『光る君へ』まひろ・吉高由里子が懐妊、そして「道長妾」という紫式部の“これから”

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 7月7日の『光る君へ』は、東京都知事選開票特番のため放送休止でした。同じ「ゆりこ」でも小池百合子ではなく、吉高由里子の顔が見たかったという怨嗟の声がSNSには溢れていたようですね。

 ドラマの放送休止時には、これまでの総括や、触れ損ねた内容についてお話するというのが本連載の通例でしたが、14日放送予定の第27回・「宿縁の命」のあらすじを読んで、驚きのあまり声が出たので触れずにはいられなくなりました。

 前回(第26回)のラストが「石山寺でばったり出会ったまひろ(吉高由里子さん)と道長(柄本佑さん)は再び…。」という場面だったので、「再び…。」とは、二人が深夜の寺で男女の関係になるということでしょう。しかし、本当に大問題の記述はその後なのです。

「やがて道長の娘・彰子(見上愛さん)が入内。その頃、まひろの懐妊が発覚し宣孝(佐々木蔵之介さん)は…」とあり、ここも「まひろのお腹の子の父親は夫の宣孝ではなく、道長だったかもしれない」という仄めかしだと理解するべきでしょう。

――ということは、紫式部の一人娘で、後の大弐三位(だいにのさんみ)が、当時の女性としては理想的な出世を遂げられた理由も、ドラマでは彼女が本当は道長の娘だったから……という流れになるのでしょうね。

 史実の大弐三位こと、藤原賢子(かたいこ/かたこ/けんし)は長徳5年(長保元年、999年)ごろに、紫式部と20歳年上の夫・藤原宣孝との間に生まれた娘です。彼女は才能にあふれ、容姿が美しく、性格も華やかで明るかったようです。ドラマでは見た目はまひろ、性格は道長に似たという描かれ方になるのでしょうか。

 賢子の人生で注目すべき点は、紫式部と藤原宣孝という、受領階級=中級貴族の父母を持つ彼女が、道長の次兄の藤原道兼(ドラマでは玉置玲央さん)の息子・兼隆と結婚したという事実です。朝廷の実質的な最高権力者・道長の甥との結婚は、一介の中級貴族の娘・賢子にとってはかなりの玉の輿、格差婚だといえるでしょう。これもドラマでは賢子が道長の娘だったがゆえの大抜擢として描かれそうですね。

 また、賢子は「天皇の乳母」にもなっています。清少納言(ドラマではファーストサマーウイカさん)の『枕草子』においても「貴人の乳母になることは(家庭と仕事を両立できるので)貴族の女性にとって最高の幸福(要旨)」と語られていることは有名ですが、その「最高の幸福」を賢子は手に入れたことになります。

 タイミングにも恵まれた人生でした。賢子が兼隆との間に子を授かった直後の万寿2年(1025年)ごろ、道長の娘にあたる藤原嬉子が産んだ後朱雀天皇の第一皇子・親仁(ちかひと)親王の乳母に抜擢されているからです。親王は後に後冷泉(ごれいぜい)天皇として即位しました。

 しかし、賢子の人生は最初から順調だったわけではありません。父親の宣孝が、賢子が2~3歳だったと考えられる時期に急逝しているので、紫式部は夫の喪に服し、生活を切り詰めながら「無職のシングルマザー」として娘を育てていたようです。しかし(この頃に『源氏物語』の執筆を始めたようですが)、このままではいけないと思い直し、寛弘2年(1005年)か、その翌年ごろから一条天皇の后の彰子に女房として仕えることになったのですね。

 前回のコラムで触れましたが、紫式部が宮中で働くことになった理由は、彰子のために道長と倫子が集めた女房たちが公卿たちに不評で、新メンバーを集める必要があったからなのですが、それまでずっと無職だったと考えられる紫式部に白羽の矢が立った理由は「謎」です。すでに『源氏物語』の著者として、彼女が有名になっていたからと推測することもできるのですが、抜擢の理由も『光る君へ』では、まひろと道長が長年にわたって交流していたからだと説明するのでしょう。

 ドラマのまひろは「不実な女」と自称しながらも、生真面目ですから、寺での逢瀬の末に懐妊していたことを道長に連絡していないかもしれません。何年か後に、まひろとの間に娘が生まれていたことを知った道長は、孤立無援のシングルマザーとなった彼女を窮地から救う(そして無沙汰を詫びる)……という描かれ方でしょうか。

 また、まひろは正式な夫の宣孝以外の男性である道長との間に子を授かってしまったことに苦悩して、宣孝に「子供の父親は道長さまです」などと伝えてしまいかねませんが、宣孝はそんなまひろを許して死んでいきそうですね。

 宣孝は、まひろより20歳くらい年上の夫で、彼女にとっては「二人目の父親」みたいな立ち位置だからです。客観的に見て女性側に非常に都合のよい展開ではありますが、『光る君へ』は最近の民放ドラマにも見られないレベルに「恋愛至上主義」が貫かれた作品だと思われますので、これくらいやってくるのではないか……と思ってしまいます。

 今回はいい機会なので、史実(というか、紫式部の文学作品)に見られる紫式部と道長の「関係」について改めてお話してみましょう。

 紫式部は平安~鎌倉時代の人物系図集『尊卑分脈』には「道長妾」として記述されている存在です。「妾」は妻の一種というより、女性使用人の一種と考えたほうがよろしいと思います(多くの妾は自分を妻の一種だと思い込んでいたでしょうが……)。

 それゆえか、道長の日記『御堂関白記』には、紫式部や源氏物語について触れた部分はまったくありません。その一方で、道長の正妻にあたる倫子の記述はちらほらと出てきて、道長と倫子が長年にわたって良好な関係を保っていたことは明らかです。

 その一方で、紫式部自身の手による文章だと考えられる『紫式部日記』には、「渡殿(わたりど)に寝たる夜」から始まる章があり、「彼女が寝ている部屋の戸を叩く音がしたが、怖かったので開けずにいたら、朝になって道長さまから手紙と『泣きながら扉を叩いたのにあなたは開けてくれなかった』と訴える歌が届いた」と要約できる内容が続くのです。

 わざわざ道長から、夜に寝室を訪れられたことを、公表を目的とした「日記」に書く時点で、「私は道長さまから女として見られているのよ」と世間に自慢したいという紫式部の本音がだだ漏れなのですね。実に「愛人」らしい態度だと思わせられてしまいます。

 まぁ、この部分については紫式部本人ではなく、後世の別人が興味本位で書き足してしまったと考える学者もいるのですが、どうでしょうか。個人的にはそういうわけではない気はします。

 また「渡殿」が指す部屋については諸説あるのですが、道長の本邸の「土御門第」の一室だと考えてよいかもしれません。まだドラマでは彰子の入内も描かれてはいませんが、紫式部は彰子の女房として彼女に長い間、お仕えすることになります。彰子の里帰りにも紫式部は付き従って、土御門第の一室に滞在することも多かったようなので、道長との「交流」はドラマでもここぞとばかりに描かれるでしょう……。

『光る君へ』も放送開始から早くも約半年が過ぎ、後半戦に入りましたが、ますます「恋愛至上主義」が極まっていきそうです。

<過去記事はコチラ>

2024/7/14 12:00

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