鬼才・園子温がニコラス・ケイジとタッグ。還暦にしてハリウッドデビューできた理由

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 強烈な作家性で、日本の映画界に衝撃を与え続けてきた園子温監督。『紀子の食卓』や『愛のむきだし』、『ヒミズ』など、いまや国際的な映画賞を受賞する作品を数多く手がけているが、実は挫折の多い、遅咲きの人生だった。大学時代に自主映画を撮り始め、すぐに才能を見出されるも、商業監督デビューは40歳のとき。

 さらに、日本で映画を撮りながら、何度もハリウッドへの挑戦を続けていたが、なかなか実現には至らなかったという。しかし、ようやく最新作『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』でハリウッドデビューを果たした。しかも、主演にはニコラス・ケイジを迎えるという、夢のようなタッグで。本作はサンダンス映画祭で好評を博し、現在、日本でも全国公開中。念願だったハリウッドへの思いと、映画監督としての原点に迫る。

◆ニコラス・ケイジは空気みたいな存在

――園子温監督が、ハリウッドデビュー。そしてニコラス・ケイジが主演、かなり驚きました。

園:彼と実際に話してみると、僕の映画『アンチポルノ』を観て、泣いたっていうんだよ。それで、「君を本当に信用しているから、好きなように撮ってくれ」と言ってくれた。僕も『アンチポルノ』が一番好きっていう人は面白いな、とその場で意気投合。ゴールデン街に飲みに誘ったときは、とことん酔っぱらった揚げ句に、めちゃくちゃな英語で喋り明かしましたね。

――実際にニコラス・ケイジに会うまでどのような印象でしたか。

園:印象もなにも、空気みたいな存在ですよ。紅白の五木ひろし、水前寺清子と同じ(笑)。映画界になくてはならない。これまで彼はFBI捜査官からアルコール依存症まで、何でも演じているので、誰も見たことないニコラス・ケイジ像を打ち出すのは難しい。それならオーソドックスな彼のもともとのイメージのほうがむしろ斬新じゃないかなぁと考え、今回の作品では銀行強盗でありながら、世界を救うヒーローという役に仕立てた。

僕はメキシコでマカロニウェスタンを撮りたくて、彼をセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』に出てくるチャールズ・ブロンソンみたいにしたいと考えていた。そしたらニコラス・ケイジも「これチャールズ・ブロンソンじゃない?」と。事前にそんな話は一度もしてなかったのに、驚くべきシンクロですよ。まあ、結果は時代劇になりましたけど(笑)。この役はチャールズ・ブロンソンだっていうのは、お互いの約束になっていました。

◆クライマックスは思い切って変えた

――本作はサムライや遊郭、マカロニウェスタンが混ざり合った独創的な世界観です。どのように構想したのでしょうか。

園:脚本は僕が書いてはいないんだけど、最初に読んだとき、ラストは砂漠でのカーアクションだった。これでは『マッドマックス』じゃないかと思っていたら、結局、メキシコで撮影ができず、日本で撮ることになった。さて、どうしようと考えていたら、日本で撮るならいっそのこと外国人が勘違いしている日本文化やジャポネスクを逆手にとって、サムライや遊郭などを徹底的に外国人のイメージに合わせて、見せてやろうってね。日本だったら、クライマックスはやはり時代劇というか、“チャンバラアクション”のほうがかっこいいぞと、思い切って変えました。

◆映画の道に進んだのは童貞を失ったから?

――商業的色合いの濃いハリウッドと園監督との組み合わせは少し意外でした。

園:そもそもハリウッドが僕の映画の原点なんです。小学生の頃、テレビには毎日映画が流れていた。月曜、水曜、金曜はロードショー。そして土曜は映画劇場、日曜は洋画劇場ですよ(笑)。それも娯楽映画に交じって、反社会的な映画も堂々と放送されていた。

『俺たちに明日はない』、『イージー・ライダー』、キューブリック作品とかね。トリュフォーやゴダール、ベルイマンの芸術映画も夜9時から普通に流れていたから、全部並列で観てました。これは極端だとか、これはおしゃれだとか、そういう意識もまったくないまま、ひたすら映画を観まくっていた。

――映画好きの少年から、そのまま監督の道を志したのでしょうか。

園:いや、もともとは引きこもりだったんだよ。映画は自分が手を出すものではないと思っていた。クラスでもあんまり協力的ではなかったし、文化祭からも逃げ回ってた。団体行動がダメなんです。だから、当時は映画監督なんて考えもしなかった。

17歳で詩人デビューしたけど、それは一人で言葉と戯れていればいいだけなので。あと、手塚治虫が好きだったから、漫画家になりたいなぁ、というのはあったかな。漫画も一人でできるからね。

――それがどうして、多くの人を巻き込んで映画作りの世界に入っていったのでしょうか。

園:童貞を失ったのが大きかったかな(笑)。引きこもったまま、彼女もできずに一生童貞かと思っていたけど……あの頃はパンクが好きで、スターリンとか、ボアダムスの前身だったハナタラシとか、とにかく素っ裸になって破壊している連中が多く、自分も裸になって外へ飛び出して破壊してやろうって。

何か危ないことを繰り返すことで、社交性とまでは言わないけど、少しずつ自分の気持ちが外に向かっていきました。寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』にも影響を受けたね。それで上京し、22歳で大学に入って、一人で映画を作るようになったら、少し突破口が見えた。すると23歳で彼女ができ、童貞を失った。その途端に社会性を帯びたんですよ。

◆映画が僕を外に連れ出してくれた

――そんなに変わりますか?

園:それまでずっと一人で創作していたのが、彼女が手伝ってくれる。一人と二人じゃ、大違いですよ。彼女に出演してもらった映画が、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを獲って、そのスカラシップで、16ミリの映画を一緒に作った。それが初めて劇場公開された『自転車吐息』。映画が僕を外に連れ出してくれたのは間違いないです。

――25歳という若さで劇場公開を果たしたあと、すぐに商業映画監督としてのデビューにはならなかったんですよね。

園:そのあと映画から離れ、「東京ガガガ」の活動に専念したりしていたら、もう30代の終わりに差しかかり、このままじゃダメだと思った。引きこもりから東京に飛び出したときのように、次は「アメリカだ!」と、文化庁にも支援してもらって、サンフランシスコの大学に通って映画の勉強をしようとしたんです。

でも結局ダメだった。すぐにお金が尽きて、ホームレスみたいな感じになっちゃいました。それでも、やっぱり俺は映画を撮りたい、それも一回は商業映画監督デビューしたいと思ったのが1999年。20世紀の終わりに、アメリカで書いた脚本が『自殺サークル』でした。

◆嫌われる映画が園子温のテーマになった

――商業デビュー狙いには、とても思えないタイトルですが……。

園:もう嫌がらせみたいな気持ちで書いた。落ちるところまで落ちたからね。映画の勉強するために渡米したのに、サンフランシスコでホームレスって、なんだよって開き直った。とことん人に嫌われたいなぁ、嫌われる映画を作ろうと思って。それが園子温の心持ちっていうか、テーマになった。当時は心の底から悪意がありましたね。でも、不思議なことに、なぜかそんな作品を拾ってくれる会社が見つかるんですよ。

『殺し屋1』や『オーディション』とか、バイオレンス、ホラー系に強いオメガ・プロジェクトという映画会社で、ちょうど『リング』『らせん』を爆発的ヒットさせて、すごく調子がいい頃だった。それで『自殺サークル』ってタイトルだけで、脚本も読まずに製作を決めたって(笑)。映画撮影のために、日本に帰国したのは’01年です。もう40歳間際。ここまでが本当に長かった。

◆日本に帰ってきてから、すべてをぶつけたのが『愛のむきだし』

――その後もハリウッドで映画を撮りたいという気持ちは続いていたのでしょうか。

園:気持ちはずっとありましたよ。『自殺サークル』のあと、なかなか軌道に乗らなかったし、嫌われようと思って脚本は書いたけど、本当に自分の映画がめちゃくちゃ嫌われた(笑)。そのときは日本で撮るしかできないから、仕方なく日本で撮っているんだなという気持ちだった。J-POPがあんまり自分には受け入れられなかったんだけど、それと同じなのかなぁ。うまく周りに馴染めないというか。

人に嫌われないような優等生にはなりたくなかったという気持ちもあった。それでもう一度、アメリカに行ってみて、実際にハリウッドの映画会社を回ってみた。ハリウッドの重役たちの前で、撮りたい映画の企画を話すんだけど、「女子高生が侍ゾンビと戦って、セールスポイントはパンチラで……」と、いくら話しても面白さが伝わらない。ハリウッドはどこまでも商業路線で、僕が勝負したいエロチシズムや暴力、ホラーはまったく受け入れてもらえなかったんです。

またもアメリカで失敗し、日本に帰ってきてから、すべてをぶつけたのが『愛のむきだし』。僕はこの作品が本当の商業映画デビュー作だと思っていますね。

――『自殺サークル』から20年。その間は『冷たい熱帯魚』『ヒミズ』『地獄でなぜ悪い』『新宿スワン』と、次々とメジャー作品を撮ってます。

園:何度もアメリカで失敗したけど、そのたびに原点を思い出せた。ホームレスのときは、「泊まるとこないんだったら寝ていいよ」と、レンタルビデオショップの店長が部屋を貸してくれた。それもただのビデオショップではなく、Z級の作品しか置いてないの。夜になると、スチュワーデス対半魚人みたいなしょうもない映画を延々と観ていました。そこで小学生のときに、テレビで流れていたハリウッド映画をウキウキしながら観ていたのを思い出したんです。なんか映画を勉強しすぎて、難しく考えていたのかなって。あのプリミティブな興奮を忘れるものか、ゴダールなんか知らない、ってね。今もそれが柱になってる。

◆心臓が1分間止まり想定外のハリウッドに

――そのプリミティブな興奮は、本作にも余すところなく受け継がれています。挑戦と挫折を繰り返し、念願のハリウッドデビューですね。

園:正直にいえば、最初に思い浮かべてたのとはまったく違うんです(笑)。アメリカでデビューするときは、もう甘えないぞ、単身でハリウッドに乗り込み、スタッフもキャストも全員外国人のなかで、映画を作る。心細いかもしれないけど、ハリウッドデビューにはそのぐらいの勇気が必要なんだ!と心に誓ってた。なのに、今回の作品の撮影場所は日本の滋賀県彦根市が中心だし、スタッフやキャストもほぼ知り合い(笑)。だからニコラス・ケイジやソフィア・ブテラたちがゲスト出演で海外から来てくれたって感じでした。

――想定と違うものになったのは、ご自身の病気のこともあって?

園:そうですね。病気は想定してなかった。2年前、心筋梗塞で倒れて集中治療室に運ばれたんです。心臓が1分間止まってたんで、そのあいだに霊界も行ってたんですけどね。帰ってくると、まずニコラス・ケイジから連絡があって、「園さん、無理しないで」と。「もうメキシコに行かなくていいから、日本で映画を撮ろう」と言ってくれた。でも、これではなんのためのハリウッドデビューなんだ、と落ち込んでいたんだけど。冷静になって考えると、先ほど話したように、海外に打って出るときに外国人が想像する日本のオリエンタルなマジックは活かせるかもしれないぞ、と心を切り替えました。

◆還暦を迎える年にハリウッドデビュー

――日本よりコンプライアンスの厳しいアメリカでは、暴力や血しぶきなど園監督の強みが活かせないとの意見もあるようですが……。

園:みんなおとなしくなっているから、かえって切り込みやすいんじゃないかなぁ。でも、まあ、少しずつ。いきなり僕の本物の狂気を見せるとハリウッドから追放されちゃう(笑)。それに血を流すのが僕の切り札とは思っていない。たしかに前半は流しすぎたけど。

――還暦を迎える年にハリウッドデビューです。

園:普通はもう隠居しなきゃいけない年だけど、気持ちだけは22歳だと思っていますよ。童貞のときに戻って(笑)。ハリウッドではまだ童貞も同じだし、ハリウッドデビューは、僕にとって終わりではなく、始まり。次が肝心なんです。これを土台にし、もうどんどんアメリカで映画を撮っていくぞという宣言のための映画でもある。次からは自分の書いた脚本で、スタッフも全員外国人で撮りたい。まあ、本当は気が弱いので、日本人をちょこっと入れたいなと思ってるけど(笑)。

◆憧れとは反対で「大器晩成」だった

――「若くして成功」という道のりにならなかったことは、今振り返ると、どう感じていますか?

園:それがよかったんだ、と思わざるを得ないですよ。子どもの頃、いくら手相や星占いをやっても「大器晩成」と出る。僕の大好きな人たちは、みんな若いうちに、21~22で花開いて、その勢いのまま若くして死ぬ。だから僕も若くして死ぬのに憧れていたのに……なんで「大器晩成」なんだよ(笑)。

松本清張が苦労して小説家デビューした話なんかを聞いても、むしろ自分はそうはなりたくなかったのに、案の定、自分もそうなった。今思えばもうそれしかないんで、これでよかった。「俺は永遠に若いからチャレンジを続けるぜ」ってことじゃなく、むしろ逆で、こうなっちゃった以上は、そう思い込むしかないって。日本でずっと映画撮れと言われたら、それは僕にとっては終身刑をくらった気分(笑)。

60歳になったからって黄昏たくなかったし、これまでの評価を一切勘定に入れてくれないハリウッドという新しい世界にも飛び込めた。それに僕はまだ立派な映画を一本も撮ってないと思っている。気持ちを若返らせないとやっていられないでしょ。それでこその大器晩成ですから。

 ニコラス・ケイジと組んで、ハリウッドに殴り込んだ園監督。今後も「大器晩成」として、世界中で名作を生み出していくのだろう。

【Sion Sono】
’61年、愛知県生まれ。’85年『俺は園子温だ!!』で監督デビュー。以降、’09年『愛のむきだし』、’11年『冷たい熱帯魚』、’13年『地獄でなぜ悪い』などで国内外の賞を受賞。公開中の『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』でハリウッドデビューを果たした

取材・文/おぐらりゅうじ 写真/加藤 岳 構成/村田孔明(本誌)

※10/12発売の週刊SPA!のインタビュー連載『エッジな人々』より


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