【連載対談】【対談連載】エディオン 相談役 岡嶋昇一

【名古屋発】岡嶋さんの幼少期、お父さまが栄電社を創業された頃のお話を聞くと、戦後復興期のカオスな状況と起業家であるお父さまの商売に対する厳しさが目に浮かぶ。そして岡嶋さん自身はといえば、その後、その温厚な物腰に似合わない、大手家電量販店の戦国時代を生き抜くことになる。「小売業はメーカーさんあってのものですから、両者がウィンウィンの関係を保つことが大事なんですよ」と。淡々と語るその言葉は、本音なのか建て前なのか。いや、白黒はっきりさせるというのも野暮というものか…。

(本紙主幹・奥田喜久男)

●経営者として厳しい父から学んだこと

 岡嶋さんとは長いおつき合いですが、いつも穏やかで偉ぶることなく、一緒にいてとても居心地がいい方です。そうした振舞いや性格は、親御さんの教育によるものなのですか。

 どうでしょうか。私が姉2人の末っ子だったことも影響しているのかもしれませんが、子どもの頃からおとなしい性格で、怒るという感情はなかった気がします。きっと、母親の胎内に置き忘れてきたのでしょう(笑)。

 父親は厳しい人で、私があまりに勉強ができないものだから、学期末に通信簿を持ち帰るたびに叩かれていました。でも、担任の先生は「この子は大器晩成型だから」と言ってくれましたが…。

 先生の予言は当たったわけですね。ところで、お父さまはエディオンの前身の一つである栄電社(エイデン)の創業者ですが、どんな方だったのでしょうか。

 父の昇三は岐阜県土岐市の農家の長男ですが、家が貧しかったため進学できず、尋常小学校を卒業すると名古屋で丁稚奉公をしていました。若くして事業を起こし、電球や電気部品を扱うのですがこれに失敗し、その後は丸紅飯田の工場で働き、終戦時には工場長を務めていたそうです。

 丸紅飯田の工場も電気関係ですか。

 いいえ、ゴム製品をつくっていました。戦後、その材料を大量に引き取り、父は自転車のノーパンクタイヤをつくったのです。物資のない時期ですからこれが飛ぶように売れて、その儲けを元手に名古屋の柳橋に土地を買い、かつて手がけた電気部品商を始めました。一時は東芝やソニーの販売会社として営業していましたが、その後、小売店に転じました。

 栄電社の創業は何年ですか。

 昭和23年(1948年)です。私が生まれる2年前で、法人化して株式会社栄電社となったのが昭和30年(1955年)ですね。

 岡嶋さんは二代目として後を継いだわけですが、経営者としてのお父さまをどのように見ていましたか。

 私に対しても従業員に対しても、とても怖くて厳しい人でした。それでもみんなついていきましたが、言うことが的を射ていたからこそ恐れられていたのだと思います。若い頃、商売に失敗していることもあって、いつも、売り上げよりも債権回収の状況や在庫の多寡に目配りしていました。

 会社経営を続けていく上で、最も重要なところを押さえられていたのですね。

●同業他社からも積極的に経営のノウハウを吸収

 岡嶋さんが社長に就任されたのは、何歳のときですか。

 43歳のとき、平成5年(1993年)です。父は明治38年(1905年)の生まれで、私は昭和25年(1950年)の生まれですから、だいぶ歳が離れているんです。そのため、私は二代目といっても直接父から社長業を引き継いだわけではなく、番頭格だった浅見史郎さんに“地ならし”してもらい、経営を引き継ぎました。

 浅見さんとのおつき合いは長いのですか。

 長いも何も、私が生まれたときからのつき合いです。浅見さんは創業したときから父と一緒にやってきた右腕だったんです。私は「しょうちゃん」と呼ばれていましたね。

 しょうちゃん(笑)から見て、浅見さんはどんな人でしたか。

 個人商店の経営から近代的な企業経営に転換するための土台をつくってくれた人ですね。私が社長に就任した1993年というのは、バブル経済が崩壊した後で、景気が底をついた時期でした。つまり、増益に転換するタイミングだったわけです。この時期に引き継げば昇一でもやっていけるだろうと、浅見さんは考えていたようです。

 そこまで思いやって、創業家に経営の舵とりを戻されたのですね。

 そうですね。浅見さんは社長時代に、通販で伸びている上新電機社長の淨弘博光さんからそのノウハウを学ぼうと、飛び込みで訪問したりしていました。

 そんなことがあったのですか。淨弘さんといえば上新電機の中興の祖であり、座右の銘の「先手必勝」は業界でも有名でした。私もBCNを創業してから定期的にお会いして、いろいろとお話をうかがったことがありましたが、その考えの鋭さに驚いた覚えがあります。

 淨弘さんは「先手必勝」らしく、いち早く通販事業に進出したりパソコン専門店のJ&Pを立ち上げたりするなど、先駆的な経営をされる方でした。その後、淨弘さんに心酔していた父は経営指導をしてくれるようにお願いし、毎月一回、上場の意義や組合対策といった企業経営にまつわる話をしにおいでいただいていました。それも、無報酬で。

 ずいぶんと深い関係があったのですね。

 大阪を本拠とする上新電機さんが中部地区に進出する際には、エイデンと組もうという目論見もあったのでしょうが、淨弘さんにはとても勉強させてもらいました。とはいえ私は、正直なところ反発する気持ちも抱いていたんです。

 具体的には?

 一緒にやってみようということで、まず、名古屋パルコにフランチャイズでJ&Pを出店し、それに続くコンピューターの2号店は名古屋本店の北館に出しました。でも、私は2号店も「J&P」とするのがどうしてもイヤで「テクノ」という店名にしたのです。そうしたら淨弘さんから呼び出され、「何を考えているんだ!」と烈火のごとく怒られました(笑)。

 いつも穏やかな岡嶋さんが、反骨心を見せたわけですね。

 そうですね。でも、商売の師匠の一人であることには違いありません。

 ほかに師匠といえる方はいるのですか。

 私が社長になるとき、その報告をし、経営者としての心構えをうかがったシャープの辻晴雄社長ですね。上新電機の淨弘さんも怖く鋭い人でしたが、辻さんも眼光鋭く、人の心を見抜くような迫力ある方でしたね。

 辻さんからは、どのようなアドバイスをもらったのですか。

 社長になったら、銀行を大切にしなさいと言われました。年2回の決算報告を怠ることなく続け、信頼関係を築いていくことは社長にしかできないことだと。当たり前のことのようですが、会社永続のために社長自身が胆に銘じておくべきことだと思いますね。(つづく)

●『現代の帝王学』と淨弘博光氏の追悼誌

 岡嶋さんがいまも大切に保管しておられる二冊の本を見せていただいた。『現代の帝王学』(伊藤肇著・プレジデント社)は、社長就任のときに知人から贈られて参考にした思い出深い本。そして、本文でも登場した上新電機の淨弘博光氏は、1985年に50歳の若さで逝去。こちらの追悼誌も岡嶋さんにとって大切な一冊だ。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

2021/9/24 8:00

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