『青天を衝け』渋沢栄一 “エロオヤジ”の本性がついに劇中でも!? 大内くにとの“不倫”と、千代との「妻妾同居」三角関係

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 先週の『青天を衝け』、ついに渋沢栄一がエロオヤジの本性を出してきた……!などとネットを沸かせるシーンが登場しました。これまで婚外恋愛的な描写はまったくなかったというのに、足袋にあいた穴を繕い、自室まで届けてくれた料亭女中の大内くに(仁村紗和さん)の手を渋沢がぐいっと引っ張り、手慣れた様子で部屋に入れたシーンには筆者も思わず目を丸くしてしまいました。「とっさま」こと市郎右衛門(小林薫さん)の最期といった重要なシーンの印象が薄くなるほどの衝撃でしたねぇ。

 実は『青天~』のOP曲の指揮を担当している尾高忠明さんが、この大内くにと渋沢の間に生まれた文子(=ふみ)の孫にあたる方なので、ある意味、大内くにの登場は必然だったようですが、先週の放送までまったく気づきませんでした。

 この連載でも「渋沢の性豪伝説は描かないつもりなのでしょう」というコメントばかりしてきましたが、いざ出てくると、赤い糸で誰かが繕った夫の足袋を見て、複雑な表情を浮かべる妻の千代(橋本愛さん)みたいな気分になってしまいましたね。

 史実の渋沢栄一(と喜作)には、高崎城の襲撃計画に失敗し、血洗島の実家から上方(=関西)目指して命からがらの逃亡中という時ですら江戸の吉原に立ち寄っていた記録があります。ドラマでは彼らのそういう側面をまったく描こうとしなかった分、今回の描写があまりに唐突で、今後どうなってしまうのか若干不安な方も多いと思います。今回は史実に基づいて渋沢の夜の生活について話をしてみましょう。

 大内くにと出会った当時の渋沢は、大蔵省の仕事で大阪へ単身赴任中でした。「大蔵大丞」という、ものものしい役職名になったとドラマにも出てきましたが、この頃の新政府の高級役人に対する世間の評価は、現在のわれわれが官僚を見る目よりもはるかに高く、まるで「殿様」扱いしてもらえるのです。以前の放送では、「とっさま」こと市郎右衛門からも「殿様」と呼ばれた渋沢でしたが、新政府の高級役人となることで、彼の性的倫理まで本物の殿様っぽくなってしまったのかもしれません。

 旧・鍋島藩主の家庭に生まれ育ち、明治期に梨本宮家に嫁いだ伊都子妃(梨本伊都子)の回想録をひもとくと、当時の大名華族の家庭では、正妻とその子たちのほかにも家族がいるのが普通で、3人くらいの側室が、彼女たちの生んだ子供たちと共に同居しているのだそうです。これが「殿様」の家庭の“普通”で、とくに問題視されるようなレベルの倫理的な乱れではなかったそうですよ。

 今夜(10月17日)の放送となる第31回でも出てくることになりそうですが、渋沢は、大内くにと彼女との間にできた子(ふみ)を東京に連れてきて、千代と同居させます。その事実から、渋沢は大内を単なる妾ではなく、側室として大事に扱っていたことがわかります。妾とは、基本的に別宅に囲っている女性のことを指しますので。

 大内くにと渋沢の出会いには諸説あります。ドラマでは、「戊辰戦争」に出征した夫が帰ってこないから女中をしている庶民的な女性として登場しました。渋沢家の縁故の学者・穂積重行の“解説”を筆者なりにまとめると、大内は京都出身者で、明治天皇の皇后に仕える高級女官だった高倉寿子に「女嬬(=雑用係の下女)」として雇われたために東京で働いていた時期もあったが、訳あって仕事を辞めて京都に戻りました。明治4年(1871年)以降は造幣寮管理のために大阪に来ていた渋沢の現地妻となって、渋沢との間にはその明治4年生まれの「ふみ(=のちの文子)」、明治6年生まれの「てる(=のちの照子)」という二人の娘を授かり、彼からも認知してもらって嫡出児にすることができたのだそうです。

 渋沢が東京に帰ってしばらくした明治5年、千代が長男「篤二」を授かり(余談ですが、篤二は後に正妻を捨て、愛人女性を正妻の座に据えようとしたことで、渋沢からモラル違反を咎められ、廃嫡に追い込まれています)、明治6年には大内が「てる」を生むというように、渋沢家はベビーラッシュに見舞われます。ただ、「てる」以降、大内が渋沢の子を生むことはありませんでした。正妻の監督下に置かれたことで、愛人としての「妾」から家の仕事を手伝う「召使い」になる選択を大内自身が望んだのかもしれません。

 大内の目には、渋沢が千代を捨てて自分を正妻に格上げする見込みはないと映り、それならば自分の娘の将来をより安泰にするため、家中で権力を持つ千代に逆らわずに生きたほうが賢いと思ったのでしょう。ただ、いくら広い屋敷とはいえ、同じ屋根の下で渋沢が自分とは違う女を抱いている気配は、千代、大内ともに感じられたはずで、お互いに気詰まりだったことでしょう。おそらく渋沢だけが何も気にしていなかったのではないか、と思われます。

 先述の学者・穂積重行によれば、こうした三角関係も、あの時代では「不自然なことではなかった」そうですが、彼は渋沢の長女・歌子の孫にあたる人物なので、そう言わざるを得ない部分もあったことでしょう。

 また、今風にいえば“(夫に浮気を)サレ妻”千代の本音が気になる読者もいるでしょうが、彼女の男性観は「男は色気が大事」と要約しうるものでした。

 時期は不明ながら、渋沢家に寄宿させていた親類の男子を千代が叱った時の言葉を娘の歌子が記録しているのですが、千代いわく、「男だからと云って(略)少しも愛嬌が無く、万事にごつごつしているのがよいことはない。私はお前に、真の色男になってもらいたく思う。然(しか)しそれはにやけた遊蕩的なのを云うのではない。(略)万事に通じ物のあわれも知って居て、女子から命がけで慕われる程」の男が“真の色男”とのことです。

 千代が夫・渋沢栄一の“妻妾(さいしょう)同居”を許したのも、彼が大内くになど「女子から命がけで慕われる程」の“真の色男”だったから……という理屈なのでしょう。こんな価値観の千代だから、渋沢の不貞行為は“気にならない”。多少のやせ我慢は入っていたでしょうが、そう言い切れる範囲に収まっていたと考えられます。

 その一方で千代は、既婚女性が夫以外の男性と婚外恋愛することを断固として許しませんでした。歌子に対して、「(あなたは)名誉ある父上のお子である上に(略)学問もさせ(略)てあるから、不貞不義などの行いは決してないものと安心して居る。然し万一(略)浅ましいことをすることがあったならば、私は生きてその恥辱を堪え忍ぶことは出来ぬ。不義な者は愛する子でも刺し殺して直ぐその刀で自害して仕舞う積りだ」……などと言ったことがあったそうです(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』)。千代は冗談めかしていたそうですが、歌子はその言葉を聞きながら「これは本気だ」と感じ、心底恐ろしかったとか。

 大内と渋沢はその後、関係を完全に解消し、大内は渋沢の家を出ていきました。没年などは不詳です。

 明治15年(1882年)には千代がコレラで突然亡くなってしまうのですが、その翌年、渋沢は後妻を迎えます。お相手は、実家が没落して芸者になっていた、元豪商の娘の伊藤兼子です。しかし、興味深いことに、兼子と渋沢が結婚した時期は「正確にはわからない」とのことです。当時、数多くいた渋沢の妾たちの中で、渋沢の愛情が一番深かった相手が兼子であり、千代の突然の死によって、幸運にも後妻にしてもらうことができた……という事情が垣間見えるような気がしてなりません。

 このあたりの複雑な人間関係を、大河ドラマがハッキリと描くとは思えませんが、どの程度、触れるつもりなのだろうか……と少し興味が湧いてきてしまいました。

<過去記事はコチラ>

2021/10/17 11:00

この記事のみんなのコメント

1
  • 脱走兵

    10/18 21:46

    渋沢栄一の実態に関しては興味があればいくらでも調べられる。むしろ吉沢亮に変なイメージがつかないように大人の事情が働いてるんじゃないのか?若手イケメン俳優のおイタが問題になりがちなご時世だし。

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