田尾安志、最後まで埋まらなかった三木谷オーナーとの溝「口を出すなら直接言ってほしかった」

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大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは?あの行動の真意とは?天才打者と評された男が選んだ、新球団初代監督というポスト。田尾安志のキャリアを形作ってきた信念に迫る。

◆「オーナーから僕へ直接質問や文句がくることはありませんでした」

 東北楽天ゴールデンイーグルスの初年度は、フロントと現場の野球観の違いがすべてだった。オーナーの三木谷と、現場で指揮をとる監督の田尾との齟齬が、戦況に少なからず影響を与えた。

「若いオーナーだからいろいろ言ってくるだろうという思いは就任したときからありましたよ。でも、口を出すなら直接僕に言ってほしかった。間に人を挟むと、正しく伝わらないことが多いですから。何度もそう言ったんですが、オーナーから僕へ直接質問や文句がくることはありませんでした」

 田尾は爽やかな表情を崩さないものの、目の奥に勝負師特有の鋭さをたたえて続ける。

「試合にボロ負けしてオーナーが発言したことが次の日の新聞に大きく掲載されると、『こんなこと言ってない』となるんですよね。サッカー(楽天が実質的に運営を務めるヴィッセル神戸)でも同じようなことを言っていると思うんですけど、サッカーだと大きく載りませんから。案外出たがりだったんですよね」

◆身を削る覚悟を持って臨み続けた田尾

 チームは開幕から1か月もたっていない4月29日に11連敗を喫する。その翌日、フロントは山下大輔ヘッドコーチと駒田徳広バッティングコーチの降格を発表した。

「まだ4月ですよ。普通、有り得ないことです。2人とも僕が連れてきたんで、もし彼らが『辞めたい』と申し出ていたら、僕もその時点で一緒に辞めていました」

 そんな事態が起こりながらも、田尾は監督を引き受けた以上、身を削る覚悟を持って臨み続けた。

「戦力が足りないことは開幕前からわかっていたので『外国人助っ人だけはいい選手を取ってきてもらえませんか』とフロントに頼んでいました。シーズンに入ってからは、ソフトバンクの王監督やロッテのバレンタイン監督に『来季、この選手をもらえないか』とずっと交渉を重ねていたんです。2人とも、球界の発展のためにと非常に協力的でした」

 いわば、田尾はシーズン中からすでに2年目以降を見据えて戦っていた。数年かけて強いチームを築き上げようと考えていたのだ。しかし、オーナーは目先の勝利を求め続けた。前述のコーチ降格人事と同様のケースで、ヴィッセル神戸では’04〜’05年の2シーズンで6人の監督の首をすげ替えたこともあった。すぐに結果が出ないと納得がいかない性なのだ。

◆怒りをにじませながら当時を語る広岡

 そんななかで、意外にも楽天はGMにあの広岡達朗を迎え入れようと画策した時期があった。当の広岡は、怒りをにじませながら当時をこう語る。

「あのときは田尾と話をしたうえで『よし、来季もやれ』とハッパをかけ、三木谷にも田尾続投を勧めた。そして現在の選手、コーチを留任させたうえで、新たな人材を追加するコーチ人選を固めてフロントに提案したんだ。『これらのコーチを呼ぶのに4000万〜5000万円くらいかかる』と言うと、『そんなに出せない』と断ってきた」

 広岡にとって、田尾は西武時代の教え子でもある。田尾の側に百戦錬磨のコーチ陣を据えることで選手を育てる環境を整備する計画を考えたが、フロントに一蹴され、“広岡GM”構想は露と消えた。

◆耐えかねて吹き込んだオーナーへの留守電

 夏場にはこんなこともあった。

「レポートを書かされました。まず1位と6位の差はどういうことかを説明するところからです。5勝4敗で16クールやると144試合で貯金16。4勝5敗だと借金16。今の楽天の場合だと、9試合で3勝6敗の借金3の状態。

 その内容を見ると、1試合平均得点が3.5で、平均失点が6.1。これじゃあ当然勝てません。来季、平均得点を3.5から4点台にすることは、王さんとの交渉もまとまりつつあったので可能だろうと。

 ただ、失点を6.1から減らすにはいいピッチャーがいないと難しい。ピッチャーの補強さえうまくいけば勝負にはなる。ただ、そのレベルにはまだ年数がかかるといった内容のレポートでした」

 シーズン中、監督にレポートを書かせるなど前代未聞だ。実はこのレポートにはわけがあり、2度目の11連敗を喫した8月23日に島田球団代表から「明日負けたら休養」と勧告されたことが発端だ。

◆志半ばでその役目を終えることになった新球団の初代監督

「『わかりました。でも勝ったらどうするんですか?』と聞いたら、続投だと言われました。その薄っぺらさが頭にきたのでオーナーに直接電話したんです。だけど、まったく出ない。仕方ないので留守電にこう入れました。『ひとつ勝った負けたで球団の方針が変わるのか。自分は金儲けしたくて来たんじゃない。野球界のために、このチームは成功しないといけない。そのために選手やコーチを集めてきたんだから、考え方を変えないと強くなれない』。この日から、一度も電話は繫がっていません」

 そして9月25日の朝、球団は田尾に監督解任を通告した。ホーム最終戦の前だった。

「オーナーサイドから10月18日に会いたいとようやく連絡が来ました。僕が功労金を断ったためです。ひとりでケンカしに行ったんですけど、向こうはオーナーと島田社長、米田代表、井上相談役の4人。大の大人がひとりで来られないのかと思いましたね。最初に謝罪から入ってきたので、振り上げた拳を下ろすしかなかった。ただ最後に、『この組織のままじゃ誰が監督でも強くなりませんよ』とはっきり伝えました」

 こうして、半世紀ぶりに誕生した新球団の初代監督は、志半ばでその役目を終えることになった。

◆「与えられた戦力で毎日できるだけのことをやった」

 怒りは憎しみとなって人を蝕み、憎しみは苦痛となって人を変える。だが田尾が「あの環境がさほど苦にならなかったのは自信になった」と語るように、決して苦痛ではなかった。それは「与えられた戦力を駆使して毎日できるだけのことをやった」という自負があったからだ。

 そしてもうひとつ、時代の寵児ともてはやされるIT社長だろうと一歩も引くことなく、己の信念を貫き通したからにほかならない。「自分は何も間違ってはいない。やれることはやりきった」という思いがあったからこそ、こうして今でも胸を張って当時を語れるのではないか――。

 不本意な解任劇だったが現在は「いい経験になった」と述懐する田尾。ひとえに、田尾の姿勢が決してブレず、誰にも迎合せず、安易に群れなかったからだろう。ひとりの男が開拓者として道を切り開く上で、一番大切なことを田尾の生き様が教えてくれた気がする。

【田尾安志】
’54年、大阪府出身。同志社大学を経て’75年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団すると、俊足巧打のリードオフマンとして新人王を獲得。’82年には打率.350を記録し、同年から3年連続最多安打に。’85年に西武、’87年に阪神に移籍し、’91年限りで引退

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

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