人間を本能に忠実にさせる感染症が蔓延! 台湾発のR18ホラー『哭悲/THE SADNESS』

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 ウイルスは変異を繰り返すことで、自然界の環境に適応しようとする。台湾発のホラー映画『哭悲(こくひ)/THE SADNESS』は、そんな変異型ウイルスのような作品だ。未知のウイルスに感染した人たちが凶暴化し、次々と周囲の人々に襲いかかるというゾンビ映画のフォーマットを踏襲しながら、より現代的にアップデートされた恐怖を描いている。R18指定されているので、観る人は振り切ったスプラッターシーンの数々に覚悟して臨んだほうがいいだろう。

 舞台となるのは台湾の首都・台北。同じベッドで眠る若い恋人たちの日常生活の描写から、物語は始まる。目が覚めた恋人たちは、有休の過ごし方でちょっとした口論になってしまう。OLとして働くカイティン(レジーナ・レイ)は、来週から2人で旅行するのを楽しみにしていた。だが、不定期雇用のジュンジョー(ベラント・チュウ)は、うっかり仕事を入れてしまっていた。ご機嫌斜めのカイティンを、必死でなだめるジュンジョー。愛し合う2人は、ケンカさえも楽しんでいるようだ。

 いつものようにジュンジョーがカイティンを地下鉄の駅までスクーターで送っていくと、街の雰囲気がどこかおかしい。傷害事件が多発し、パトカーがやたらと出動している。まるで香港で起きている民主化デモの取り締まり騒ぎのようだ。夕食の約束をして、別れる2人。このときは、街の異変は一過性のものだろうと、2人は甘く考えていた。

 なじみの店でコーヒーを飲もうとしたジュンジョーが、まず異常事態に遭遇する。店に異様な姿をした老婆が現れ、「大丈夫ですか?」と親切に声をかけた男性はいきなり吐瀉物を顔から浴びせられた。老婆が暴れ、店内は騒然となる。吐瀉物を浴びて倒れていた男性も起き上がり、常軌を逸した行動をみせるようになる。

 辛うじて難を逃れたジュンジョーだったが、アパートに戻ったところを隣人に襲われる。大きな剪定ばさみで、左手の指をちょん切られてしまうジュンジョー。再び街へ逃げると、すでに街全体が狂人たちでいっぱいだった。

 地下鉄に乗ったカイティンも惨劇に巻き込まれる。ナイフを持った男が車両内で次々と乗客を襲う。周囲にいた人たちも、感化されたように暴力を振るい始めた。逃げ場のない車両内は、たちまち大量の鮮血で染まってしまう。

 この車両に乗り合わせていた中年サラリーマン(ジョニー・ワン)は、以前から若くて美しいカイティンのことが気になっており、車両から逃げ出した彼女を執拗に追い求める。野生のクマが一度狙った獲物は決して逃さないように、人間離れした異常な執念を中年サラリーマンは発揮することになる。(1/3 P2はこちら)

 ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68)はゾンビ映画の聖典として祀られ、その後のゾンビ映画では、ゾンビウイルスに感染した人間は一度死んでからゾンビとして甦る……というのがお約束となっている。だが、カナダ出身、台湾を拠点にして活動する新鋭ロブ・ジャバズ監督は、人間が生きたままモンスターへと変貌する恐怖を描いている。専門家たちによって「アルヴィン」と名付けられたウイルスに感染した人たちは、意識を持ってはいる。動きも機敏だ。しかし、普段は理性で抑えていた欲望や潜在意識を、感染者は制御することができない。

 感染者たちはひと筋の涙を流した後、本能のおもむくままに暴れ回る。男を見つければ凶器を手に襲い、女性を見つければ無理やり陵辱しようとする。あの穏やかな街・台北はもはや阿鼻叫喚地獄だった。

 アルヴィンウイルスに感染し、本能むき出しとなった中年サラリーマンは、カイティンを追い詰めていく。邪魔しようとする者は、傘で目玉を突き刺し、噛みつき、消火用の斧を使って、虫けらのように排除する。自制心を失い、怒りと性欲に身を任せた中年サラリーマンほど、恐ろしいものはない。

 近年のゾンビ映画の傑作として、韓国映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(17)が挙げられる。ゾンビ映画に列車パニックを融合させた手腕が鮮やかだった。また、『新感染』には北朝鮮といつ戦争が始まるのか分からないという、韓国の人たちが抱える心理的な恐怖が根底に流れていた。群れをなして襲ってくるゾンビたちは、北朝鮮軍の暗喩でもあった。

 台湾映画『哭悲』の場合は、やはり海を挟んだ大国・中国に対する警戒心が恐怖のメタファーとなっているようだ。韓国と北朝鮮と同じように、同じ民族同士ながら台湾と中国の間には、いつか戦争が勃発するのではないかという潜在的恐怖が存在する。九州ほどの大きさの台湾島は、もし戦争が始まれば、瞬く間に島全体が戦火に覆われることになる。

 本作で描かれる恐怖のメタファーは、中国だけではない。劇中、台湾国防部による緊急メッセージがテレビで流されるシーンがある。軍人たちが物々しくカメラに映し出され、国防部のリーダーは「軍民諸君」と視聴者に呼びかける。どうやら本作で描かれている台湾は、新型コロナウイルスを見事に防いだ現実の台湾ではなく、一党独裁政治が今も続くもうひとつの台湾らしい。

 一党独裁時代の台湾は、1987年まで戒厳令が敷かれ、民主的思想の持ち主は次々と逮捕され、獄中送りとなって処刑された。ホラー映画『返校 言葉が消えた日』(21)がモチーフにした「白色テロ」に、台湾市民は怯え続けた。

 また、日本が統治する以前、清朝時代の台湾は、マラリアやコレラなどの感染症がとても多いことでも恐れられていた。民主化に成功し、新型コロナウイルスも押さえ込んだ「美しい島」台湾の、忌まわしい暗黒時代を本作は蘇らせる。劇中のアルヴィンウイルスは人間の本能を暴くだけでなく、国家や社会の暗部さえもむき出しにしてしまう。(2/3 P3はこちら)

 生き別れ状態だったジュンジョーとカイティンだったが、「絶対に助けに行くから」とスマホで交わした約束を守るため、ジュンジョーはスクーターを走らせる。大学病院にカイティンが逃げ込んだことを知り、ジュンジョーは左手から血を流しながらも懸命に向かう。

 本能に忠実になるアルヴィンウイルスによって、人間は文明化する以前の野生動物さながらの獰猛な生き物となってしまう。美しいカイティン、必死で人間性を保とうとするジュンジョーは、共に感染者たちの標的となる。感染者たちが暴力を振るい、性欲をむき出しにする中、カイティンとジュンジョーは愛し合うことをやめようとしない。2人にとっては、お互いを愛することこそが嘘偽りのない感情だった。血まみれのラストシーンの中で、主人公たちに残されていた本能だけが唯一の救いとなっている。

 この恐ろしいウイルスも、感染爆発した後は、集団免疫を人間は持つようになり、いつかは収束に向かうことになるのだろう。だが、集団免疫を持つようになった人間社会は、それまでの世界とは異なるものになっているはずだ。ウイルスが変異を繰り返すように、人間社会も変異することで、新しい時代に対応しようとするのではないだろうか。

 もしも、人間を本能化させるウイルスが日本にも流れ込んできたら、忖度する公務員や過度なストレスを抱えた会社員が多い官庁街やビジネス街は、あっという間に地獄絵図になるに違いない。もちろん、自宅で殺し合う家族も出てくるはずだ。そして、平和や日常生活と呼ばれているものは、湖に張った薄い氷のようにとても脆いものであることに気づくだろう。

 

『哭悲/THE SADNESS』
監督・脚本・編集/ロブ・ジャバズ
出演/レジーナ・レイ、ベラント・チュウ、ジョニー・ワン、アップル・チェン、ラン・ウエイホア
配給/クロックワークス  R18+ 7月1日(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開
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klockworx-v.com/sadness

  • 6/30 20:00
  • サイゾー

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