「妊娠って、奇跡じゃないか」38歳で不妊治療を始めてわかったこと

「女子力高いから、いい奥さんになれそう!」「なんで子ども作らないの? 可愛いよ~!」なんて言われるたび、心の奥底に溜まってゆくモヤモヤ。「ひどい」と言い返したいわけでもない、「ムカつく」とも少し違う。「それはないでしょ~」と言いたいけど、それだけじゃおさまらない! こんな気持ちを一気にスカッとさせてくれるのが、9月28日に発売された吉川トリコさんの本音炸裂エッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)。

 WEBマガジン「考える人」の人気連載をまとめた本書には、世間の用意した言葉からはみ出す感情が余さず綴られ、読むだけで著者と本音のおしゃべりをしているかのよう。不妊治療も、流産も、体型批判への反発も、ほとばしる推しへの愛も語り尽くした本書の一部を、女子SPA!に出張掲載します。

※以下、吉川トリコさんのエッセイ『おんなのじかん』(新潮社刊)より「不妊治療するつもりじゃなかった」の章を抜粋・一部編集したものです。

◆思い描いていたライフプランを押し入れにしまいこんだ

 いざとなったら子どもなんてすぐできると思っていた。

 この世には不妊でつらい思いをしている人が山ほどいて、とんでもない額のお金をかけて治療をしていることはうっすら知っていたけれど、自分には関係のない話だと思っていた。月々の生理は乱れなくきっちりやってくるし、高脂肪で筋肉のつきにくいこの体つきからみて女性ホルモンは十分、うん、ぜんぜんいけるっしょ! という根拠のない自信があった。だから、いざ不妊治療をするという段になって、えっ、うそ、そんなばかな、と思った。この私にかぎって、そんなはずない、と。

「みんなそう言うんだよ」

 とかかりつけの鍼灸師(ち)さんが、やれやれといったふうに笑って言っていた。その鍼灸院には不妊治療をしている患者が多く通ってくるらしく、妊活・不妊にかかわる知識のほとんどを私は彼女に教わった。

 おかしいな、二十六歳で子どもを産むつもりだったのにどこでまちがえたんだろう……としらばっくれてみたけれど、理由なら自分がいちばんよくわかっていた。

 二十六歳で子どもを産むかわりに小説家になった私は、幼いころから思い描いていたライフプランを押し入れにしまいこんだ。交友関係が広がって、楽しいことをたくさん覚えた。なにより小説を書くことが楽しかった。それまではぜんぜんお金がなかったけれど、二作目の小説が二度にわたって映像化され、自由にできるお金がちょっとだけできた。嵐にハマったのもちょうどそのころである。小説を書き、原稿料が入ったら服飾品か嵐もしくはその時々の推しに課金し、締切が終われば朝まで飲み明かし、一冊分書き終わったら海外旅行に出かける。そのくりかえしで、あっというまに時間はすぎていった。

◆ふと、倦怠感のようなものに襲われた三十代の半ばごろ

 こんな生活を死ぬまでずっと続けていくんだろうか。

 ふと、倦怠感のようなものに襲われたのが三十代の半ばごろだった。刺激的で充実した毎日、けれどすべてが想像の範疇(はんちゅう)におさまってしまう。ろくに成長もせず、世界のことなどなにも知らず知ろうともせず、甘いものばかり食べて生きている自分にうんざりしていた。なにかとんでもない傑作をものしたいという欲望だけはあるのだが、幼稚な自分には幼稚な小説しか書けず、いつまで経っても本は売れないし(映像化されれば本が売れるというわけではない)、カントリーマアムが少しずつ小さくなっているみたいに収入も目減りしていき、このままでは早晩仕事の依頼もなくなるだろうな、と漠然とした不安に駆られていた。

 よし、ライフステージあげよう!

 そこで私は、かつて描いていたライフプランを押し入れの奥の奥から引っぱり出してきたのだった。代わり映えのない毎日に変化を求め、なにか生産的なこと(うへえ)がしたいと思って、子どもを産もうとするなんてあまりに浅はかで短絡的で、「しっかりしろよ!」と当時の自分を張り倒したくなるが、そんなことを言い出したら過去の自分ほとんどすべての瞬間を張り倒したくなるので、もうどうしようもない。

 手はじめにまず私は禁煙外来に飛び込んで煙草をやめた。夫とはまだ結婚してはいなかったが、この人とずっと一緒にいるんだろうなというぼんやりした気持ちはおたがいにあった。ぼんやりと私たちは避妊をしなくなった。そうして、生理がくるたびに、がっかりするのと同時にほっとしていた。モラトリアムが延びたことにどこかで安堵し、そんな自分にぎょっとした。

◆三十歳を過ぎた女たちが目移りしてしまうのは無理からぬこと

 三十代の危機はいつのまにか脱していた。これというはっきりしたきっかけがあったわけじゃないけれど、おそらくは東日本大震災の影響だという気がする。いつまでも子どものままではいられないんだと目を開かされるような体験だった。読みたい本が増え、学びたいことが増え、行きたい場所もやりたいことも書きたいこともさらには新たな推しも次から次にあらわれて、どれだけ時間があっても足らない、死ぬまでにぜんぶ達成できるかもわからない、倦(う)んでる場合じゃない!

 子ども産んでる場合じゃねえな?(駄洒落じゃないです、ほんとに)と思わなかったと言ったらうそになる。いましかできないこと、いましか書けないものがあるのに、そんなことしてる場合じゃなくない? 子どもを産んだらなにかが終わる、道が閉ざされてしまうという暗いイメージしか、そのときは持てなかった(いまも完全に払拭できたかといったら怪しいところではある)。

 まわりを見渡せば、「なにがなんでも子どもが欲しい」とはっきり言い切る子なし女はそんなに多くない。「どちらかというと欲しいかも?」ぐらいのテンションが多数を占める。「欲しかったけどぼんやりしているうちに機会を逃しちゃった」と頭をかきながら笑う女も少なくない。私ぐらいの年代になると、「なにがなんでも子どもが欲しい」女はすでに出産しているというのもあるけれど。

 結婚して子どもを産むしか道がなかった時代と比べ、いろんな選択肢が増えた現在において、三十歳を過ぎた女たちが目移りしてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。仕事も勉強も趣味も旅行も女子会も推し事も楽しいもんね。一日が二十四時間じゃ足りないもんね。百時間ぐらい欲しいよね。わかりみが深すぎて地中深くまで埋まりそうであるよ。

 ごく狭い私の観測範囲では、男性のほうがなんの屈託もなく「子ども欲しい!」と口に出す傾向にある気がする(夫含む)。そりゃあ、相手が産んで子育てまでぜんぶやってくれるなら、私だってそう言うだろうと思う。一方で「子ども欲しくない!」とはっきり言い切ってしまえる人は男女の別なく一定数存在する。

◆なんということだろう。妊娠って、奇跡じゃないか

 こんなことなら、迷いが生じる前に二十六歳でぽーんと産んでおけばよかった。若いころなら自然妊娠でいけただろうし、コスパもよかった。二十代、三十代と楽しかったから、後悔しているというわけでもないんだけど。

 しかし、そんなことをうだうだ考えているあいだにも刻々とリミットは近づいている。なにがなんでも子どもが欲しいわけではないけれど、なにがなんでもいらないとまでは言い切れず、いまやっとかないと後悔するかもだしな……といった消極的な気持ちで不妊治療をはじめることになったのが三十八歳、ちょうど婚姻届けを役所に提出したあたりのころである。

 まずは妊活の初手の初手、タイミング法からはじめることになった。最初のうちはネットで排卵検査薬を購入し、自分で排卵日を予測していた。この段になってはじめて妊娠可能なタイミングが月に一、二日だけであることを知ってがくぜんとした。排卵日の前日もしくは前々日にばっちり決めたところで、妊娠率は二十代で30%、年齢を重ねるにつれてどんどん数値は下がり、四十歳で5%ほどだといわれている。

 なんということだろう。妊娠って、奇跡じゃないか。やっぱり「できちゃった婚」というより「授かり婚」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。

 排卵検査薬では埒(らち)が明かなかったので(素人が排卵日を見極めるのはなかなかに厳しかった)、その後、我々は不妊治療専門クリニックの門を叩くことになった。検査の結果、排卵も毎月ちゃんとあるし、精子の運動率も正常値だったのだけれど、クリニックの指導のもと行ったタイミング法では妊娠にいたらなかった。いいですか、ここ重要なところなのでもう一回言うけど、なんなら太字でお願いしたいんですけど、双方ともに生殖機能になんの問題もなくても不妊判定が出ることはざらにあるんです。えーっ、うっそー! てかんじですよね。わかる、わかるよ。わかりみが深すぎて地球の裏側まで突き抜けそうであるよ。

◆まさかこの私が体外受精することになるなんて!

 クリニックの方針でタイミング法は三回まで、その後は体外受精にステップアップすることになっていたのだが、引き返すならここかな、と私は思っていた。当時は、体外受精までして子どもが欲しいとは思っていなかったのだ。しかし、夫はちがった。お金のことはしょうがない、リミットもあるし、この際ステップアップしようじゃないか、と。

 マジか、と思った。まさかこの私が体外受精することになるなんて!

 念のため断っておくが、私の体外受精に対する抵抗感は、八割が金銭面、残りの二割が時間を拘束される煩わしさや身体的負担を憂慮(ゆうりょ)してのことで、倫理的な忌避(きひ)感などはかけらもない。

 加えて、こんな宙ぶらりんな気持ちで体外受精までしていいんだろうか、という気持ちがどこかにあった。きっとみんな心の底から子どもが欲しくてクリニックに通っているのだろうし、金銭的な余裕がなくてステップアップできない人もいるだろうに、私みたいなどっちつかずの気持ちのまま臨んでいいものだろうか、と。

 それでも、「子ども欲しい!」という夫の強い気持ちに押される形で、体外受精にステップアップすることになってしまった。なってしまったとか言っているあたり、いまだに当事者意識が希薄な自分にびっくりするが、実際そうなんだからしょうがない。「まさかこの私が!」という驚きこそ最初のうちはあったけれど、元来割り切ってものを考えるたちだし、自己肯定感も強いほうなので、不妊という事実を単なる事実として受け止め、「女として欠陥品」「私のせいで子どもができない」といったような自己嫌悪に陥ることもなく、切実さも皆無。流産したときだけはさすがに凹んだが、数日で立ち直った。そうして、いまなお、へらへらとしながら通院を続けている。

<文/吉川トリコ>

【吉川トリコ】

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(『おんなのじかん』収録)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。著書に『しゃぼん』(集英社刊)『グッモーエビアン!』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『おんなのじかん』(ともに新潮社刊)などがある。

2021/9/28 15:47

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