江戸川乱歩、谷崎潤一郎……「のぞき見」に執着した近代文学者はスマホ時代を予見!

 盗撮者の増加が止まらない昨今だが、日本の近代文学者の中にも「のぞき見」に取り憑かれた江戸川乱歩や萩原朔太郎のような作家たちがいた──。『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』(月曜社)を著した美学者の谷川渥に、なぜ「のぞき見る」想像力が近代に登場してきたのか、その問題は現代にどうつながっているのかを訊いた。

現代小説にも及ぶ「のぞき見」装置を通じた想像力

──「窃視(せっし)」に着目して江戸川乱歩や萩原朔太郎、谷崎潤一郎、川端康成や横光利一といった作家を扱おうと思ったの、はなぜでしょうか?

谷川 私はもともと美学を研究してきた者ですが、一方で西洋美術が日本の近代文学にどんな影響を及ぼしてきたのかという点にも着目してきました。その流れから今回の本で論じたような、西洋の視覚装置からの影響についても考えてみようと思ったわけです。

 例えば、江戸川乱歩は雑誌「新青年」を主な舞台に探偵小説を開拓した存在です。彼は「隙見(すきみ)」──乱歩自身は「のぞき見」とは言わなかった──に執着した作家だった。初めは『屋根裏の散歩者』(1925年)における屋根裏の穴から肉眼でのぞくこと始まり、遠めがね、つまり望遠鏡、あるいは鏡に映るといった視覚装置を介在したものに変化していく。乱歩は凹面鏡に対するオブセッションがあって、凹面鏡を球体にしてその中に入り込んで狂ってしまう姿を描いたのが『鏡地獄』(1926年)です。

 『押絵と旅する男』(1929年)は蜃気楼を観に行くところから始まるんだけれども、「蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった」と描写されている。フィルム、つまりここには映画的な想像力がある。主人公の男は望遠鏡で箱の中に鏡が2枚ある「のぞきからくり」の中の押絵の女を見て忘れられなくなり、弟に自分を望遠鏡で逆さまにのぞかせることで小さくなって押絵の中に入ってしまう。

 そして、『パノラマ島綺譚』(1926~27年)に行き着く。パノラマというのは大きな風景を部屋の中に仕組む視覚装置ですが、島全体をパノラマにしてしまった男の物語を描いている。このように彼の想像力には視覚装置がすべて介在しているわけです。

──単にのぞき見しているのではなく、レンズや鏡のような技術を介在して見える世界にこだわって、それを言語化している、と。

谷川 乱歩と仲が良く、連れ立って浅草に遊びに行っていた萩原朔太郎も、のぞき見の作家だった。日本の近代詩の中で突出した偉業を成し遂げたといっていい朔太郎は、フランス製のステレオスコープという写真を立体視する装置を家の中でひたすら眺めていた。また、妹の友達に恋したものの、想いを告げることもできないまま彼女が医者と結婚すると、その家の垣根を乗り越えてのぞいていたことを研究者が明らかにしています。

 親友の室生犀星が、朔太郎は人の目を見て話すことができなかったと書いていますが、朔太郎の詩はすべて一方的に見つめる詩です。乱歩は「隠れ蓑願望」という言葉を使っているけれども、乱歩と朔太郎に共通するのは、こちらからはまなざすけれども、相手からは視(み)られないというものです。それを私は、ルソーの「孤独な散歩者の夢想」をもじって「孤独な窃視者の夢想」と呼んでいる。

 あるいは、近代の産物である映画もまた「のぞき見」です。暗闇の中で観客が一方的に観るだけで、向こうから見つめ返されることはない、制度化された窃視の構造がある。そして、この映画という西洋近代由来の視覚装置もまた、日本の近代文学に大きな影響を与えている。

 日本の小説家で映画の問題を最初にクローズアップし、作中に登場する女性を映画女優にたとえた最初の作家は谷崎潤一郎だと思います。『痴人の愛』(1925年)では、主人公の河合譲治が13歳年下の女性ナオミの写真を無数に撮り、手や足といった身体の部分部分を見ながら、その全体を想像する。女性をとらえるときに写真という映像装置が入り込み、あるいはナオミはアメリカの映画女優に次から次へとたとえられていく。

 谷崎潤一郎は映画会社と関わったものの2年ほどでやめてしまいましたが、それでも彼の小説には映画的な想像力が色濃くある。

 今の小説は映画的なシーンを想像しながら書く作家が多いし、読む側もそれが当たり前のものだと思っている。けれども、そもそもそういう発想自体、映画の登場以前には存在しなかった。例えば、泉鏡花の作品を読むと視覚性の質が違う。今の我々の感覚からは少し古く感じる。なぜかといえば、彼の作品には西洋の視覚装置のあからさまな影響がなく、むしろ講談から来ている聴覚的な文章だからです。

──映画という「のぞき見」装置が小説の想像力を刷新し、規定してしまったわけですね。

──『孤独な窃視者の夢想』では乱歩や朔太郎、谷崎といった大正デカダンスの作家たちの想像力を「正常―変態」「健康―病」「法的規範―犯罪」の概念軸が重なるものとして整理されていますが、これが視覚装置というテクノロジーの台頭とともに登場してきた――言い換えれば、視ることによって変態を、病を、犯罪を暴くという構造になっている、ということでしょうか?

谷川 前段から説明すると、1980年代くらいに「大正ロマン」「大正デカダンス」という言葉が出てきたわけです。大正は明治と昭和のはざまにあって、芸術的に豊饒な時代だった。「デカダンス」という問題はヨーロッパの世紀末文学のテーマで、もともとはローマ帝国が没落するときに出てきた言葉です。それが芸術の様式が乱れて文体のバランスが取れないとか、ついには崩壊へと向かいつつある人間存在の状態や気分を指す言葉になった。日本ではそれが大正期の芸術に当てはめられた。では、大正デカダンスとは何か──これを具体的に論じている人があまりいない。

 そこで私が取り組んだわけだけれども、「変態」「病」「犯罪」の3つの概念で論じられるだろう、と。

 「変態」という言葉は、例えば明治初期にすでに「変態百人一首」というものがあった。しかし、それは「普通とは違った」という意味です。西洋から生物学が入ってきてからは昆虫の「変態」という概念において用いられるようになり、さらにその後、医学者、哲学者が体の異常や奇形に対して使うようになった。そして、明治の後半からは今のような性的な意味を帯びるようになった。その問題を文学作品で最初に使ったのは、おそらく森鴎外です。彼はドイツに留学していて、ドイツ語が堪能で医学書にも精通していた。英文学の漱石とドイツ文学・哲学の鴎外は、同時代の西洋近代の概念を日本に輸入して植えつけた両巨頭です。

 「病」とは何か。あの当時は結核によって何人もの文学者や画家が亡くなっています。しかし、文学作品の中で「病」というときは神経衰弱を指す──もっとも、「神経衰弱」とはいったい何という病名の訳語なのかがいまだ判然としないのだけれども。

 「犯罪」は、「新青年」という雑誌ができて探偵小説が翻訳・創作される中で文学の大きな流れになった。

 そして、先ほど言ったようなさまざまな視覚装置を用いて「変態」「病」「犯罪」と「視ること」とを重ね合わせた作品を書いたのが乱歩です。

──もうひとつ、横光利一や川端康成ら新感覚派の作家の映画とのかかわりと、彼らの私小説的な「私」とは無縁な彼らの文体についても書かれていますよね。乱歩、朔太郎、谷崎、横光、川端……今回の本に登場する作家たちは、おおむね自分の内面より外側──他人の暗部も含めて──を視ることに関心が向いている作家のように思います。

谷川 新感覚派に引きつけて考えれば、「表面」を描こうとした、といえる。新感覚派と映画は、どうかかわるのか。横光も川端も、例えば映画『狂った一頁』(1926年)に関与しています。

 映像は表面しか撮ることができない。だから、ショットを重ねたり、同じところにカメラを置いてロングで撮ったり、クロースアップしたり、パンで引いたり、オーバーラップさせたりすることで表現していく。こうした「ショット」という映画的な技法を小説の言語的な技法に応用しようとした表現が、横光や川端の小説には出てきます。

 このようにテクノロジー、とりわけ視覚装置が近代の作家の想像力には決定的な影響を与えた。そして、その流れは終わったわけではない。こうした問題は、マクルーハンが言っていたこととも関係します。マクルーハンは世界中が神経網に覆われ、世界は皮膚のようになるだろうと予言した。皮膚というのはつまり表層、表面です。

 あるいは、美学者の中井正一は世界の文明が「うつわ」と「からくり」になるだろうと予想していた。「からくり」は世界中を覆うもので目に見えず、ただ四角い「うつわ」を指先でいじって見るだけになる、と。今やスマートフォンという名の「うつわ」と目に見えない「からくり」を通して、世界中は皮膚と化し、足早に切り替わっていく表層をのぞく人間だらけになっている。

──「孤独な窃視者の夢想」は過去の話ではなく、むしろそれが遍在するようになったのが現代だと。

谷川 昔は電車に乗るとお互いに目が合い、それが元でケンカが起こったりしていたけれども、今は起こらない。スマホという「うつわ」を通して他人のことをのぞき見ているだけになった。そして、そのまなざしは一方的です。そういう意味で、乱歩や朔太郎に表れた近代の問題が世界中に広がっているといえる。

 顔も見せずに匿名で悪口を言うことはモラルに反する、というのが従来の「対面倫理」だったけれども、今は通用しない。歩きスマホをして人にぶつかりそうになっても、謝りもせずに去っていく。これは昔なら考えられない態度です。朔太郎のように目を合わせない主体が当たり前になってしまった。では、窃視者だらけになった今、対面倫理に代わる倫理をどう打ち立てるのか。『孤独な窃視者の夢想』はそういったことを、この問題の端緒といえる朔太郎や乱歩のような日本近代文学の作家に立ち返って考えるきっかけにもなるでしょう。

谷川渥(たにがわ・あつし)

美学者。著書に『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫)、『シュルレアリスムのアメリカ』(みすず書房)、『肉体の迷宮』(ちくま学芸文庫)、『文豪たちの西洋美術 夏目漱石から松本清張まで』(河出書房新社)ほか多数。

  • 11/23 11:00
  • サイゾー

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