仁徳朝を倒して皇位を奪取した!?“謎の大王”継体天皇「新王朝説」

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 現在の皇室から遡ることができる最も古い天皇(大王)は「継体(オホドノミコト)」とされる。

 継体という漢風諡号には体制を継ぐという意味があり、古代ヤマト政権が六世紀に〈日続知らすべき王なし〉(『古事記』)、すなわち皇統断絶の危機に瀕した際に即位した天皇と理解されている。

 確かに皇位継承は当時、混乱中で、その事実は『日本書紀』からも窺い知ることができ、その隙を突いて越の国(越前=福井県)から中央に進出し、仁徳天皇から始まる王朝を倒したのが継体天皇とされるようになった。

 はたして、この「継体新王朝説」は本当なのだろうか。まず、『古事記』と『日本書紀』に基づいて通説を確認したい。

 仁徳朝の武烈天皇には皇后がなく、皇子もいなかったことからその崩御後、ヤマト政権の幹部だった大伴金村が群臣に諮は かり、仲哀天皇の五世の孫である倭彦王に白羽の矢を立てたが、失敗。越前三国(福井県坂井市)にいた応神天皇の五世の孫に当たる継体を改めて迎えることになった。

 継体は再三、この申し出を断ったが、旧知の豪族に説得され、河内樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。とはいえ、すぐにヤマトに入ったわけではなく、筒城宮(京都府京田辺市)や弟国宮(同府長岡京市)を転々とし、即位から二〇年が経って、ようやく大和の磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に入った。

 つまり、ヤマト政権を支える有力な豪族の中に継体の即位に反対する一派があり、擁立派だった大伴氏らと争って内乱状態となったため、ヤマト入りが遅れたとも言え、このことも継体朝を簒奪政権とする根拠の一つとなっている。

 実際はどうか。その謎を解く鍵が『古事記』と『日本書紀』がいずれも継体を〈応神天皇五世の孫〉としている点。応神天皇は仁徳の父とされ、仁徳朝は彼が祖であるとの解釈もある。だが、『日本書紀』などには応神から継体に至る五世の皇族の名が記されていない。

 つまり、前王朝と繫がりのない継体がいかにも関係があるように装うため、〈応神天皇五世の孫〉という出自をでっち上げたように思えなくもないのだ。

 では、継体とは、そもそも何者なのか。『日本書紀』によれば、父の彦主人王は近江高島に別宅を構え、越前の三国から振媛という女性を妻に迎えたものの、継体が幼い頃に死亡。未亡人となった振媛は実家に戻り、継体を育てたという。

 また、継体天皇の后の出自を見ると、近江や尾張の豪族の娘が多い。

 よって、父は「王」と呼ばれたものの、縁戚関係にある豪族に支えられてヤマト入りを図ろうとした継体もまた、越前、もしくは近江の豪族出身というのが新王朝説だ。

 この流れだと、継体は前王朝との関係を強調するため、応神天皇の五世の孫を自称し、ヤマト政権側にも大伴金村のように、新王朝の樹立を認める勢力があったことになる。

 ところが、『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』には〈上宮記にいわく、一に云う〉として、そのあと、応神から継体に至る五世の皇族の名が記されていた。

 上宮記は散逸して残っていないものの、『釈日本紀』の筆者である卜部 の兼方(鎌倉時代の官人)が『上宮記』に書かれた内容を孫引きする形で「応神-継体」の系譜をまとめていたのだ。

「上宮」は聖徳太子こと厩戸王が住んだ宮を指し、『上宮記』の成立がかなり古いことから、〈応神天皇五世の孫〉が必ずしもでっち上げとは言い切れず、史実である可能性もある。

 こうなると、新王朝説は否定され、『日本書紀』にある通り、武烈天皇の崩御後の混乱に乗じ、大伴金村が継体を探し出してきて後継に据えたということになるが、はたして本当だろうか。

 応神天皇の別名(和風諡号)は「ホンダワケノミコト」で、『上宮記』の系譜には「凡牟都和希王」と記され、「ホムタワケ王」と訓んだことから「凡牟都和希王=応神」と解釈されてきた。

 だが、実際は「ホムツワケ王」と訓むという説もあり、これが正しければ、「凡牟都和希王=応神」ではなくなり、継体が「応神天皇五世の孫」だった可能性が消滅。

 実際、ホムツワケ王が仁徳朝よりも前にヤマトを治めた三輪王朝の王だったという指摘もある。

 ただし、それまでの皇統と関係のない地方の豪族が仁徳朝を倒す際、三輪王朝の末裔を自称した可能性はある。

■百済の王が鏡を贈って接近を画策していた!?

 一方、隅田八幡神社(和歌山県橋本市)が所蔵する国宝の銅鏡に〈癸未年〉で始まる四八文字が刻まれ、これを西暦五〇三年とし、その中に含まれる「男弟王」を「ホド王=継体」と解釈し、大和の忍坂宮(桜井市)にいた継体に当時、百済(朝鮮)の武寧王が鏡を贈ったという説もある。

 その年は武烈天皇の父とされる仁賢天皇の治世で、しかも、百済の王が外交相手に鏡を贈ったとすれば、継体はすでに当時、皇位継承者と見られていた可能性も高い。

 とすると、継体が地方の豪族だったはずはなく、仁徳朝の皇統のどこかにつながる王だったようにも思える。

 おそらく皇族の一人とはいえ、傍流に位置し、近江や越前などの地方の豪族に養育される立場だったのではないだろうか。

 仁賢に続いて即位した武烈が、『日本書紀』に凶暴性が記されている通りの天皇だったとしたら、早くからその後継として継体が期待され、百済の王もそれゆえ、彼に接近を図ろうとした可能性もある。

 もしそうなら、武烈の崩御後に政権内の派閥争いなどで皇位継承に混乱が生じたのかもしれない。

 はたして仁徳と継体の両天皇の王朝は、どんな関係だったのか。

 今も邪馬台国論争とともに大きな古代史の謎となったままだ。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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  • 9/8 12:00
  • 日刊大衆

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