰する「学びの会」の教師のような立ち位置で登場していた赤染衛門(凰稀かなめさん)といった、文才豊かな女性たちが女房として集うことになったのでした。

 今回は、赤染衛門についてお話しようかと思います。ドラマには最初期から登場していた赤染衛門ですが、これまでは触れそびれてしまっていました。しかし、多くの方にとって、赤染衛門といっても「古文の授業で名前は聞いたことがあるかも」とか「百人一首に歌がある人」程度のイメージしかないのではないでしょうか。かなり歴史に詳しい方なら、赤染衛門は「良妻賢母」というイメージが強い女性だとお答えになるでしょうが……。

 ドラマの赤染衛門は、元宝塚トップスターの凰稀かなめさんをキャスティングしていることからも、上品で良識的なキャラクターとして描かれていますね。とはいえ、しばしば自身の恋愛武勇伝を口にしている印象もあるキャラですから、かつての自分の教え子・倫子から、娘の彰子が一条天皇を籠絡できるような恋の手練手管を教えてやってくれと頼まれていたシーンもあったと記憶しています。その時の赤染衛門は苦戦しつつ、「私と夫との関係は円満なのですが」というようなセリフを言っていたようにも記憶しています。赤染衛門の「夫」とは、大江匡衡(おおえのまさひら)のことですね。

『紫式部日記』によると、赤染衛門は、女房たちの間では「匡衡衛門」と呼ばれていたともあります。また、彼女には匡衡との間に授かった息子の挙周(たかちか)が病気になると、「私が身代わりになるから、息子の命を救ってください」と住吉明神に祈願する歌を詠んだというエピソードもありますね。

 こういった部分から、赤染衛門=家族思いの「良妻賢母」というイメージが世間には定着しているのでしょう。それゆえ、親王兄弟の両方と熱愛してしまった和泉式部に比べると、赤染衛門は、やはり恋にまつわるエピソードの面白さについてはいまひとつといった感はあるかもしれません。

――しかし、ドラマには未登場の赤染衛門の夫・大江匡衡との関係も、本当はそこまで円満ではなかったのではないか……と思わせられる史料は実は多いのです。

 平安時代末期に成立した説話集『今昔物語』によると、匡衡という男性は、頭はよいのですが、背があまりに高く、「いかり肩」で、女性から好かれるようなタイプではなかったようです。また、匡衡が赤染衛門の「婚外恋愛」に嫉妬し、不気味な歌を送って自粛を呼びかけたという逸話が『後拾遺和歌集』に採録されているのですね。

 生没年不詳の赤染衛門ですが、かなりの高齢まで歌会に参加するなど、心身ともに元気な女性でした。恋の道も大江匡衡との結婚生活とは関係なく、生涯現役だったのではないかと思われます。

 赤染衛門の恋の相手と目されたのは、かなり年下のはずの「右大将道綱」――なんと道長の異母兄の藤原道綱(上地雄輔さん)でした。このとき、嫉妬に駆られた匡衡は、こんな歌を詠んでいます。

虫の血を つぶして身にはつけずとも 思ひそめつる 色なたがへそ

(意訳:イモリを潰した血をお前の手に塗りつける浮気封じのおまじないはしないけれど、私との恋で燃え上がったはずの気持ちを変えるようなことはやめて)

 大江匡衡はドラマにも登場する、「高等教育機関」こと大学寮の教授でもありましたから、古くから中国に伝わる、イモリの血を女房の手に塗れば浮気を防げるという呪術についても知識があったようで、それを自分同様、漢文に詳しい赤染衛門ならわかるだろう……と歌に詠んだのです。

 こういう歌が彼女や、彼女に近しい人たちの和歌だけを集めた『赤染衛門集』に収録されていることからも、史実の赤染衛門は、夫とはずっと円満であったわけではなさそうなのです。

 また若い頃の赤染衛門は、夫にも厳しい態度を取っていたことが知られています。大江匡衡との間に子供を授かった赤染衛門ですが、才能を一番に重視して乳母を採用しました。しかしその女性はお乳の出が悪かったので、匡衡はそれを次の歌で皮肉りました。

果(はて)なくも 思ひけるかな 乳(ち)もなくて 博士の家の 乳母(めのと)せむとは

(意訳:乳の出も悪いのに学者の家の乳母に応募してくるとは、なんと馬鹿な女だ)

 これを聞いた赤染衛門は、乳母の女性をかばおうと、次の歌を返しているのです。

さもあらば あれ大和心(やまとごころ)し 賢(かしこ)くば 細乳(ほそち)に附けて あらすばかりぞ

(意訳:たとえお乳の出が悪くても、応用力がある本当の意味で知的な女性であればよいのです。乳母として家においてあげましょう)

 赤染衛門にとって、乳母とは、子どもたちにとっては最初の先生でもあるのだから、お乳の出といったことにこだわってはいけないという考えだったのでしょうね。まぁ、いざとなれば赤染衛門自身が我が子に乳を飲ませるつもりだったのかもしれませんが、夫婦喧嘩の些細な部分まで1000年以上も後の現代まで残されているのは、本当に奇跡的なことではあります。

 ちなみに文献に「大和心」という言語が登場する最初期の例が、この赤染衛門の歌といわれています。紫式部の『源氏物語』にも「大和心」という単語は見られますが、当時において「大和心」という単語に「愛国心」とか「武士道精神」といった意味はまったくありませんでした。「中国から日本に輸入された最先端の知識を、応用・解釈できる知的能力」という意味しかなかったのですね。

 それにしても赤染衛門と大江匡衡の夫婦ゲンカを見ていると、日本人は「0」から「1」を生むのではなく、「1」の可能性を無限に広げるほうが得意といわれがちなのですが、平安時代からすでにそういう国民性があったのかもしれない……と思いを馳せてしまう筆者でした。

<過去記事はコチラ>

2024/8/18 12:00

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