シンガポールに単身赴任中の夫には、内緒で…。娘の幼稚園受験に夢中な女が、隠していたコト
あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?
「元カレとはもう、なんでもないから」
大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。
だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。
しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。
「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。
◆これまでのあらすじ
婚約者の健作と会社の後輩である雛乃が、元恋人同士であることを知ってしまった千秋。しかし2人は「今はなんでもない」と言い張り、友達の関係を続けているのだった。
モヤモヤする千秋は、思わずLINEで“ある人物”に助けを求め…?
▶前回:職場の後輩女子が、なぜか彼氏と知り合いだった。疑心暗鬼になった女は2人を会議室に集め…
「なるほどね~。可愛がってる職場の後輩が、婚約者の元カノでした、と」
「うん…」
「しかも2人はいまだに仲が良くて、友達付き合いを続けてる。中高時代に付き合ってただけで、今はもうなんでもない、と」
ストッケのハイチェアが置かれたダイニング。山積みにされた小学校お受験用のプリントの横で、シロッコのハーブティーが湯気を立てている。
私が置かれている奇妙な状況について、声に出して整理してくれているのは、親友の和香だ。
健作と雛乃ちゃんの仲睦まじげな様子に耐えられなくなった私は、彼女に「今夜行ってもいい?」と相談LINEを送ったのだった。
前職の出版社で同期だった和香。私が転職、彼女が結婚・出産でお互いに職場を離れた今も、親友としての付き合いが続いている。
こうして子どもが寝た後に付き合ってくれるほど、優しくて面倒見がいい和香ならきっと、気持ちが明るくなるような言葉で励ましてくれるはず。
どこかでそう期待していたからこそ、こうやって彼女に悩みを打ち明けたのかもしれない。
でも…。和香の口から飛び出したのは、予想していたのとは全く違った言葉だった。
「千秋、それはさ…。受け入れられないなら、すっぱり別れるしかないよ」
親友に、婚約者と別れることを勧められた千秋は…
「ええっ、そんな…」
提案された解決法があまりにも極端すぎて、私は思わず情けない声をあげる。
優しい励ましと共感。それから健作と雛乃ちゃんに、関係を見直してもらう方法。…そういうのを教えてほしかったのに。
和香は「そんなことわかってるよ」とでも言いたげな顔をしながら、言葉を続けた。
「確かにさ、元カレや元カノとは距離を置くのが普通のことかもしれないよ。でもさ、これって“私立エスカレーター校の内部生あるある”なんだよねえ」
「ええ…?こんなこと、よくあるの?」
そう戸惑う私を前に、和香は小さくため息をつく。
「いわゆる、おぼっちゃまとかお嬢様ってさ。恋人でも友達でも、同じような価値観と金銭感覚で、同じような家庭環境の相手とのお付き合いが望まれるわけ。
でも、そんな相手ってたくさんはいないよ。つまりさ、同じ世界の人脈を求めて私立へ行くのに、過去の恋愛なんかを気にしてたら、誰とも人間関係が作れなくなっちゃう」
そう言いながら和香は、積み上げられた書類の中から1枚の集合写真を取り出すと、私に向かって差し出した。
「これ。由香のお受験教室で、始業式のときに撮った集合写真」
由香ちゃんとは、和香の一人娘。たしか今は幼稚園の年中さんだ。和香の出身校である、カトリックの名門女子私立への受験を来年に控えている。
おでこを出した賢そうな子どもたちの後ろに、ズラリと並ぶ父兄たち。
和香は、そのうちの1人のお父さんと、別の子のお母さんを指さしながら言った。
「この2人、元恋人だよ」
「…えっ?」
予期せぬ言葉に、私は思わず息を呑む。
でも、和香の指は止まらなかった。父兄を次々と指さしては、説明を続ける。
「こっちのパパは、高校時代のクラスメイトの元カレ。このママは私の先輩なんだけど、昔こっちのママと同じ人と付き合ってた」
「えっ、えっ…?」
「それから…」
そこまで言うと和香は、そっと集合写真から目をそらす。そして、奥の子ども部屋で眠る由香ちゃんに聞こえないよう、小さな声で私にささやいた。
「由香の幼稚園の、1個下のパパ。…私の元カレ」
「ええっ!」
思わず大声を出してしまった私に向かって、和香は慌てて「シー!」と人差し指を立てる。
そして「言うべきことはすべて言った」というように目をつぶると、低い声で告げたのだった。
「こんな感じでね。一部の私立って、めちゃくちゃ狭い世界なの。
たとえ元恋人でも、これから先も似たような環境で生きていくんだもん。今はもう、なんでもないからって割り切っていかないと、みんな成り立たないわけ」
「でも…」
私は興奮でバクバクしている胸を押さえながら、和香に尋ねる。…彼女の話を聞いていて、一番気になっていたことを。
「ねえ。由香ちゃんの幼稚園に、和香の元カレがいるって…。ご主人は知ってるの?」
ご主人が、和香の元カレのことをどんな気持ちで受け入れているのか。それがわかれば、今の私にとってのヒントや覚悟になるかもしれない。
そう思って聞いた質問だったけれど…。彼女から返ってきたのは、予想もしていなかった言葉だった。
ティーカップを口元まで運んでいた和香は、吹き出すように笑って、こう言ったのだ。
「やだ、まさか。夫がこんなこと知るわけないよ。超やきもち焼きだもん!まあ、いわゆる御三家幼稚園だからさ。父兄が知り合いばっかりなのは、わかってるみたいだけど」
元カレがすぐ近くにいることを、知らせていない。その真意とは
「そうなの?でも、私立一貫校ではあるあるだって言ったじゃない!」
そう食い下がる私に、和香も答える。
「うん。でも、こうも言ったよ。元カレ・元カノとは距離を置くのが、一般的には普通のことって。
夫は小中が公立で、高校はカナダ。大学はアメリカだから、私が育ってきたような“下から私立”の世界は知らない。それでも今、由香のお受験を尊重して、シンガポールで単身赴任してくれてるの。
そんな夫のこと、必要以上に心配させたくないから。今はもうなんでもないんだし、あえて言う必要はなくない?」
― 今はもうなんでもないし、あえて言う必要はない、って…。
健作と雛乃ちゃんが私に関係性を隠そうとしていたのは、和香が言うような考え方からなのだろうか。
冷めていくハーブティーを見つめながら、私は黙り込むことしかできなかった。
「健作くんにダメなところがあるとしたら、元カノを隠しきれなかったこと。それから、千秋が実はこうして思い悩むタイプだっていうことを、わかってないところかもね。
でもね。それだけ無防備だってことは、逆に考えれば本当に何の心配もないってことだよ。ただ、千秋がどうしても受け入れられないなら…」
そこまで言ってから和香は、手に持っていたティーカップをテーブルに置く。
カチリ、というカップの音と重なって、彼女の声が聞こえた。
「受け入れられないなら、別れるしかないよ」
◆
2日後の日曜日。
私はまたしても、ハーブティーのカップを前にして無言になっていた。
「うわ〜!この写真、めっちゃ懐かしい!」
「だよなー。健作って、このときさ…」
恵比寿にある『マーサーカフェダンロ』のテラスソファー席。隣に座っている健作は、友人の深山くん・菊田くんと、思い出話で盛り上がっている。
ときおり深山くんが気を使って私に話題を振ってくれるものの、中学からの仲である彼らの会話に、そう簡単には入れない。
それでも今日は、結婚式の幹事を2人にお願いするという大切なイベントなのだ。決して笑顔だけは絶やさないよう、ニコニコしていた。
― こんなに昔の写真を持ってきてもらって、準備を始めてるけど…。来年、無事に式を挙げられるのかな。
ボーッとする時間が多いと、どうしても考えなくてもいいことを考えてしまう。
ただでさえ昨晩、和香から冷や水を浴びせられるような極論を、突きつけられたばかりだ。
眠れない夜を過ごしたせいか、あくびが出そうになる。慌てて腕に通していたマスクを、もう一度装着しようとした。
…そのときだった。
「わあ!これ、ひな?」
菊田くんの興奮したような声が、眠気を一瞬で消し去った。“ひな”は、きっと雛乃ちゃんのことに違いない。
マスクをつけながら、菊田くんが持っている写真を横目でチラッと確認する。
そこには仲睦まじく肩を組んでいる、あどけないほどに若い健作と、雛乃ちゃんの姿が映っていた。
「ちょっと、菊田!千秋さんの前で、その写真はないだろ」
「あ、やべ…」
慌てた様子で深山くんがたしなめ、一瞬だけ場の空気が重くなる。
でも当の本人である健作は、いつも通り能天気な笑顔を浮かべながら言うのだった。
「大丈夫、大丈夫!千秋さん大人だから、理解してくれてるの。前も言ったけど、今ひなって俺たちと同じ会社にいて。千秋さんも仲良くしてくれてるんだ。
うわ〜。懐かしいなあ、この写真。ひなも俺もめっちゃ若い!」
私は健作と同じようにニッコリ笑いながら、内心わずかに動揺していた。
健作の口から「ひな」という呼び名が出たことに。…会社では「立川さん」と呼んでいたのに。
― こんなどうでもいいことで動揺するなんて。私ったら、しっかりしなきゃ!
グルグルと目がまわるような混乱が、またしても私を襲い始める。
でも、このあと菊田くんが放った言葉は、そんな私にさらなる追い討ちをかけるのだった。
「へぇ〜。千秋さん、めっちゃ理解あるっすね!じゃあさ…。ここに今、ひなも呼びましょうよ!」
▶前回:職場の後輩女子が、なぜか彼氏と知り合いだった。疑心暗鬼になった女は2人を会議室に集め…
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結婚式の打ち合わせに、まさかの元カノを呼ぶことになり…。