幼稚園から私立育ち、エルメスは普段使いの親友。お嬢様が女に切望する“お願い”とは?

あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?

「元カレとはもう、なんでもないから」

大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。

だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。

しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。

「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。

◆これまでのあらすじ

社内の後輩・健作と婚約していた千秋。しかし、健作の中高時代の元カノ・雛乃が現れたことで関係がこじれてしまい、婚約は破棄となる。

それから一年後。すっかり失恋から立ち直った千秋だったが、友人・明日花に健作とのツーショット写真を見られてしまい…。

▶前回:「隣にいるこの人って…」元カレの写真を見返していると女友達から思いがけない反応が


湿度の高い8月の夜の熱気と、ぐつぐつと煮えたぎる火鍋の熱で、じっとりとした汗がまったく引かない。

そんな鬱陶しい暑さなどまったく意に介さずに、明日花ちゃんはぐっと顔を寄せて私との距離を詰めてくるのだった。

「この人って、健作くんだよね?」

そう言って明日花ちゃんが指をさしたのは、私のスマホに残っていた2019年の健作と私のツーショット写真だ。

― なんで明日花ちゃんが、健作のこと知ってるの?

頭の中がぐるぐると混乱しそうになりながら、私はどうにか声を振り絞って答える。

「うん、日比野健作。同じ会社の人なんだけど、明日花ちゃん知ってるの?」

私がそう言うとすぐに、明日花ちゃんは口元に手をやり、目を大きく開きながら言った。

「うそ、信じられない…!健作くんが千秋ちゃんと知り合いだなんて…」

そして、表情をガラリと変え、驚きつつも満面の笑みをパアッと浮かべるのだった。

「すっごい偶然!こんなことってあるんだねー!ねえねえ、同じ会社の知り合いならさ、仕事がデキる人かわかるよね?会社での健作くんのこと、教えてくれない!?」

「あ…え…?」

あまりの展開の速さに、理解が追いつかない。私は、とめどなく喋り続ける明日花ちゃんを制止しながら、恐る恐る質問した。

「明日花ちゃんと健作は、どういう知り合いなの?」

千秋と健作の繋がりに喜ぶ明日花。その真意は?

「えっとね、この前紹介されたんだ!広告代理店で働いてる友達が、会社の先輩に2対2でご飯食べたいってお願いされて。

そこで健作くんと会ったの。会社の先輩は、菊田さんって名前だったよ。知ってる?」

健作と菊田くん。そして、明日花ちゃんとお友達の4人で開催された食事会。

奥手だった健作が食事会に顔を出すなんて、少しギャップを感じたけれど、今の私にはもう関係のないことだった。

「それでね、私は菊田さんよりも健作くんの方がいいなーと思ってて。でも健作くんって、あんまりたくさん喋るタイプの人じゃないでしょ?

連絡先だけは交換してあるんだけど、このあとどうすれば仲良くなれるかな〜って思ってたの!」

あまりの世界の狭さに、頭がクラクラする。そういえば、菊田くんは大手広告代理店勤務で、メディア業界の女子とよく食事会をしているという話を健作から聞いたこともあった。

予想外の展開に、私はやっとのことで「そうなんだ…」とだけ返事をする。

その一方で明日花ちゃんは、私と健作が知り合いという事実にテンションが上がったようで、ますます饒舌になっていくのだった。


「ねえねえ、健作くんってどんな人?食事会では、物静かで優しい感じだったけど!」

「うん、すごく優しい人だよ」

「仕事はできる方かな?ほら、優しすぎる人って、仕事がイマイチできなかったりするじゃない?」

「仕事はかなり真面目だし、割とできる方なんじゃないかな…?昇進も順調にしてると思うけど」

私の顔色など気にもせず、明日花ちゃんの質問攻撃は続く。

「そうなんだ。やっぱりいいかも〜!私、健作くんみたいな顔がとにかくタイプなんだよねぇ。塩顔の可愛い系!」

「そっかぁ…」

はしゃぐ明日花ちゃんに、私は淡々と当たり障りのない回答を返していく。

しかし、次に明日花ちゃんが言ったセリフには、言葉をつまらせることしかできなかった。

「ねえねえ、千秋ちゃんがそんなに健作くんと仲良いならさ…。今度3人で一緒にごはん食べない?」

明日花ちゃんの口から飛び出た、思いがけない提案。最適な返事が思いつかない私は、バーニャカウダをつまむ手を止める。

「人見知りっぽい健作くんに、もう少し打ち解けてもらうために、一度千秋ちゃんが来てくれたら嬉しいな〜!

…あっ。千秋ちゃんも良い相手探してるなら、健作くんに誰か連れてきてもらって、食事会にしてもいいし!」

見当違いな気を回す明日花ちゃんに、どう返していいものかわからない。

もしも明日花ちゃんが、この先ずっと私に健作についての質問をしてくるのなら…。いつまでもこんなふうに誤魔化すのは、難しいだろう。

私は、手に持っていたバーニャカウダのケールをそっとお皿に置くと、覚悟を決めた。

「3人で集まってごはんは…ちょっと無理かも」

「えー!千秋ちゃん、そんなこと言わないで協力してよ〜!」

「いやだって、気まずすぎるし…」

「えっ?何が気まずいの?」

明日花ちゃんは、キョトンとした不思議そうな表情を浮かべている。

私は、そんな明日花ちゃんの方にまっすぐ向き直ると、ゴクリと唾を飲み込み、真実を告げた。

「だって私…。健作の、元カノだから」

健作の元カノであることを告げた千秋。明日花の反応は…

健作についてマシンガンのように質問責めをしていた明日花ちゃんが、ついに口をつぐんだ。

― うわぁ、気まずい…。気に入ってた人が友達の元カレだったなんて、ショックだよね…。

なんとも言いようのない罪悪感が、胸の奥底から湧き出てくる。しかしその罪悪感は数分後、得体の知れない混乱と違和感に跡形もなく流されてしまうのだった。

「そうだったんだ…。健作くんのこと、まだ好きなんだね…。こんな話をして、ごめんなさい」

しばらくの間、黙っていた明日花ちゃんが神妙な面持ちでつぶやいたのだ。

私が元カノである事実を伝えたことが、意味が飛躍して伝わってしまった。そのことに焦ってしまい、慌てて全力で否定する。

「えっ!?いやいや、好きとかそういうわけじゃないよ!今はもう、なんでもないから!」

まさか、自分がこのセリフを言う日がくるなんて。

思わず苦笑いがあふれる。そんな私の反応などお構いなしに、明日花ちゃんは真剣な眼差しで言葉を続けた。

「そうなの?でも、未練がある…ってことでしょ?」

「ううん、びっくりするほど無いよ。確かに、結婚直前までいったから、別れたときはダメージかなり大きかったけど…。

でもその分、私と健作じゃ徹底的に合わないってことがわかったし。未練はゼロ」

そう私が答えると、これまで深刻そうに眉根を寄せていた明日花ちゃんが、心の底からホッとしたような表情を浮かべた。

「じゃあ、気にしなくていいよね?」


「え…?」

「あ、ごめん。3人で会えないのはわかった!でも、千秋ちゃんがもう全然好きじゃないなら、私このまま健作くんのこと好きになってもいいよね?」

「え、あ…それはもちろん!でも、好きな人の元カノを知ってるのって…明日花ちゃんはイヤじゃない?」

私がそう言うと、明日花ちゃんはまるでジョークを聞かされたようにケラケラと笑った。

「えー?そりゃ、二股かけられてたりしたら嫌だよ!でも、もう別れてて、絶対ヨリも戻らないんでしょ?だったら、過去を気にする必要なくない?

私、幼稚園から共学の私立一貫校だったから、周りはみんな誰かの元カレ元カノばっかりだし。よくわかんないや!」

聞けば明日花ちゃんは、健作と雛乃ちゃんとは違う私立一貫校で育ったのだという。

渋谷にほど近い学校は、自由な校風で恋愛も盛ん。そんな青春を過ごしているのなら、確かに健作や雛乃ちゃんと似たような感覚の持ち主なのだろう。

私は、明日花ちゃんが無造作に放り出しているTGMサイズのピコタンを横目で見る。

幼稚園から私立で育ち、過去の恋愛なんてまったく気にせず、エルメスを普段使いできる裕福で明るいお嬢様。

もしかしたら健作には、明日花ちゃんみたいな人が合うのかもしれない。少なくとも、別れたあとの健作の恋愛に口を出す権限なんて私にはなかった。

ひとしきり昔の恋愛話を聞かせてくれた明日花ちゃんは、改めて、私に太陽のような笑顔を向ける。

「千秋ちゃんと恋バナできるの、嬉しいなぁ。これからも健作くんのこと、色々教えてくれる?」

「もちろん。何もできないかもしれないけど、応援するよ」

「じゃあさじゃあさ、健作くんの好きな食べ物は?私から誘ってみようと思う!」

「揚げ物、かな。カツ丼が一番好きだから。あとは多分、コーヒー…」

この底抜けに明るい笑顔の前では、頑なに健作の話題を拒むほうが意地悪なように感じられた。

健作は、今でもコーヒーが好きだろうか?久しぶりに、頭の中に健作との様々な思い出があふれかえる。

先ほど感じたばかりの罪悪感は、今は微かな違和感に置き換わっていた。

それでも私は、屈託のない天使のような笑顔の前で、あっという間に明日花ちゃんのペースに巻き込まれていくのだった。


▶前回:「隣にいるこの人って…」元カレの写真を見返していると女友達から思いがけない反応が

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「健作の彼女になりたい」という明日花。千秋がとった行動は…?

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