世帯年収2,500万のDINKS妻。ある日、結ばれることのない年下男に恋をして…
どんなに手を伸ばしても、絶対に届かない相手を想う。
でも、その距離感さえ愛おしく感じる。
彼女たちが抱く想いは、憧れか、依存か、それとも本物の愛か?
結ばれることのない相手に人生を捧げる、女たちの心情を紐解いていく。
これは、「推し」がいる女たちのストーリー。
『結婚6年目・DINKS妻の恋』奈津子(33)【前編】
PCを閉じ、大きく伸びをする。窓の外から見える空は暗く、高層ビル群だけが細かい光を放っていた。
ふと時計を見て、ぎょっとする。時刻は21時半。そういえば今日は、私が夕飯を作る当番だったはず。
急いでリビングに向かうと、夫の正治は、すでに弁当のようなものをつまみながらビールを飲んでいた。
「まさくん……ごめんなさい。会議が思いのほか長引いて」
「奈津、大丈夫だよ。そんなことだろうと思って、仕事帰りに晩メシ買ってきたから」
よく見ると、それは六本木『鮨 由う』のちらし寿司。
以前から、テイクアウトしてみたいと2人で話していた店のものだ。
― 私の分も買ってきてくれればいいのに……。
1人分しか用意されていないそれを見て、小さくため息をつく。
しかし、夕飯担当だったのに用意をし忘れた私のほうが悪い。そもそも『家事はすべて分担し、その他自分のことは自分で』という2人で決めたルールがある。
夫は何も間違っていない。もちろん、悪気もないのだろう。
それでも、彼の異常なまでに気の利かない性格には度々イラッとさせられる。
夫には何も期待しないと決めている妻が、行きついた先とは…?
大手自動車メーカーで研究職をしている3歳上の夫と、広告代理店でプランナーをしている私。
今年の12月で、結婚して丸6年になる。
お互いに仕事はうまくいっており、世帯年収は2,500万ほど。年収は2人ともほぼ同じくらいだが、生活費の金銭的負担は夫のほうが少し多く、その分、担当する家事は私のほうが少し多い。
不公平にならないよう、きっちりルールを作った。
そんな結婚生活に、大きな不満はない。
それでも、ここ最近『離婚』の二文字が頭をよぎる。
― 私たち、一緒に暮らしている意味ないんじゃないかな…。
ひとりの時間を大切にしたい私たち。お互いの生活を尊重しよう、というところは合致している。だから、結婚当初からそれぞれの部屋を持ち、寝室も別にしている。
そのかわり、週に1回は必ずデートする……はずだった。
しかし、結婚して3年が過ぎた頃から、徐々にデートの頻度が低くなり、コロナをきっかけに毎週のデートや外食をほぼしなくなった。
最近は、外食はおろか、2人でスーパーやコンビニさえ行っていない。
コロナの影響もあって、お互い家にいることが増えたが、夫は自室に閉じこもっているか、ゲームをしているかのどちらかだ。会話も必要最低限しか、交わさない。
そんな生活をしていたから当たり前だが、夫とはもう1年以上もレスだ。
結婚後6年も経てば、ほとんどの夫婦が“家族”になり、レスになっていくのはよくあることかもしれない。
でも、私にとって夫は、家族というより“同居人”だ。この家には、家族の温かみなんてない。お互いが別の方向を向いて生きている。
仕事は多忙だが、家では気の利かない夫と冷めた夫婦関係を続けなければならない。
そんな日常に、私は寂しさを感じていた。
― 心を癒してくれる何かが欲しい……。
ライブ配信アプリ
「奈津子さん。そういえばWebCMのコンペ、うちの会社負けたらしいですよ」
久々に出社し、後輩とランチをしているときのこと。軽めのパスタコースを食べ終えたあとに、彼女が突然仕事の話を始めた。
「ああ、A社のやつね。そんなに大きな案件でもないのに負けるなんて、油断してロクに企画を練ってなかったんでしょ」
「それもあるみたいなんですけど、なんか、勝った代理店の企画が『ライブ配信アプリの人気投票ランキングで、キャスティングを決める』っていう内容だったみたいで」
彼女の言葉に、私は眉をひそめる。
最近は、外出自粛も相まって、家で楽しめるライブ配信アプリが、世間で話題になっていることは知っていた。アプリ内のイベントで優勝した配信者は、番組やCMに出演できたり、アイドルデビューすることもあるという。
でも、今回コンペを行ったA社は、日本中の誰もが知る大手化粧品メーカー。いくらWebCMとはいえ、配信アプリをやっているような素人同然のタレントをキャスティングするなんて驚きだ。
「なんか、配信者のファンってすごいんですって。この前の雑誌モデルのイベントなんて、1位の子には、2週間で合計1,000万以上課金があったみたいです。1番課金した人は、500万くらいつぎ込んだとか…」
「ひとりで500万!?ほぼ半分を、その人が捻出したってこと!?」
思わず大きな声を出してしまい、手で口を押さえる。そんなに有名なわけでもないタレントに、大金をつぎ込む人たちが存在するのか。
しかも相手を画面越しでしか拝めず、投資したとしても付き合えるわけでもなんでもなく、ただお礼を言われるだけなのに。
「ライブ配信アプリのランキングって、課金がすべてですからね。ファンがどれだけいても、その課金が少額だったら意味がない。ひとりの金持ちが全部ひっくり返せるんです」
課金は、直接タレントにお金を振り込むわけではなく、そのアプリ内だけで使える「ギフト」というのを買って、配信中にプレゼントするシステムらしいが…。
私が、理解できないというふうに首を傾かしげると、後輩はさらに続ける。
「ファンは、『自分がこの子を押し上げたんだぞ!』ってドヤ顔できるし、Win-Winみたいですよ」
「……そんなことのために、お金を使う人たちがいるのね。私だったら旅行したり、美味しいもの食べたり、自分のために使いたいけどねぇ」
私がそう言うと、後輩は大きくうなずいた。
お互いに食後のコーヒーを飲み干し、「そろそろ行こうか」と店を後にした。
その後、後学のために、ライブ配信アプリをインストールした奈津子だったが…
出会い
豊洲のマンションに帰宅後、シャワーを済ませて自室に直行する。
夫は、リビングでボイスチャットを繋ぎながらオンラインゲームをしているようなので、声はかけない。
― 自分の部屋でやればいいのに。なんで私がゲームのために気を使わなきゃいけないのよ……。
そんな愚痴を心の中でこぼしつつ、ベッドに倒れこむ。
今日も一日忙しかったが、昼食を食べる時間があっただけまだマシだ。
― そういえば、ランチのときにライブ配信アプリがどうとかって……。
ふと、後輩との会話を思い出す。興味があるわけではないが、今後ライブ配信アプリが絡むような案件は増えていくだろう。
後学のためにと、私は検索して一番上に出てきた「17Room」というアプリをインストールしたものの…。
『あ~takaさんギフトありがとう!あ、よしたろうさん今日も来てくれたんだね。……ちょっと、ヤスチンさん、ウケるー!』
― 私は、一体何を見せられているのだろう…。
17Roomで色んな人のルームを覗き始めて30分。早くも心が折れそうになった。
いくつかルームを回ってみたが、そのほとんどが画面に向かってコメントに答えているだけ。もちろん、そのトークだってまったく面白くない。
それにもかかわらず、人気の配信者のルームでは、ギフトと呼ばれる“投げ銭”が飛び交っている。
― これが若者の文化なのか……。わからない私は、もうオバサンだな。
思わず、はは、と渇いた笑いがこぼれる。
なんとなく雰囲気はつかんだし、次にもうひとつルームを見たらアンインストールしようと考え、適当なルームをタップした。
「……ん?」
入室し、思わず目が止まった。
そのルームでは、アコースティックギターを持った男の子が弾き語りをしていた。
アプリの音質はイマイチだが、その歌声はプロ級に美しい。
演奏の腕前もなかなかだ。
そして、何より――。
― この子、めちゃくちゃカッコイイ……。
サラサラの黒髪に、真っ白で小さな顔。切れ長の目と、通った鼻筋、薄い唇。
黒のダボっとしたパーカーから覗く指は細くしなやかで、ギターの弦を軽やかにはじいている。
私の目と耳は、彼に釘付けになった。
◆
『……はい。いまお聴きいただいたのは、高校の頃に作ったオリジナル曲で……あ、“ナツ”さん!今日も来てくれてありがとうございます』
17Roomをインストールした日から、1週間が経った。
あれから私は、毎日のように彼、佐々木流太くんの配信を見に来ている。
『バイト終わりだから、いつもこんな遅い時間になっちゃうけど……皆さんが応援してくれるから、毎日の配信も頑張れます。でも、そろそろ隣の人から苦情が来ちゃうかも』
彼は頭をかきながらヘラヘラと笑って見せる。なんてまぶしい笑顔なのだろう。
流太くんは、まだ20歳の大学生だ。勉強、バイト、音楽活動と、忙しい毎日を送っているらしい。
― ハタチの子の配信を毎日見に来てるなんて……私、大丈夫かな。
今日で最後、今日で最後……と思いつつ、気がつけば早1週間。
3日目あたりでちょっとしたギフトを投げてみたら、まだファンの少ない彼からはすぐに認知をされた。
そこからはもう、入室するたびに『ナツさん』と声をかけてくれるので、思わずギフトを投げてしまう。
今まで、スマホアプリに課金をしたことなんて一度もなかったのに。
― でも、でも、流太くんが可愛いんだもん……!
名前を呼ばれるだけで、顔を覆いたくなるくらい嬉しい。
たった3,000円程度のギフトで、目を丸くして喜ぶ彼が愛おしい。
リクエストした曲を歌ってくれたら、もう、感動で涙が出そうになる。
彼と出会ってから1週間、私の世界は急にキラキラと輝きだした。
相変わらず仕事は目が回るほど忙しいし、夫は気が利かない。何なら昨日は担当のトイレ掃除まで忘れていたけれど、まったくイラつかなかった。
『えーっと、なになに、“流太くん、絶対大学でモテるでしょ?後輩からチヤホヤされてそう”って、なんですかこのコメント!僕、全然モテないですよぉ』
― ……あ。
あるリスナーからのコメントを読み上げ、笑う彼。そのとき、私はふと気がついた。流太くんは、私が上智大学に通っていた頃、憧れていた先輩に雰囲気がよく似ているのだ。
軽音部でベースを弾いていた先輩だ。
普段はクールで、でも笑顔はくしゃっとしていて可愛くて。大好きだったけど、彼には学内のミスコンでグランプリを取り、のちにキー局のアナウンサーになった彼女がいた。
とても、私の手の届く相手ではなかった。
― でも流太くんは、課金をすれば私のほうを向いてくれる。もっと課金をすれば、もっと私を見てくれるかも……。
私は流太くんに先輩の影を重ね、さらにのめりこんでいった。
そして、私と夫との関係は、まさかの展開を迎えることになるのだった。
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憧れの先輩によく似た流太に課金を続ける奈津子。一体、彼女はどこまで落ちてしまうのか…?