新庄ビッグボスはどんな野球をするのか。多彩な“上司遍歴”からその野球観を探る

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―[数字で見るプロ野球]―

 ビッグボス新庄剛志氏が過去に仕えた監督たちを振り返るシリーズの後編。前編では1996年の藤田平監督までのなかなか勝てない阪神時代までを振り返り、’96年の最後にウインターリーグでトレイ・ヒルマン監督にすでに出合っていた話までを紹介した。野村チルドレンと紹介されることの多い新庄ビッグボスだが、影響を受けたであろう監督の数はメジャー時代を含めて実に多い。

◆はじめての優勝経験監督に学ぶ

 1997年から阪神の監督は吉田義男氏に変わった。1985年の阪神優勝監督であり、前年までフランスの代表監督を努め「ムッシュ」と呼ばれるようになった吉田氏が阪神の監督になるのは三度目。ただ、この年は前年ボロボロだった阪神を立て直すには色々補強で苦しんだ面は否定できない。

 なにせ、打線強化で補強した外国人が、あのグリーンウェルだった年だ。ただ、最下位は脱出し、翌年には矢野、井川、坪井、パウエル、大豊が加入し、さらには今岡の台頭など、その後2003年に優勝するためのスタートを切った監督だったといってもよい。

 ただ、肝心の新庄氏は打の面でいえば2割2分前後を続けており、どちらかといえば意外性のある守備の人になってしまっていた。ちなみに捕殺は2年連続でリーグトップ。

◆ムッシュ吉田からは“立て直し”を学んだか

 新庄氏が吉田氏から学ぶとすれば立て直しという面だろう。それは翌年から監督となった野村氏も同じだが、現在の日本ハムに一番重なる状況はこの吉田氏が監督だった阪神と被るのかもしれない。

 1999年からは野村克也氏が阪神監督となった。野村氏とのエピソードは山のように紹介されているのと、本稿では野村氏以外からの影響を紹介する内容なので詳細は割愛するが、「野村克也さんをしのぶ会」にも出席したように、間違いなく大きな影響を受けたのは間違いないだろう。

 その野村監督が在任中である2001年から、新庄氏はFAによってメジャーへ、ニューヨーク・メッツに入団する。

◆野村氏とは正反対の野球。バレンタイン野球に触れる

 新庄氏がメッツに入団したときの監督はボビー・バレンタインだ。そう、千葉ロッテを日本一にした名将である。1995年に一度ロッテの監督としていきなり2位という結果を出しながら、1年で退団した翌年の1996年に3Aの監督をしていたが、シーズン途中からメッツの監督に昇格し、2002年まで指揮をとっている最中での加入だった。

 前年の2000年にはワールドシリーズに出場するなどチーム状況はよいとされた中での加入だったが、バレンタインの野球らしく出場した打順は様々。

 日本人初のメジャー4番が新庄であるのは有名だが、1番や7番など、固定化されていなかったのはロッテでのバレンタイン監督の采配イメージと一緒である。また、センターのイメージがある新庄氏が、この2001年だけはレフトで46試合、センターで53試合、ライトで39試合と守備位置も固定化されていなかった。後にも先にも、新庄氏がセンター以外を数多く守ったのはこの年だけである。

 この経験は大きかったかもしれない。後に日本ハム入団後、あの外野陣を統率する新庄氏がセンター以外も経験したことで、両翼についてのアドバイスもできるようになったのかもしれない。

 その他にも、敗戦処理には若手を使わない主義など、ボビーマジックと言われた采配を1年間経験した新庄氏。バレンタインといえば楽天監督時代の野村氏と因縁があった時期もあったくらいに監督としてのスタイルが違うのだが、両方の監督に仕えたことのある新庄氏の経験は実はかなり貴重なものなのかもしれない。

◆ダスティ・ベイカーのもとでワールドシリーズ出場

 しかし翌年、トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団し、監督はダスティ・ベイカー氏に変わる。ベイカー監督は新庄を1番打者として期待したが、結局は下位打線での起用から、怪我ののちは控えに回ることが増えてしまった。ただ、守備力は評価されていたようだ。そしてなにより、ワールドシリーズに出場できた経験は大きい。

 ベイカー氏は現在でもヒューストン・アストロズで監督を努めており、昨年もワールドシリーズに出場した名将だが、悲願のワールドシリーズ制覇はまだ。そんなシビアなメジャーの最高峰を、当時の新庄氏は経験できたことだろう。

 だが、ジャイアンツは新庄と契約せず、2003年はメッツに戻ることに。しかし監督はバレンタインではなく、アート・ハウ氏に変わっていた。チームは若返り方針の色が強く、62試合の出場で打率は2割を切った.193となってしまった。ハウ監督との関係は良好ではなかったという話題もあるが、逆に3Aで好成績を残しつつ、マイナー生活を体験し、新庄氏にとっての経験はより広くなった1年だったかもしれない。

◆ヒルマン監督と8年ぶりの再開

 そしていよいよ、新庄氏が日本ハムに入団した2004年の監督がトレイ・ヒルマン氏だ。前編でもお伝えしたとおり、ヒルマン監督は8年前の1996年ウインターリーグ先での監督として、すでに仕えたことのある人物だった。

 ハウ監督と交流があったヒルマン監督は、前年のメッツで何があったかをハウ監督のまわりから収集していたとの話がある。つまり、8年前にすでに新庄氏のことを認識していたうえで、前年の職場でうまくいかなかった原因も把握し、日本球界復帰後の新庄氏とどう接すればよいのかを最大限理解しようとしてくれた上司こそヒルマン監督だったのである。

 新庄氏が考える斬新なパフォーマンスを容認してきたのもヒルマン監督だ。ただ、それも自由にさせるのではなく、意見があるときは素直に伝えたともいわれている。打撃練習中にiPodで音楽を聞きながらバッティングを始めた新庄氏に「全員が音楽を聞きながら打撃練習をするようになるのはよくない」と伝えたところ、翌日からやめた話もある。

◆ヒルマン監督の日本野球へのアジャスト

 意見を尊重しつつ、自分の意見も伝えるという絶妙な配慮だったといえよう。外国人監督にとって、日本球界はメジャーとは違う野球だと言われている。よく言われるのは日本ではバントが多用されるが、メジャーからすれば非効率に見える。ヒルマン監督も1年目に、バントをしようとする流れをやめようとしたところ「バントを磨いて1軍にいる選手もいる」という反論を受け入れて、アジャストを目指したという。配慮したのは新庄氏のみならず、全体に対してだった。

 結果、日本ハムは2006年に日本一まで駆け上がり、新庄氏はこの年に引退をする。開幕後にいきなり今年で引退発言をして望んだシーズン。監督としたら「ええ?!」と思うだろうが、それも受け入れて望んだヒルマン氏こそ、実はビッグボス新庄氏が思い描く監督像……いや、ビッグボスなのかもしれない。

文/佐藤永記

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【佐藤永記】
公営競技ライター・Youtuber。近鉄ファンとして全国の遠征観戦費用を稼ぐため、全ての公営競技から勝負レースを絞り込むギャンブラーになる。近鉄球団消滅後、シグナルRightの名前で2010年、全公営競技を解説する生主として話題となり、現在もツイキャスやYoutubeなどで配信活動を継続中。競輪情報サイト「競輪展開予想シート」運営。また、ギャンブラーの視点でプロ野球を数で分析するのが趣味。

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