五代友厚はいかにして「おたずね者」から国際派ビジネスマンへ転身したのか 『青天を衝け』で描かれなかった「明治以前の五代」

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 今年の大河ドラマ『青天を衝け』でディーン・フジオカさんが五代友厚役を演じることが発表された時、ネットではずいぶんと話題になりました。2015年度下半期の朝ドラ『あさが来た』でもフジオカさんは五代を演じて好評を得ていたからです。

 しかし、『青天~』で五代が登場したのは、現時点でまだ2回だけ。初登場は第13回で、峠の茶屋のようなところで、浪人風の五代が、渋沢栄一らとすれ違うシーンでした。しかし2度目の登場時(第19回)には仕立ての良いスーツをまとい、舞台はなんとベルギーの立派な建物の中でした。「薩摩藩とベルギーが貿易できるように契約を交わした」などという台詞もありましたね。

 浪人のような出で立ちで放浪していた五代は、どのようにして国際派のビジネスマンへの転身を叶えたのでしょうか。今回のコラムでは、明治時代初期までの五代友厚の知られざる、そして『青天~』では描かれなかった歴史を探ろうと思います。

 五代友厚は天保6年12月(1836年2月)、薩摩藩で記録奉行を務める武士の家に生まれました。彼の父は、藩に巨額の利益をもたらしていた琉球貿易の担当者でもありました。当時の藩主・島津斉彬からの評価も高かったのでしょう。実父が藩主から頂いた世界地図を眺め、海外の世界に思いを馳せるなど、当時の武家の子弟としてはかなり国際的な感覚に富んだ少年時代を五代は過ごしました。

 しかし、五代と外国との最初の接点はなかなかにハードなものでした。

 文久3年(1863年)に起こった「薩英戦争」の際、五代は乗っていた船ごとイギリス側の捕虜になってしまいます。薩英戦争とは、薩摩藩主の行列を横切ったイギリス人一行に薩摩側が切りかかり、死傷者を出した「生麦事件」に対し、巨額の賠償金を求めてきたイギリスとそれに対する回答をダラダラと先延ばしにしていた薩摩藩の間に生じてしまった軍事衝突です。イギリス側の怒りは相当なものでした。

 この時、薩摩側の被害は砲台などを破壊され、全市街地の1割を焼かれた“だけ”で済みましたが、上陸攻撃を受ける可能性もあったそうです。そうなればより多くの人命が失われていたでしょう。しかし、捕虜になった五代が必死で説得を試みたおかげで、イギリスの上陸計画はとりやめになったといいます。

 その後、横浜までイギリスの軍艦で連れ去られた五代でしたが、当地で脱走に成功、行方をくらませてしまいました。イギリスの追っ手から身を隠さねばならなかっただけでなく、薩摩藩内には「外国人の捕虜になるくらいなら自害するべきだった!」などと言い出す過激な攘夷派も多かったので、同胞からも命を狙われることになりました。これらの逸話を膨らませたのが、『青天~』における五代の初登場シーンだと思われます。

 この後、五代は長崎に流れ着き、イギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーと知り合いになります。グラバーとの交流の中で、五代は最新の海外情勢や欧米諸国にまつわる貴重な知識を得ました。彼らが新しい技術に基づく産業を興し、多くの富を得ていること。国同士の交易も活発に行われていることを知った五代は、薩摩藩をより強く、富み栄えさせるための計画を練ります。こうして藩側との“和解”も進み、外国との交易が幕府によって禁じられているのであれば、薩摩藩は長崎ではなく、中国・上海に貿易拠点を置くべきだという壮大な発想を五代は持つようになります。同時に留学生をイギリスに多く送り込むべきだとの進言も藩にしています。藩としてはまずは留学計画から実現させたいということになりました。

 薩摩藩は当時の日本では異例なほどに豊かで、進取の気性に富んでいました。当時藩主だった島津久光が、非常に熱心に五代を物心両面で応援してくれたこと、さらに五代と交流の深いグラバーが保証人になってくれたこともあり、10代~30代の若手薩摩藩士たちを中心とする16名の留学生(土佐藩出身者の高見弥市を含む)が、グラバー商会の船で日本を発つことになりました。最初の目的地は香港です。ここでイギリスの郵便汽船に乗り換え、インドのボンベイで二度目の乗り換えを行い、スエズ運河を経由してイギリスにたどり着くというスケジュールでした。また、留学生一行に五代ら4名も「視察員」として加わっていました。

 上海に渡航した経験を持つ五代のアドバイスで、一行には「米と橙(だいだい)」が支給されました。日本人にはバターや牛乳を使った味付けの洋食がまだ珍しかった時代です。米は船内で出される洋食が食べられなかった時のため、橙は船酔いの時に口に含むと気持ち悪さが薄れるという目的で持っていったそうです。

 このように旅慣れた印象のある五代ですが、香港からボンベイまで乗っていた郵便汽船「マドラス号」の中では、水洗式便器内にたまっている水で思わず顔を洗ってしまったなど、面白い逸話も残してくれています(財部実行の証言)。

 薩摩藩は豊富な財力を背景に、その後も次々と留学生を密航させる形でヨーロッパに送り続け、五代も彼らの留学の手引きをしました。彼自身もヨーロッパを旅し、『青天~』内でも描かれたように外国と薩摩のビジネスの計画を取りまとめたり(それらがすべて実現したわけではありませんでしたが)、当時の日本人としてはきわめて珍しいほど海外文化に順応し、活躍を見せたのでした。

 一方で、五代は、残念ながら幕府からは要注意人物として目されていました。幕府側からすると、五代は「密航者」にあたるからです。しかし、彼は江戸幕府の上層部にも関知されているほどの“有名人”でしたが、その存在は咎めるべき対象というより、公然の秘密のような扱いとされたようです。薩摩藩との関係を、幕府としてはこれ以上こじらせたくなかったのでしょう。

 『青天~』にも登場した慶応3年(1867年)の第2回パリ万博の時には、幕府から派遣されていた外国奉行の柴田剛中(しばた・たけなか)も、パリの街なかで五代と遭遇してしまった折、見て見ぬふりを決め込んだそうです。柴田は五代の“暗躍”を知らされていませんでしたが、本能的に江戸の上層部と同じような態度を取ってしまったようですね。柴田の同行者で、五代と面識もあった岡田摂蔵(昭和期にソ連に亡命した女優・岡田嘉子の祖父)は「君たち薩摩藩士は堂々と渡航せず、こうやって密航などするから幕府から疑われるんだ!」などと食いついたのですが……。五代は「いやいや、そんなことはないよ」と冗談めかして、その場を切り抜けました。

 最後まで無言だった柴田の態度はある意味、“気づかぬふりをしてくれた”ようなものだったわけですが、五代は逆に柴田を厳しく批判し、「(柴田は)帰朝の上如何(いかが)申し開き致すべきかの苦心のみ」(※『薩摩海軍史』収録の五代の手紙の一部の漢文部分をわかりやすく書き下したもの)で、そんな彼は「至極の俗物」などと罵ったそうです。つまり、「幕府が厳禁している海外密航者に出くわしてしまったのに、柴田は五代をその場で問い詰めようともせず、帰国後に幕府にどう報告しようかを思い悩んでいるだけに見えた。なんという俗物か!」と、柴田の「見てみぬふり」を非難したのでした。

 当時、五代はまだ数え年で30歳の若さでしたが、すでにコミュニケーションに優れたひとかどの人物になっていたことが推察されます。これくらいが『青天~』では描かれてこなかった、明治維新くらいまでの五代友厚の略歴となるでしょうか。

 薩摩藩出身の五代は熱心な倒幕論者でしたし、『青天~』は「慶喜推し」を貫いていることもあるので、五代の登場シーンがなんだか悪役っぽく見えたのは致し方なかったと思われます。

 しかし、ヨーロッパから日本に帰国し、明治時代になってからの五代友厚は、渋沢栄一と同じく「経済道徳説」の提唱者であり、すべてのビジネス(金儲け)にはモラルが必要だという考えの持ち主だったことは忘れてはなりません。かつては日本史の教科書にも「明治政府から優遇された政商として、有利な立場で莫大な利益を得た」などと書かれていた五代ですが、実はこれは実態がない噂です。

 五代と同郷の元・薩摩藩士で、明治新政府内で北海道開拓使の長官を務めていた黒田清隆が、自分の知り合いの経営する会社に、政府が巨額を投じて造らせた官営工場を投資額の何十分の一の「お値打ち価格」で払い下げようとし、新聞で騒がれた……という話はたしかにあったことのようです。しかし、この事件に五代は何も関わっていません。

 むしろ史実の五代は、そのような悪徳商人とは真逆の活躍を見せていました。特に、停滞していた大阪の経済界を見事に立ち直らせたことで知られていますね。大阪は、幕末まで多くの藩に多額の金を貸して栄えていたにもかかわらず、明治になった途端に藩からその借金を踏み倒されたことで深刻な低迷期を迎えました。しかし、五代はその経営手腕で経済界を牽引し、復活させたのです。

 そんな五代の一面が朝ドラ『あさが来た』では取り上げられたのですが、実は大阪でも『あさが来た』が放送されるまでは“知る人ぞ知る偉人”程度だったそうで、それほどにまで五代の知名度は下がってしまっていたようです。スキャンダル以外で名を残すことの難しさを痛感させられますね。

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  • 9/12 11:00
  • サイゾー

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