三大悪事を働いた戦国の極悪人!?松永久秀「将軍殺しの汚名」冤罪説

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「この老人はまったく油断できない。常人では一つもなし得ないことを三つもやってのけた男だ」

 織田信長から徳川家康にこう紹介された戦国武将の松永久秀。信長はこのとき、「三好家乗っ取り」「将軍暗殺」「東大寺大仏殿焼き討ち」を久秀の三大悪事に挙げ、彼は大逆無道の極悪人で、戦国の「梟雄(残忍で強く、荒々しいこと)」とも評されるようになった。

 だが、一番目と三番目はかねて濡れ衣が囁かれ、将軍が暗殺された「永禄の変」についても歴史学者の天野忠幸氏が自身の著書である『三好長慶』で〈松永久秀は将軍義輝殺害の首謀者どころか、大和に在国〉として以来、冤罪だった可能性が一気に高まった。

 はたして彼は本当に梟雄だったのか――。

 松永久秀は摂津の土豪の出身とされ、三好長慶の畿内支配が進むと、彼に仕えるようになった。

 そんな久秀に後世、主君の乗っ取りという汚名がどうして着せられたのか。

 久秀は長慶の一人息子だった義興を毒殺したばかりか、弟らの死にも関与したとされるが、これこそ冤罪である可能性が強い。

 まず、義興は病死。長慶の次弟だった三好義賢は明らかに戦死で、末弟の十河一存に至っては落馬事故が原因だ。

 三好一族に不幸が続いたことは久秀にとって、まさに不運。彼の讒言が原因で切腹に追い込まれたとされる二番目の弟の安宅冬康も、誅殺はあくまでも長慶の意思。

 長慶は当時、義興を失ったことから義継を養子に迎え、将来の政権を安定させるため、その障害となりうる冬康を排除したのだ。

 当時の畿内の戦乱の様子が描かれた『細川両家記』などによると、長慶は肉親を殺害したことに深い後悔の念を抱く一方、鬱病を患っていたともされ、冬康が殺害されてから二ヶ月後に死去。

 その翌年の永禄八年(1565)、将軍の復権を狙う足利義輝の機先を制するため、久秀が義継らとともに御所を急襲し、彼がその永禄の変の首謀者とされてきた。

 だが、久秀はすでにこのとき、嫡男の久通に家督を譲り、彼が当時、父に代わって書状を発給していたことからも明らか。

 だとすると、将軍暗殺の汚名は本来、義継か久通に向けられるべきでだろう。

 実際、義輝が殺害されたわずか三日後、その弟で後に将軍義昭となる奈良興福寺の一乗院覚慶に対し、久秀は「別儀ない旨」として身の安全を保障する誓紙を送付。

 のちに傀儡の将軍として足利義栄を擁立した三好勢にとって、義昭が言うまでもなく生かしてはおけない存在だったことを考えれば、久秀はやはり、義継らの企てに主体的には関与していなかったと言えるだろう。

 久秀はその後に再び、政治の表舞台に立ち、三好三人衆(三好長逸、同政康、岩成友通)が彼を三好家から排除しようとしたことで両者は対立。

 久秀は永禄一〇年(1567)、居城の多聞山城(奈良市)を三好勢に攻められ、彼らが東大寺の大仏殿に陣を敷いたことから火を放ち、その混乱に乗じて敵を敗走させたとされるが、実際はどうだったのか。

 畿内の合戦記である『足利季世記』に基づくと、〈松永衆、多門(聞)城より打ち出て日々、鉄砲競り合うばかりなり〉と記されているように戦況は膠着。

 その後、久秀勢は大仏殿に陣取る三好勢に夜討ちを敢行し、敗兵を追って敵の武将七名の首を挙げ、雑兵三〇〇余人を討ち取った。『足利季世記』には、このときの様子が〈三好衆の小屋、大仏殿を形とり、菰を張りて立つ〉と記されている。

 つまり、三好勢は大仏殿の周囲に菰を張り巡らせ、その一部が混乱の中、誤って火をつけてしまい、〈軍いくさの最中なれば消さんとする暇なく堂中に燃え出て〉焼失したというのだ。

 むろん、久秀勢の夜討ちが混乱を引き起こしたことは確かだろうが、かといって、その全責任を彼に負わせることは余りに酷。

 実際、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは『日本史』に、三好勢の失火どころか、兵の一人が意図的に大仏殿に火を放ったと書いている。

 フロイスが「勇敢」と形容した此の兵はキリシタンで、夜、見張りの番に立った際に信仰心から放火したといい、いずれにしても大仏殿焼失は久秀の悪事とは到底、言えないだろう。

■極悪人とされた一方で一流文化人の素顔も!

 久秀は後に信長に従うものの、天正五年(1577)に裏切り、居城の信貴山城(奈良県平群町)に籠城する。

 その後、城を包囲されて自害し、奇しくもこのちょうど八年前は、東大寺の大仏殿が焼失したまさにその日だった。

 そのため、久秀に仏罰が下ったともいわれるが、これはいくらなんでも言い掛かりに近い。

 ただ、歴史というものは一度、悪人と判断されると、どうしても何かと尾ひれがつきがち。

 実際、前述の『足利季世記』には久秀について〈分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり。諸人これを用ゆる〉と記され、極悪人のイメージとはかけ離れた一流文化人の素顔も垣間見える。

 これを裏づけるように久秀が天文二三年(1554)、千利休の師匠筋で茶道の祖としても知られている武野紹鴎の茶席に呼ばれた記録も残り、茶人としての経歴は信長よりもうんと古い。

 中でも永禄元年(1561)の茶会は圧巻。久秀は一〇〇〇貫の大金をはたいて入手した天下の名物である九十九髪茄子を披露し、山上宗二や今井宗久といった当時の一流茶人の度肝を抜いたのだ。

 久秀は他にも、戦国随一の名医とされた曲直瀬道三を侍医に迎えたように、悪人だったかどうかはともかく、一流の武将だったことは確かだろう。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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  • 10/14 17:30
  • 日刊大衆

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