不妊治療や流産の話って“禁句”なの?「なんでや!」とぶちきれた日

 不妊治療中の流産を経験し、「なんでや! なんで内緒にしとかなあかんのや!」とぶちきれた――そんな本音を語るのは、軽やかにおしゃべりするようなエッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)が話題の小説家・吉川トリコさん。

 同書収録のエッセイ「流産あるあるすごく言いたい」は、流産や不妊治療のイメージに一石を投じたとして、多角的な視点のジャーナリズムを評価する「第1回PEPジャーナリズム大賞 2021」でオピニオン部門賞を受賞しています。

 今回はそんな珠玉のエッセイを、女子SPA!に出張掲載。私たちが「言ってはいけない」「触れてはいけない」と思い込んでいることのイメージが、読めばがらっと変わるかもしれません。

※以下、吉川トリコさんのエッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)より「流産あるあるすごく言いたい」の章を抜粋・一部編集したものです。

◆流産した当日、病室のベッドの上でBLCDのドラマ音源を聞いた

 妊娠中、性欲がぱたりとなくなった、という人の話を聞いたことがある。

 それまで毎日のように大量摂取していたやおい本にもまったく食指が動かず、長すぎる賢者タイムの果てに、このまま枯れていくのだろうかとあきらめかけていた(それは、やおい者にとっての「死」を意味する)が、出産を終えたとたん不死鳥のようによみがえり、「ください! いますぐやおいをください!」と子育ての合間に貪(むさぼ)り読んだという。

 それとは逆に、妊娠中でもひたすらフルスロットルだったというやおい妊婦からの報告もいくつか受けている。

 かくいう私はといえば、妊娠中は濡れ場を飛ばして商業BLコミックを読んでいた。やおい者の風上にも置けぬ所業である――というか、濡れ場を飛ばしたらほとんど読むとこなくねえか? みたいな作品も中にはあるのにそれでも読もうとするんだから、むしろやおい者の鑑(かがみ)では? と思わなくもない。

 一種のつわりのようなものなんだろうか。やおいにかぎらず性的なシーンを目にすると、吐き気にも似た倦怠(けんたい)感をおぼえて見る気になれなかったのだ。賢者タイムの妊婦のように、まったく欲望が湧かなかったわけではなく、見たいことは見たいのだけど体が受けつけない、というかんじだった。

 七週目で流産したその当日、消灯時間を過ぎてからなにもすることがなくて、病室のベッドの上でiTunesに入れておいたBLCDのドラマ音源を聞いた。

 昼間さんざん寝たせいで目がぴかぴかに冴えていて、ピカチュウの着ぐるみが何匹か集まって大縄跳びをしたり、イーブイの着ぐるみと競走したりする動画を見てげらげら笑っていたら、あっというまに速度制限を食らい、点滴で体勢を制限されているから思うように本も読めなくて、こんなときこそオーディオブックだ! とひらめいたのだ(オーディオブックではない)。

 倦怠感はもうおぼえなかった。かといってすぐさま「ください! いますぐやおいをください!」というテンションになれたかといったらそうでもなく、声優さんたちの熱演ぶりにむらむらするより先に笑ってしまった。イヤフォンから聞こえてくる男二人のあえぎ声と自分が置かれている状況のミスマッチがおかしくて、すかさずTwitterに投稿しようとしたのだが、流産のことを伏せなきゃいけないことに気づいて愉快な気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいった。

 あとからこの時のことをかかりつけの鍼灸師(ち)さんに話したら、

「いいねそれ! 治りが早くなりそう!」

 と実にやおい者らしい率直な感想がかえってきた。

◆どこからどこまでを公言するかは、その人の自由であるはずだ

 安定期(もしくは最低でも妊娠三ヶ月)に入るまでは妊娠したことを周囲に告げてはならない、という不文律がある。

 流産の危険性が高いから、というのがその理由のようだが、わかるようでわからない理屈である。むしろ安定期に入るまでのほうがつわりもしんどいし、体を気遣わねばならない時期でもあるのだから、あらかじめ周囲に伝えておいたほうが配慮もしてもらえるんじゃないだろうか――と思ってしまうのは、会社勤めをしたことのない人間の浅知恵だろうか。万が一、流産してしまったときに周囲に気まずい思いをさせたくないという考え方もあるようだけれど、いやいやいやいやそれぐらい背負うよ、背負わせてくれよ、いちばんつらいのはあんただろ、つらいときはおたがいさまやんけ、と浅はかにも思ってしまう。

 たしかに流産は悲しいことかもしれない。だけど、家族や友人やペットや推しの死だって悲しいことじゃないか。恋人と別れたり、友人と絶縁したり、欠陥住宅をつかまされたり、コロナウイルスの流行で楽しみにしていたイベントが中止になったり、ほかにも病気や失業や事故や災害や犯罪、生きているかぎり我々には様々な困難が襲いかかる。どこからどこまでを公言するかは、その人の自由であるはずだ。

 石を投げればバツイチに当たるというぐらい、まわりは離婚経験者ばかりだというのに、安定期(ってなんだ)が過ぎるまで結婚の報告を控えるなんて話は聞いたことがない。家族や友人やペットや推しの死にいたっては、自分が先に死なないかぎり100%の確率で起こることである。どうして流産の話だけがこんなにも避けられ、隠されなければならないんだろう。

◆流産を他人に知られてはならないという不文律の根っこは

 流産の確率は全体の15%に及ぶといわれている。数字だけ見ればかなりの割合だ。そのわりに、流産したという女性の話をまわりではあまり聞いたことがなかった。

 大っぴらに話しちゃいけないこととされているから、多くの人が内々で処理をし、なかったことにしているのだろう。不妊治療にもそういった側面はあるし、生理だって最近になってムーブメントが起こっているけれど、少し前まではロに出すのも憚(はばか)られることだった。

 古くから日本では、生理中の女性を「穢(けが)れ」とみなし、月経小屋に隔離したり、神社に参拝することを禁じたりする風習があった。スウェーデンの女性漫画家リーヴ・ストロームクヴィストの『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』によると、女性や生理をタブー視する文化は日本にかぎらず世界中に存在するようだ。出産による出血ですら厭(いと)われていたぐらいなので、流産した女性の扱いなどそれは酷いものであっただろうことは容易に想像がつく。

 流産を他人に知られてはならないという不文律の根っこは、おそらくこのあたりにあるのではないだろうか。出所さえわかってしまえば、そんな女性蔑視的なクソ因習になんで二十一世紀を生きるうちらがつきあってやんなきゃなんないの? クソたるいっつ一か知んねえっつ一の、ほんじゃお先で一す! というかんじである。

 もちろん中には、他人に知られたくない人もいるだろうし、話したくなければ無理に話す必要なんてないとも思うが、自分の体のことなのに勝手にアンタッチャブルにされ、さらにはそれを内面化してしまっていることに、私個人はやり場のない怒りをおぼえる。

◆理屈がわかれば納得はできた。数字が私を冷静にしてくれた

 それでも妊娠判定が出て流産するまでのわずかーヶ月足らずのあいだは、この不文律になんの疑問も抱かず、そんなものかと受け入れていたようなところがあって、人に知られてはならないというプレッシャーからほとんどの予定をキャンセルした。「どうして今日はお酒飲んでないの?」とだれかから訊ねられたときに、うまくごまかす自信がなかったのだ。

 どうしてもキャンセルできなかった飲み会が一件だけあったが、トロピカルなんちゃらソーダとかいうような、一見酒に見えるノンアルコールカクテルを選んでごまかした。わざわざいらぬ噓をつかなくて済んだのはよかったけど、本来ならめでたいはずのことなのに、なんでこそこそしなければならないのかとモヤモヤした気持ちが残った。ちょうどその日はやおい者ばかりの集まりだったので、さっそく妊娠時におけるやおいづわりについて研究報告をしたかったのに。

 病院のベッドから、妊娠を打ち明けていたごくわずかの相手に「流産しちゃったよ一」と軽い調子でメールを送信した。相手が返答に困っている様子が、画面からも伝わってきた。背負わせてしまって申し訳なかったが、夫のほかにも知っている人がいてくれることがそのときはありがたかった。「私はぜんぜん大丈夫だから! いつから酒を飲んでいいのか、いま血眼になって調べてるとこだよ」と冗談まじりに二言三言のやりとりをした。

 妊娠初期の流産は受精卵の染色体異常によるもので、避けようもなく起こることだ。無理して仕事を続けていたからではないか、身体を冷やしすぎたのではないか、とつい自分を責めてしまう女性が多いようだが、なにをしようとしなかろうと、起きるときには起きてしまうものなのである。しかも全体の15%――四十代では50%の確率にのぼるというんだから、むごいものだなと思う。

 だけど、むしろ私はそのことに救われた。理屈がわかれば納得はできた。数字が私を冷静にしてくれた。ふむふむなるほど、了解でーす、と実にさっぱりしたものであった。

 いくらなんでも薄情すぎるんじゃないかと我ながら心配になり、入院中に流産を経験した女性たちの文章をネットで読みあさったりもした。彼女たちの言葉は切実で胸に迫り、涙を誘われもしたけれど、流産という経験は個々人のものであるはずなのに、それを語るための言葉がすでに用意されていて、そこからはみ出す言葉や感情を選んだら許されないようなかんじが、ちょっとだけした。流産してもへらへらしている女の書いたものが読みたかったのに、そんなものはどこにもなかった。

◆上から修整液で塗り潰されるなんてたまったもんじゃなかった

 一泊二日の入院生活を終えて家に帰ると、注文してあった出産・育児本が段ボールいっぱい届いていた。よりによってこのタイミングかよ! とさすがに笑ってしまい、すかさずTwitterに投稿しようとして(以下略)、いよいよ私はぶちきれた。なんでや! なんで内緒にしとかなあかんのや!「流産あるあるすごく言いたい」状態がずっと続いていて、いいかげん我慢の限界だったのだ。

 某国民的アイドルのAくんは生まれつき右肩に大きな痣(あざ)があるのだが、雑誌のグラビアに修整が入ってなにもないみたいにつるりと消されてしまったことがある、とかなり昔インタビューで語っていた。次からは修整しないでほしい、痣も含めて自分なのだから、と雑誌側に告げたという彼の気持ちが、そのときになってやっとわかった。短い期間ではあったけど、たしかにおなかの中にあの豆粒みたいな子はいたのに、上から修整液で塗り潰されるなんてたまったもんじゃなかった。

 物語に描かれる流産はいかにもおそろしげで、不幸であわれげなものばかりだ。流産した女はみな悲嘆に暮れ、めそめそ泣くばかり。わかりやすく記号的で、私の体験したものとは大きな隔たりがある。

 良くも悪くも物語が社会に及ぼす影響を私は理解しているつもりなので、流産してもへらへらしている女のことも書いておかんとなと思い、ちょうど依頼を受けていた新聞のエッセイに書くことにした。共感を求めていたわけでもましてや同清してもらいたかったわけでもなく、「ふ一ん、そっか」ぐらいのテンションで受け止めてもらえればじゅうぶんだった。「こういう人間もいるんだよ」と言いたかった。

◆悲しみの処し方はそれぞれなのだから、無理をしないのがいちばんだ

 この連載の第一回にも書いたが、みんな知らないだけなんだと思う。知らないから勝手にレッテルを貼り、なんとなく気まずくて、目をそらして見なかったことにしてしまう。

 実際に自分で経験するまでは、うかつに触れてはなるまいと遠ざけていたようなところが私にもある。流産したその当日にさえ、夫に買ってきてもらったカツサンドやプリンを貪り食ったり、BLCDのドラマ音声を聴きながらぐふぐふ笑っている女がいることなど、知りようもなかったのだから。

 くりかえしになるが、だれもが公言すべきだと言っているわけではない。言いたくなければ言わなくていいし、もし知られてしまったとしても周囲に気を遣って明るくふるまう必要なんてない。割り切れなければいつまでもぐずぐずそこに留まっていればいい。つらい経験を乗り越えることだけが正解じゃない。悲しみの処し方はそれぞれなのだから、無理をしないのがいちばんだ。

 それでもいつか、「流産あるある」を言いながらみんなで笑える日がきたらいいな、と思っている。

<文/吉川トリコ>

【吉川トリコ】

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(『おんなのじかん』収録)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。著書に『しゃぼん』(集英社刊)『グッモーエビアン!』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『おんなのじかん』(ともに新潮社刊)などがある。

2021/10/9 8:46

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