【連載対談】【対談連載】一般社団法人 浅草観光連盟 理事 広報担当 浅草神社奉賛会 広報 事務局次長 株式会社イーウィルジャパン 代表取締役 CEO クオリティソフト株式会社 取締役 CMO 飯島邦夫

【東京・浅草発】『浅草観光連盟』という小さな組織でボランティア活動として、ソーシャルメディア(SNS)を使った情報発信に取り組んできた飯島さん。手間をかけずにさまざまなSNS拡散の仕組みと保管庫として「365ASAKUSA」を自社で開発した。発信がうまくいくと、国内外問わずメディアからの取材が殺到、街の店主たちからはコンテンツマーケや販売促進の相談、講演会などの依頼が増えて自然と仕事が広がっていった。自身のSNS「ヘルシー料理と健康管理」も人気だ。自身の専門分野が拡大すれば、「浅草」も相乗効果が現れる。さまざまな顔を持つ飯島さんは、大学は土木科卒業で建材商社に勤めたが、時代の潮流を感じてIT分野に方向転換した。すべての経験は「話題作り」のタネだと話す。「誰もやってないことを、少し目立ちながらやる」のがいいのだそう。浅草っ子の血が騒ぐのだろうか。とにかく話題が幅広く、楽しい人だ。

(本紙主幹・奥田喜久男)

●浅草には歴史と伝統文化がある だから、絶対元に戻る

 東京オリンピック前にコロナの打撃だったので悔しいでしょう。

 そうですね、今、浅草の街は青息吐息です。休業要請を受け、仲見世をはじめシャッターを下ろしている店舗もありますし老舗飲食店でも休業や閉店に追い込まれています。実は、「歴史は繰り返す」で、1964年の東京オリンピック前もカラーテレビの普及が浅草の劇場の興行を直撃しました。さらに遡ること1911年には吉原大火に関東大震災、そして東京大空襲といった惨事で、何度も焼け野原になっているし、戦後も挫折を味わってきています。

 ついつい、コロナ前の浅草のインバウンドの賑わいを思い出すけど、常に順風満帆というわけではなかったのですね。

 そうですね。新宿や渋谷、池袋といった新たな盛り場ができると、浅草から客足が遠のいていきました。そのたびに、歴代の浅草神社奉賛会や浅草観光連盟の人たちは「浅草には歴史と伝統文化がある。三社祭だって700年以上続いている。絶対に元に戻る」と信じてやってきました。

 だからこそ、SNS戦略によって毎日発信をし続けることで盛り上がって、コロナ前はインバウンドにもかなりいい影響を及ぼしました。自社で開発されたサービスが認知度アップに貢献したそうですね?

 『365ASAKUSA』といいますが、フェイスブックに投稿することで自動で作成されるウェブサイトの記事ページは、リンクを付けて自動でツイッターに投稿されます。この連携はフェイスブックページに「いいね!」した人しか見られなかった記事が、ウェブページ上で誰もが閲覧できるということにつながります。ツイッターに投稿することで拡散もされるので、ウェブサイトへの流入もびっくりするくらい増えました。

 インバウンドが増えたのもその理由から?

 日本語の記事は英語・中国語簡体字・繁体字・韓国語へ翻訳され、各言語のサイトへも自動で投稿されます。これによって世界中に浅草の情報を発信することができ、海外メディアにもとりあげられるようになりました。この連携が、Google検索の順位を上げる効果を生み出しているのです。

 海外では隅田川の花火やとうろう流しは有名ですね。

 とうろう流しは、先祖の霊を供養する目的で、故人の名前を灯ろうに書いて川に流すものです。当時から外国人観光客も浅草に多数訪れており、ニュースとして海外に報じられました。すると、イギリスのとある川でもとうろうを流したいとの投稿が寄せられたりもしたのです。

●建材の営業で身につけたマーケティングの基本

 飯島さんはIT分野のキャリアが長かったからこそ、この施策が成功に結び付きました。だけど、芝浦工大の土木工学科卒業で、社会人のスタートは建材専門商社だったようですが……。

 そうなんです。大学を卒業して建材専門商社に7年間勤めました。土木工学科だと、図面を書くとか、技術系なのでダムや橋梁の世界に入る人が多いのですが、そっちの方向に行ったら10年くらいは地方回りですからね。それがイヤで建材屋のほうに決めました。

 やはり、浅草を離れたくなかったのでしょうね。で、そこから方向転換してIT業界に舵を切っていますがなにか思うことがありましたか?

 建材屋では営業で、床を這うことも多かった。床には配線があって、配線を辿っていくとデスクに機器が設置されています。そうすると、その機器のほうに興味をもってしまって……。

 なるほど。そこで土木科系から、情報系に入っていくのですね(笑)。

 でも、建材屋では教訓を得ました。ユニットバスの裏打ち材などを商材にした営業職だったのですが、ある日、顧客から、自社で扱っていない商材を「安く手配するように」との難題が課せられて、人づてに必死に探して見つけました。すると、想像以上にとても喜ばれました。そこで覚えたのが、『どうすれば人に喜ばれて、仕事をもらえるか』。これが今にも生きています。

 マーケティングの基本ですね。

●人のやらないことをやる!目立ちたがりは代々の血か

 そもそも浅草が地元だそうですが、代々何かやられていたのですか?

 うちはひいおばあちゃんの代には紙屋でして、今でも130年以上続く祝儀袋屋です。一応、私が継承者です。

 今や、飯島さんは『浅草』だけでなく『祝儀袋屋』もコンテンツマーケティングしてオンラインショップをされていますし、『飯島邦夫』ご自身の「ヘルシー料理と健康管理」も人気コンテンツで発信されています。料理研究家の奥様との連携も麗しい。

 ITマーケティングというのは専門性を発揮していけば連携でどんどん相乗効果を生んでいきます。そうこうしていくうちに、町内の店主たちからも「自社のウェブサイトをコンテンツメディア化して、検索エンジン対策やSNS対策をしてほしい」と依頼されるようになってきました。コロナ前は講演会も多かったですね。たとえば、国の助成金を利用する提案などは案外知られていません。

 どんなところから依頼がきますか?

 とび職の会社も「とび以外にも普通の住宅の仕事を取りたい」だとか、カツラやヘア小物屋さん、雷おこし屋さんなどはオンラインショッピングとSNS対策ですね。組合組織の「一人親方」なども労災保険制度の加入者を増やしたいなど。施策をとれば、平均してもセッション数は2倍、PV3倍、ユーザー数2.4倍くらいの効果は出しています。

https://youtu.be/DTyrKLe62Bg

上記にて紹介動画を観ることができます

 まるで浅草市場のソフトウエアハウス屋さんですね。

 そんな(笑)。ただのサービス業ですよ。

 飯島さんのお話をうかがっていると、浅草は地方創生のロールモデルになりますね。

 『浅草観光連盟』は区や都の運営ではないのです。地元の人たちが戦後の焼け野原から発足させた団体です。浅草観光というと多くの方がまずイメージするのは、雷門や仲見世商店街ですよね。でも浅草はそれだけではありません。新仲見世商店街や道具街で有名な合羽橋、下町情緒の残る飲食店が立ち並ぶ観音裏や、靴や草履など履き物で有名な馬道、町ごとに特色のある専門店もあります。私はそこまで含めてすべてが『浅草』だと思って発信をしています。

 そんな浅草のいろいろな地域の情報を発信していけば、今は低迷期でも、また人が戻ってきたら、必然的に広い浅草へ客足も伸びるでしょうね。

 私はガイドブックや大きな旅行サイトにはどこにも載っていない情報を発信しています。わざわざ浅草を訪れる人は、現地に行かないと味わえないような、地元の人と同じ体験を求めていますから。そういう情報こそが魅力的であり、「浅草に行ってみたいな」と思ってもらえると考えています。

 「浅草全体が盛り上がって欲しい」そういういった思いや熱いモチベーションが伝わります。やはり、浅草の血が騒ぐんでしょうね。

 そうですね、あまり人がやっていないことをやって少し目立つ血がありますね。おばあちゃんは、なんと森永の初代エンゼル・ガール(森永製菓のキャラクター)ですし。(と言っておもむろに写真を出す)

 可愛いですね。翼を持つキャラクターのようにエンゼルたちは天を仰いでほほえんでいますね。希望に満ちた未来を求め事業領域を広げていこうとする姿勢、まさに飯島さんも同じではないですか。

 そうですね。趣味は浅草ですから。浅草のためにこれからも尽くしていきます。 

●こぼれ話

 浅草といえば三社祭。10年ほど前のことだ。いつものように右を見たり左を見たり、キョロキョロしながら仲店を通り抜ける。突き当たりが浅草寺。その前を右に曲がると浅草神社に行き着く。三社祭はこのお社で毎年執り行われる。残念なことにコロナ禍で、この2年間は「ソイヤ、ソイヤ」の掛け声が聞こえない、静かな商店街となっている。来年こそ、3年分のパワーで爆発してほしい。

 話を10年前のあの日に戻そう。境内には見る人と神輿を担ぐ人の熱気が立ち込めている。祭りのこの熱気が好きだ。立ち止まって浅草寺の大きな屋根を仰ぎ見る。青空に目線が届く前に、屋根の下あたりに仮設された足踏み場の警備隊に目が釘付けになった。ジッと見つめた。「アレ!? 飯島邦夫さんではないか」。警備隊長らしき人の隣に立って、膝上ほどまである火消しふうの法被を纏っている。「間違いない。飯島さんだ」。カッコいいと思った。羨ましいなぁとも思った。以来、私は飯島さんの“追っかけ”ではないかと自問する時がある。

 さて話は、50年前に遡る。私は伊勢での神職修行を終えて東京に出た。就職先は電気業界の新聞社。ところが、頭の中は日本の伝統とか、古い時代の書籍のことばかり。そのせいか、古い街並みに昔も今も惹かれる。当時は五反田に寄宿していた。なにせ田舎者である。浅草はどこだろうか。路線図を片手に、迷いながら辿り着いた。「ここが浅草か~」。雷門にぶら下がっている、どでかい赤提灯に心を奪われた。その大きさに「さすが東京だ」と思った。霞が関ビルにも、同じような印象を抱いた。なぜか東京タワーには感じなかった。その大提灯をくぐって振り返ると、提灯の下の木枠に“松下幸之助”とある。幸之助のブランドはこの大提灯で刷り込まれた。写真を撮るとき「松下幸之助の名前を入れてね」と頼んだ(前編に掲載)。松下電器産業がパナソニックに社名変更したのは13年前だ。松下電器という社名はそろそろ、人々の記憶から消え始めている。しかし旧社名は雷門で61年目を生き続けている。三社祭は1312年に初回開催とある。パナソニックも長い歴史を刻んでほしいものだ。

 祭りに神輿と法被は欠かせない。浅草に限ると、三社祭に飯島さんは欠かせない。浅草連盟の理事として祭りの運営、警備をする。広報担当としては組織的に情報発信をする。これらの仕事はお役目としても、個人の立場ではスカイツリーの四季を日次でネット配信している。スカイツリーの開業は2012年5月22日、聞けば、この日から毎日、欠かさず情報発信しているとのこと。「エッ、ほんと?」。飯島さんは自慢げに、「玄関を一歩出て、左を向くと前方に聳え立っている。そこでカシャ。簡単でしょ」と言う。確かに時間と作業内容はそうだが、毎日欠かさずとなると、唸ってしまう。二日酔いの朝はどうするのだろうか。聞き忘れたので次回お聞きしよう。

 飯島さんのネットに対する考えをまとめると――。ネットは(1)毎日の情報発信が原則、(2)一回の情報発信であらゆるネットインフラに情報が連動する仕組み、(3)世界の人が読めるように多言語対応とする。なるほど、特別な対応策ではないが、継続して実行するのはむずかしい。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく…」という井上ひさしの言葉を思い出した。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

2021/9/17 8:00

こちらも注目

新着記事

人気画像ランキング

※記事の無断転載を禁じます