中止、酷評も…“呪われた企画”『デューン 砂の惑星』映画化へのあくなき挑戦

 アメリカのSF作家フランク・ハーバートによる長篇小説『デューン 砂の惑星』を映画化したドゥニ・ヴィルヌーヴ監督最新作『DUNE/デューン 砂の惑星』が、ついに公開された。原作小説は、1963年から部分的に雑誌連載され、1965年に単行本化。SFファンだけでなく、幅広い読者から支持される人気作品になった。これほどのベストセラーを映画界が放っておくわけがなく、半世紀にわたって映像化の試みが繰り返されてきたが、時間を奪われ、失意のうちに去った関係者も多く、“呪われた企画”と呼ばれることもあった。

●原作小説のおもしろさ

 そもそも『デューン 砂の惑星』という小説の何がそれほど魅力的なのか。まず、波瀾万丈の冒険、成長物語であり、宮廷陰謀劇としておもしろい。アレクサンドル・デュマの『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』を思わせる、講談調と言いたくなるような娯楽性があり、中学生の筆者が初めて読んだときにハマったのもこの面だった。

 SFとしての新しさは、謎多きエキゾチックな惑星を舞台にするだけでなく、その惑星環境が成立している理由自体を謎の中心に置いたことにある。これは自然環境を一つのシステムとして見る1960年代の新しい認識に合うものだった。ドラッグによる精神の拡大や、アラブ・イスラム世界と西欧の対立という現実の政治情勢が投影されていることも、この時代に合っていた。

 そのうえで、今なお大人になった筆者がおもしろいと思うのは、政治的なリーダーシップへの懐疑や、権力を濫用せずにはいられない人類への絶望が色濃く現れていること。このあたりは、作者ハーバートが首都ワシントンDCで上院議員のスタッフとして働いた経験から来ているというから根が深い。

 ちなみに、この1作で大成功を収めたハーバートは、その後、定期的に「デューン」シリーズの続篇を発表し、現在は全8作のシリーズとして完結している。

第1作『デューン 砂の惑星』 Dune (1965)

第2作『デューン 砂漠の救世主』 Dune Messiah (1969)

第3作『デューン 砂丘の子供たち』 Children of Dune (1976)

第4作『デューン 砂漠の神皇帝』 God Emperor of Dune (1981)

第5作『デューン 砂漠の異端者』 Heretics of Dune (1984)

第6作『デューン 砂丘の大聖堂』 Chapterhouse:Dune (1985)

第7作 Hunters of Dune (未訳) (2006)

第8作 Sandworms of Dune (未訳) (2007)

 第1~3作を初期三部作、第4~6作を後期三部作と呼ぶことがある。ハーバート自身は1986年に65歳で亡くなり、完結篇となる2作は、息子で作家のブライアン・ハーバートとSF作家ケヴィン・J・アンダースンが引き継いで完結させた。このコンビによって今も新作が書かれているので、シリーズは継続中でもある。

●“呪われた”映画化の歩み 幻のホドロフスキー版

 1970年代、映画化にまず手をあげたのは、ハリウッドのプロデューサーで、当時、20世紀フォックスで「猿の惑星」シリーズを手がけていたアーサー・ジェイコブスだった。監督候補をデヴィッド・リーンとしたのはもちろん、砂漠と文明衝突の映画である『アラビアのロレンス』の実績を踏まえた資金集めが狙いだろうが、当時のリーンは『ライアンの娘』の興行的な失敗で失意のどん底にあり、たとえ実現しても引き受けたとは思えない。

 次に名乗りをあげたのがチリ出身の映画作家アレハンドロ・ホドロフスキー。2本のメキシコ映画『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』で、一躍芸術界の寵児となった彼が、パリに移って企画したのが『デューン』の映画化だった。

 しかし、ホドロフスキーは映画を12時間の大作にすると豪語したため、スタジオから資金が集まらず、撮影前に企画は頓挫してしまった。この実現しなかったホドロフスキー版については、当時、SF映画専門誌などで断片的に報じられたが、全貌が明らかになったのは、ずっと後の2013年に長篇ドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』が作られたおかげだった。

 ホドロフスキーは1975年にパリで製作準備に入るが、これが伝説化したのはスタッフとキャストの豪華さゆえ。フランスを代表するコミック作家メビウス、イギリスのSF画家クリス・フォス、スイスのシュールレアリスム画家で、『エイリアン』のデザインでも知られるH・R・ギーガー、ロサンゼルスのSF・特撮映画作家ダン・オバノンという夢のような顔ぶれが集められ、さらに、アトレイデス家の場面はピンク・フロイド、ハルコンネン家の場面はマグマと、英・仏を代表するロックバンドに音楽を依頼。出演者はデヴィッド・キャラダイン、ウド・キア、ミック・ジャガー、オーソン・ウェルズ、サルバドール・ダリに交渉していたというからすさまじい。

 『ホドロフスキーのDUNE』には、メビウスの絵コンテをアニメーション化して動かした場面がいくつもあり、ドキュメンタリー映画とはいえ、これ自体も『デューン』映画化の1本に数えたくなる熱気に満ちている。

・『デューン 砂の惑星』映像化作品

(1)『ホドロフスキーのDUNE』(2013)

(2)『デューン/砂の惑星』(1984)

(3)『デューン 砂の惑星』(2000)/『デューン 砂の惑星 II』(2003)

(4)『DUNE/デューン 砂の惑星』(2021)

 (1)がアレハンドロ・ホドロフスキー版、(2)が映画化実現となったデヴィッド・リンチ版、(3)がテレビミニシリーズ版、(4)が新作のドゥニ・ヴィルヌーヴ版となる。例えば、この4つすべてに、作品を代表する一大スペクタクルシーンである“サンドワームから作業員を救出する”シーンが含まれており、比べて見るとおもしろいし、それぞれの作者の考え方がよく判る。

 この場面、原作では“オーニソプター”という羽ばたき飛行機が登場するが、映像版で実際に羽ばたく翼を備えているのは(1)と(4)。そして、この時代の人類は重力制御を実現しており、室内の椅子や照明器具、ハルコンネン男爵も宙に浮いている。ならば飛行機に翼は必要ないと考えたのがリンチ版(デザインは『2001年宇宙の旅』の名匠トニー・マスターズ)。そこまで果断になれず羽ばたかない小さな可変翼を付けたのがテレビ版だ。ヴィルヌーヴ版はそこにすばらしい知恵を働かせて、重力制御には限界があり、大型機械を飛ばすには補助が必要と設定。リアリティがあって見た目もいい、理想的なオーニソプターを初めて作り上げた。これらは、実はそれぞれの作品が作られた時代の映像の技術的限界から導き出された答えでもあった。

●意外なところに現れた影響 『スター・ウォーズ』は最初の『デューン』!?

 ホドロフスキー版が中止になった翌年、『スター・ウォーズ』(1977)が公開されて大ヒット。SF大作が斜陽の映画産業を救う可能性にハリウッド各社は開眼し、空前のSF映画ブームが訪れる。『スター・ウォーズ』で新時代の特撮映像を可能にしたのは、『2001年宇宙の旅』(1968)で経験値を上げたイギリスの撮影所と、アメリカ西海岸に集まった新世代のスタッフ。ここで映画史上初めて、どんなSF小説にも映像化の可能性が開けたことは大きかった。

 一方で、『スター・ウォーズ』の基本コンセプトは『フラッシュ・ゴードン』『バック・ロジャース』といった戦前のSF連続活劇を最新技術で甦らせようというものだったが、ジョージ・ルーカスといえども同時代のSFを無視していたわけではなく、そこには「デューン」シリーズの影響が入り込んでいた。惑星タトゥイーンの砂漠や原住民タスケン・レイダー、スペース・スラッグやサーラックといった巨大生物には、最初の『デューン』映像化と呼びたくなる完成度と感動があった。

●ついに映画化が実現するも…デヴィッド・リンチ版の紆余曲折

 SF映画ブームのおかげで、ホドロフスキー版のスタッフたちは1979年公開の『エイリアン』製作に再集結。映画も大ヒットし、イギリスの新進監督だったリドリー・スコットの次作に『デューン』映画化が再浮上した。製作は、イタリアのタイクーン(王侯のように絶大な権力を振るうスタジオ代表のこと)ディノ・デ・ラウレンティス。ジョージ・ルーカスの手が届かなかった『フラッシュ・ゴードン』を映画化し、次いで『デューン』に目標を定めた彼は、原作が長すぎてどうしても1本の長篇映画に収まらない問題を解決するため、なんと原作者フランク・ハーバート自身に脚色を依頼する。

 とはいえハーバートが自作のダイジェストを安易に行うわけもなく、無為に時間が過ぎ、スコットは新企画『ブレードランナー』のために去り、老齢のディノは娘のラファエラに『デューン』映画化を託す。『コナン・ザ・グレート』で成功したラファエラは、プロデューサーとして昇り調子で、『デューン』を大作映画として画策。監督には、美大出身で『イレイザーヘッド』『エレファントマン』で最短距離で名声をつかんだデヴィッド・リンチを抜擢。キャストも国際的なスター俳優たちを配置した。

 しかし、国際的なオールスター大作という映画作りの手法はすでに時代遅れであり、結果としてメキシコの撮影所に1年半ものあいだ留まることになったラファエラとリンチのコンビは、期待されたような映画を作ることができなかった。転んでもただでは起きないラファエラは、同じ撮影所で『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』を並行して製作。こちらは3ヵ月ですんなり撮了している。国際的なオールスター大作に必要なのは、『コナンPART2』のリチャード・フライシャーのような、古いタイプの経験豊かな監督であって、長篇2作の経験で『デューン』を任されたデヴィッド・リンチも不幸だった。

 いま見直すと、リンチ版でもっとも解せないのは、3時間以上あったものを2時間16分に切っているとはいえ、映画終盤の皇帝の帝位をめぐる争いの解決部分を、撮影したうえでばっさりカットしていること(ガウンを羽織るショットは残っているのに…)。このあとの惑星アラキスの環境激変シーンがあまりにも唐突で、失笑を買うことになるが、この前段があれば、遠い将来の出来事を予告したものとして、もう少し許容できたと思うと惜しいのである。

●いよいよ公開されたドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE/デューン 砂の惑星』

 12歳で初めて原作小説を読んだというドゥニ・ヴィルヌーヴは、『メッセージ』でSF映画を撮れることを証明し、『ブレードランナー2049』で大作SF映画を撮れることを証明して、一歩ずつ『デューン』映画化のチャンスをたぐり寄せてきた。

 映画を複数本に分けて、長さの問題を解決すること。妥協のないキャスティングで、映画の質と興業上の成功を同時に確保すること。実際、演技の天才でありつつスターとしての輝きも最高潮のティモシー・シャラメなくしては、この映画化は難しかっただろうし、相手役の重要性を増やしたうえでゼンデイヤを招いたキャスティングは、考え得る現代最高のカップルといえる。

 他の出演者もすみずみまですばらしいが、特筆しておきたいのは、アトレイデス家の三銃士というべき、ガーニー・ハレック(ジョシュ・ブローリン)、ダンカン・アイダホ(ジェイソン・モモア)、スフィル・ハワト(スティーヴン・マッキンレー・ヘンダーソン)の3人の佇まい。

 そのうえで、ここにはヴィルヌーヴがこれまでの監督作で追求してきたテーマやモチーフが重層的に含まれていて、彼の旅路も総括するものになっているのがすばらしい。「未来が見えてしまう時、人はどう生きるか」というテーマは『メッセージ』と『ブレードランナー2049』に、「男性の強さと脆さ」というテーマは『プリズナーズ』と『複製された男』に、「文化をまたぐ女性の融和的な強さ」というテーマは『灼熱の魂』と『ボーダーライン』につながり、これらを縦に見ることで見えてくるものもある。

 次作がいつ見られることになるのか、今から待ちきれない。次作に向けて伏せられた札になっている、仇敵フェイド・ラウサ役(デヴィッド・リンチ版でスティングが演じた)に、誰がキャスティングされるのか。物語は第2作あるいは第3作まで進むのか。未来が見えるなら今すぐ見たいと願うのは私だけだろうか。(文・添野知生)

2021/10/17 8:00

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