部活を見に来た親が「下手くそ!」…毒親の間違った愛情がのちのDV夫を作った

―[モラハラ夫の反省文]―

◆愛すること自体が加害になってしまう人たち

 DV・モラハラ加害者が、愛と配慮のある関係を作る力を身につけるための学びのコミュニティ「GADHA」を主宰しているえいなかと申します。

 僕自身もDV・モラハラ加害者です。そのせいでたくさんの人を傷つけ、仕事や家庭が破綻寸前になり、ようやく自身の加害行為、それを生み出す加害的な思考・価値観を自覚しました。現在は日々自分の言動を改善しながら、妻と関係を再構築させてもらっています。

 この連載では、僕自身の経験や当事者会での気づきを共有していきます。職場や家庭でモラハラに苦しんでいる方々、無自覚に加害を行っている方々の参考になれば幸いです。

 一体、なぜ無自覚な加害者が生まれるのでしょうか。僕は、妻をたくさん傷つけておきながら、いつも「僕は彼女を愛している、大切にしている」と心から思っていました。

 つまり、加害者は愛しているつもりなのに、その愛するという行為の実際が「加害」ということが少なくないのです。その理由は簡単です。自分もまた、愛と加害の区別がつかない形で育てられてきたからです。

最近「親ガチャ」という言葉が話題ですが、その意味内容は大きく2つの側面があると思います。1つは「生活の安全」、もう1つが「人格の尊重」のレベルです。

前者はわかりやすいですね。ネグレクトや虐待を受けていないか、食事や教育を受けることができる家庭であったかどうかといった、外から見てわかりやすい側面です。

しかし、その影に隠れて気づかれにくいのが「人格の尊重」のレベルです。どんなに家がお金持ちで、さまざまな経験を積極的に与えていたとしても、人格を尊重しない親はたくさんいます。

例えば「子供が大学にいきたいなら応援する」ではなく「大学に行かないなんて恥ずかしい、人からどう言われるかわからない」「自分が子供の頃は大学に行きたくてもいけなかった。だからあなたには行って欲しい」といった動機に基づく大学進学の後押しは、人格を尊重しているとは言えません。

 それらは「親のニーズに基づく支配」であり、このようなことをする親を持ってしまうことは、「人格の尊重」のレベルにおいては、親ガチャのハズレだと言って良いでしょう。

◆辞めさせてもらえなかった部活

 僕の母は一見、愛情に満ちた人です。実際に、愛情には満ちているのかもしれません。しかし、愛するということの意味については、支配や加害と区別がついていなかったと今では思います。

 小学生の頃、僕はあるスポーツをしていました。僕はそのスポーツが嫌いでした。特に、試合を見にきては「下手くそ!!」「もっと走れ!!」「馬鹿やろー! シュート外すなよ!!」と親から怒号を飛ばされるのが本当に嫌でした。今でも忘れることのできない、思い出すたびに胸がざわつく記憶です。

 兄弟全員が同じスポーツをしていて、僕が一番下手でした。僕は本が好きで、児童館に行っても本を読んでばかりいるような子どもでしたから、スポーツが好きではありませんでした。

 いや、もしかしたらそうやって「下手くそかどうか」で判断されたり、いまいちな試合だったら自分以上に親ががっかりして、帰りの車の空気が息苦しかったことの方が、スポーツを好きじゃなくなった理由かもしれません。

 いつも「もう辞めたい」と言うのですが、母は「嫌なことでもやり遂げることに意味がある」「中途半端にやめたことを後で絶対に後悔する」「あなたのためを思っている」と言い、僕の気持ちはいつも無視されていました。

 母は常々「自分は何かを根気強くできないタイプだから」と言っていたので、きっとコンプレックスがあったのでしょう。何かに熱心に取り組むことを良いことだと思い、それがない自分を嫌いだったのかもしれません。そして、子どもにそれを求めたのかもしれません。

 そして、僕はそういったことを愛することだと、愛しているならば、相手のためを思っているならば、相手が嫌なことでも押し付けて良いのだ、と学んだように思います。

◆親とまったく同じ振る舞いを妻に行なった僕

 僕が妻にした加害は数え切れないほどありますが、その1つが「あなたのためになるから」と無理矢理させていたアート活動でした。

 詳細は書けないのですが、彼女は僕から見て、本当に素晴らしい才能を持っている人です。実際に、なんとかお願いしたり、高圧的に要求したりすることを通して作った作品は、相場の10倍もの値段で売れるほどでした。

 僕はそれで有頂天になりました。「天才を見つけた!」そして「その才能の発揮に自分が貢献できている!」と。きっと、教育ママやステージママと呼ばれる人も同じ心理なのかもしれません。

 その裏には「才能がなかった自分は不幸だった。才能がある人なら、この人のためになるのだから、頑張らせた方が良いのだ。たとえこの人が今は望んでいなくても、大きな成果が出たらきっと喜ぶはずだ、感謝してくれるはずだ」という思いがありました。

 しかし、妻は自分が作品を作ること、それが誰かに評価されること、さらには高値で買ってもらうという価値の証明までなされても、決して嬉しそうにすることはありませんでした。僕が勝手に設定した締め切りが近づくと陰鬱な様子になり、泣き出すこともありました。

 彼女はただ自分が思うように、誰に知られるためでもなく自分のために作品を作っているのであって、僕に勝手に製造スケジュールを立てられ、勝手にノルマを設定され、それがこなせなければ責められるような日常は、最初から最後まで一度だって望んだことはありませんでした。それは、全て僕の望みでした。

 僕は彼女が締め切り近くになっても作品を作らないと嫌味を言いました。「家事なら僕がやるから、その分、作品を作ってくださいよ先生」と言ってみたり、せっかく作ってくれた料理も「これに時間を使うくらいなら作品を作ってくれたほうが嬉しい」と言ったこともありました。

◆妻に押し付けていた、歪んだ「愛の定義」

 この記事を書いていると、当時これを言われていた妻がどれほど傷つき、苦しめられ、日常のあらゆる生活を息苦しく思っていたのかを想像すると、本当にいくら謝っても決して許されないことだと心底思います。

 本当に恐ろしいことに、ぼくはこれを「愛」だと思っていました。この人の才能を信じ、それを伸ばし、その人がその才能だけで食べていけるようになることを支援すること。「相手が嫌がっていようと」愛なのだと、信じていました。

 今ではこれが加害であり、支配なのだとわかります。愛と加害、愛と支配の区別がつかずに育てられた僕は、それを妻との関わりにおいてもそのまま再現したのでした。結局、これが僕と妻の離婚話に繋がる最大の要因になっていき、同時に僕の変容の最大のきっかけにもなったのですが、それはまた別の機会に記したいと思います。

 現在、妻との関係は本当に大きく変わりました。それは「妻の感じ方」を尊重できるようになったからです。妻「が」大切にしたいと思うものを僕も大切にして、妻「が」傷つくと感じる行動を取らないようにする。

 相手が大切にしたいことに「そんなことどうでもいいじゃん」と馬鹿にしないこと。相手が傷ついたり嫌な気持ちになったことに「気にしすぎなだけじゃん」と軽んじないこと。

 これが相手を愛すること、相手の感じ方を尊重することなのだと、今では思います。

―[モラハラ夫の反省文]―

【えいなか】

DV・モラハラなどを行う「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。

ツイッター:えいなか

2021/9/21 8:52

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