百年前も「国葬」の是非で大論争!大隈重信「国民に熱烈支持された理由」

 この秋、安倍晋三元首相の葬儀を巡り、国論が二分した。

 ちょうど一〇〇年前の大正一一年(1922)にも元首相の葬儀について「国葬」にすべきかどうか、当時の新聞で話題になっていた。それが大隈重信。早稲田大学の創設者で知られる明治の政治家だ。

 当時の新聞によると、その年の一月一〇日に八三歳で死去したあと、「国葬」とする話が持ち上がったが、安倍元首相のときとは逆に、当時の内閣(高橋是清首相)の反対で実現しなかったという。

 その代わり、一七日に「国民葬」が盛大に催された。その「国民葬」では葬儀場となった日比谷公園(東京都千代田区)に「二〇余万人」(『大阪朝日新聞』)が参集。

 一説によると、早稲田の大隈邸(新宿区)から日比谷公園、さらに埋葬先となった護国寺(文京区)の沿道が、明治天皇の大葬に次ぐ一〇〇余万人の人々で埋め尽くされたという。

 彼はなぜ、このように国民から熱烈な支持を得られたのか。

 また、その生涯にはいくつかの「初」がつき、記録づくめの人生でもあった。その人生を振り返ろう。

 重信は天保九年(1838)、佐賀藩で砲術長を務めた信保の長男に生まれた。七歳で藩校「弘道館」に入ったが、儒教を中心とする教えに不満を抱き、改革を試みて一八歳のときに退校(退学)。とはいえ、学業はできた。かなりの秀才だった。

 その藩校時代、二歳年長の従兄弟の勉強の非効率さを指摘し、「おまえたちの一年分の勉強を自分は一日でやってみせる」と豪語したという逸話も残る。

 ところで、幕末の佐賀藩には鍋島閑叟という名君が現れ、藩を挙げて近代化に取り組んでいた。

 藩内で秀才の誉れ高かった重信はむろん、その目に止まり、閑叟が呼び寄せたオランダ系アメリカ人フルベッキの元で学ぶ機会を得た。

 重信は翌年に「明治」となる慶応三年(1868)、長崎でフルベッキを校長とする洋学校の到遠館開設の準備を進め、その年の一二月に発足させた。

 到遠館では英語のみならず、政治や経済、理学なども教え、今の大学の模範となった学校だ。

 重信は後に東京専門学校(早稲田大学)を開設するが、この到遠館の運営に携わったことも大学経営に少なからず繋がったといえる。

 一方、重信が到遠館を発足させた一二月には、一九日付で明治天皇より「王政復古」の大号令が発せられ、明治新政府が発足した。

 重信はすぐさま新政府に出仕。明治二年(一八六九)七月に大蔵大輔(大蔵次官)に就き、やがて参議(内閣構成メンバー)として新政府の重責を担った。

 明治五年(一八七二)一一月九日、彼が断行した改暦には、新政府の財政を担った責任者らしい逸話がある。

 当時、国家予算に占める人件費の割合は極端に高かった。一方、それまで使用してきた旧暦には閏月があり、余計な給料を支払わなければならなかった。そこで閏月のない西洋暦への改暦に踏み切ったのだ。

 しかも、明治五年一二月三日を翌年の元日としたため、一二月はわずか二日間となり、その二日分の給料もカット。重信は、閏月と一二月の計二か月分の人件費カットに成功したわけだ。こうして彼は現在の暦を初めてわが国にもたらした人物となった。

 明治一四年(一八八一)には元長州藩士伊藤博文ら薩長出身の参議によるクーデター(明治一四年の政変)で政界を追われるが、翌年、立憲改進党(のちの進歩党)を結成。政党政治家としての道を歩むことになる。

 彼の改進党は帝国議会が発足すると国民の支持を集め、発言力を伸ばしていった。そして明治三一年(1898)六月、重信は旧土佐藩士板垣退助の自由党と進歩党(当時)を合同させて憲政党を結成。

 増税問題を巡り、議会(政党)との連携が取れずに匙を投げた第三次伊藤博文内閣に代わり、日本初の政党内閣(議会で多数を占める政党を与党とする内閣)といえる第一次大隈内閣( 隈板内閣ともいう)を組閣。

 ただし、政策の擦り合わせを後回しにした合同だったため、党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、内閣は短命に終わった。

 その後、第一次世界大戦が勃発した大正三年(一九一四)、重信は憲政本党系の議員らを与党とする第二次大隈内閣を誕生させた。この内閣が総辞職した当時、重信は七九歳。当時の首相の最高齢に当たり、その記録は今日まで破られていない。

 このように重信は薩長を中心とする藩閥政治家(代表が伊藤博文)とは別のキャリアを歩み、「民衆政治家」と評されるに至った。

■“メロン”を普及させた第一人者でもあった!

 そうした彼の政治家としてのイメージが民衆を動かし、「国民葬」の熱狂として現れたわけだが、それはまた、民衆を意識した彼の政治手法の成果ともいえる。

 たとえば、隈板内閣誕生の際、重信が参内して天皇から組閣の命を受けた重大な日に、東京専門学校の校友会での講演会が予定されていた。

 組閣という一世一代の晴れ舞台だけに、予定をキャンセルしてもよかったのだが、彼は一時間遅れで駆けつけ、「約束したことに背いたことはない」と発言し、拍手喝采を浴びた。

 また、彼の豪胆さも人気の秘訣だった。立憲改進党が発足したのち、彼は一時、脱党して黒田清隆(元薩摩藩士)内閣で副首相格の外相に就任した。その外相時代、彼の外交方針に反発した国家主義者の青年に、馬車で官邸入りするところを狙われ、爆弾を投げつけられたのだ。

 重信は右足を失い、生涯、義足生活を続けるが、「右脚切断後の後遺症として断続的に起こる痛みに耐え、驚くべき精神力で」(伊藤之雄著『大隈重信』)遊説に回ったという。

 彼が民衆を意識していた逸話は他にもある。晩年の話だ。現在、早稲田大学の大隈庭園になっている自邸に温室を作り、当時、まだ一般的に知られていなかったメロンを西瓜のように民衆にもっと手軽に食べさせたいと願い、その栽培と品種改良に努めた。

 我々が甘くておいしいマスクメロンを食べられるようになったのは彼のおかげ。ある意味、大隈重信こそが日本人に初めてメロンを奨め、普及させた第一人者といえる。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

2022/11/25 12:00

この記事のみんなのコメント

1
  • トリトン

    11/25 13:00

    今の政府の連中とは比べるのも論外だが色々な良いことをした中国の日本進出を阻止まあ田中角栄が中国引き入れ金権政治家だがあえて言えば大蔵省の悪党官僚の組織と裁判官の外人でも日本国籍取ればなれるそれが政治家やその他に波及して今の立件、岸田林は国民より韓国中国の為の内閣になったのだよね。昔はまともだったのに、今はゴキブリ、ダニ政治家(金を隠してむさぶりとる寄生虫)ばかりだから国民が支持するわけないわな。

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