世界共通!?「嫁姑問題」から考える「家族」という言葉の捉え方
最近になって、姑の存在にチクチクとした何とも表現しにくい感情が膨れ始めている。
ちょっとしたことが積もり積もって、やっぱり「義理の母」といえども、「母親」であると認めるのって難しいんだな、と思い始めたのだ。
こうした気持ちをグツグツ考え煮込んでいたら、いてもたってもいられなくなってきた。
考えないようにしようとすればするほど、それは「ストレス」になっていると認めざるを得なくなるのだ。
私は義理母の愛すべき息子である夫と、毎日一緒に生活している。
彼女よりずっとずっと長い時間。
ほぼ、独り占めに近い。
この状態に、彼女からしてみたら見ず知らずの、しかもよくわからない遠い国の女がひょっこり現れて息子を独り占めしてるのは、なんだか腑に落ちない、と思っているだろう。
そういう想像はできる。
想像できるからといっても、私のチクチクした感情は消えない。
嫁姑問題なんて世界中どこでも共通して、どこにでも転がっている問題だろう。
ネットの掲示板上で、嫁姑の泥沼関係についての発言なんて星の数ほどあるのもわかる。
チクチクを抱えたまま、ネット上で「嫁姑」と検索してみた。
すると、すぐに「嫁姑問題」の解決策やアドバイスが出てくる出てくる。
さすが、星の数ほど悩んでいる人がいるだけあって、その解決策もわんさかあるようなのだ。
最初にあがっていた嫁姑問題についてアドバイスするサイトには
「あなたにとっての家族は、旦那様とあなたが作る家族なのです」
ということが書いてあった。
さっそく、チクチクした感覚が半減したように感じられた。
この一言のおかげで無理して義理ママと家族にならなくていい。
という答えがすぐに導きだされたのだ。
凄いなネット。
ともかく。
義理の母や兄弟らとは家族のようなものだけれど、ゆるい絆で、自分にとって苦でない程度の距離で繋がっているだけでもいいらしい。
別に姑は「私の母親」だと思わなくたっていいのだ。
「家族」という言葉は、なんだか義務を醸し出すけれど、そういった家族関係だっていいはずなのだ。
そうなのだ。
Text/中村綾花
初出:2015.12.27