センスとかシティボーイとかもうどうでもいい!推しは推せる時に推さなきゃ!
こんにちは、oyumiです。
この連載のタイトルは「シティボーイに『あいつ、デキるな』と思われたい」だけど、とてもじゃない。シティボーイに最も敬遠されるような内容になってしまった。2回にわたって昔寝た男のくだらない話を書いてしまっている。(念のために言っておくと、好んでそういうことをやっているわけではない。昔の私は断る術を知らなかったのだ)
でもそんなの大丈夫。なぜならもうシティボーイへの興味なんて無くなったから、どう思われようが知ったこっちゃない。歳を重ねていくうちに、他人からどう見られたいかよりも、自分自身がどうありたいか・どう人生を楽しみたいかのほうがずっと重要だと考えるようになったのだ。
ダサくたっていいや
シティボーイにどう思われようがそんなのはどうでもいい。むしろ私自身がそうなりたい!とは言えシティガールに憧れるような年齢でもない。
だからダサいのを承知で言おう、文化人になりたいと!!(文化人はそんなこと言わない)
そんなダサい私ですが、先日こんな文章を絵に書きました。読みづらいと思うので文字起こししておきます。
和田誠や安西水丸、細野晴臣や大瀧詠一の名前なんて27まで聞いたこともなかった。シティポップというジャンルは一切通ってこなかったせいで自分にはああいう音楽は都会的すぎて未分不相応だなと感じる。なんだか吉田拓郎の名曲『春だったね』の「春だったんだね〜♪」の部分がギャグみたいに聞こえるようになってしまい、悔しい。お洒落な文系人間なら当たり前のように好んでいるエリック・ロメールの映画も観たことがないし、ヌーヴェルヴァーグが人の名前でないと知ったのなんて27の時だ。ちなみにゴダールの映画を最後まで観たことが一度も無い。黒澤明のはセリフが聴き取れなくてイライラする。小津安二郎は結局いつも同じような話だと飽きる。小説は苦手で全然読まないし、現代史や俳句も正直よくわかってない。美術館に行って半分くらい観るとヒザの裏がつかれて帰りたくなる。でもモテようとしてガマンして絵の前で5分くらい立ったり2度見するのだ。…一人旅は本当に苦行だと思う。楽しいと思ったことがほとんど無い。花は買ってもすぐ枯らす。子供の頃からずっと大切にしている物も無い。毎日同じメシでも平気。そういうショボくて雑魚な自分を恥ずかしいと思うことをやめました。
書いてある通り、今ではすっかり和田誠や安西水丸を憧れとし、最近はいろんなイラストレーターや画家の画集をメルカリで買い漁っては時々村上春樹のエッセイを音読するなどしている。だがそれらはここ1年の話。それまでの私は一体何をやっていたのだろう。
ぶっちゃけ今ですら私は、ソファーの上でTwitterとInstagramとまとめサイトを巡回している時間の方がほとんどである。しかも別に詳しくもないのに、アンリ・マティスの画集や林静一の本や、聞いてもいないレコードを買ってはすぐさまストーリーにあげてしまう始末。ダサい、全くもって、ダサい!
しかし東京の人たちは一体、いつ、どこで、そもそもどうやって「はっぴいえんど」や「大滝詠一」や「細野晴臣」や「永井博」たちを好きになるんだろう?
シティポップ、お洒落すぎて聞けない問題
これはかなり勇気のいる発言だけど、シティポップに全く興味がない。
だから山下達郎(以下ヤマタツ)も知っている曲名が1つしかないし、竹内まりやに限ってはマジで何も知らない。ヤマタツに関しては一応、去年2枚CDは買ってみたけど、数えるくらいしか聞いていない。スマホに入れてないからっていうのもあるけど。
曲を聞けば、やっぱり良いな〜と思う。その反面、どこかで自分には縁のない音楽だと感じていた。ちなみにこれははっぴいえんどでも同じことが言える。
なぜかっていうと、光景が浮かばないのだ。自分が山下達郎を部屋で聞いて夢中になってる光景。ヤマタツを聞くのにふさわしい部屋も無い。
どうにもこうにも自分の部屋と生活に、ヤマタツが馴染まないのだ。(それなのにヤマタツとか呼んでごめんなさい。でも、実はヤマタツのキーホルダーとフィギュアを3つとメルカリで買ったファンクラブの会報誌みたいなやつ持ってます)
私の中でヤマタツを聴くにふさわしいと感じる部屋っていうのは……まず白い壁におんなじ白かクリーム色の床でしょう、そしてでっかい観葉植物とソファー。それから、布団じゃなくてちゃんとしたベッドと、なんかでっかいスピーカー。間接照明もあったらなお良し。いわゆる一昔前のアニメに出てくる2枚目が住んでるお洒落な部屋だ。(※タッチに出てくる新田、YAWARA!の風祭、あとは部屋が思い出せないからただのイメージだけどめぞん一刻の三鷹)
そういう部屋で優雅にレコード流しながら、ティーカップでお茶を飲む……なんとなくそんな光景がヤマタツの曲にはしっくりとくる。
残念ながら私はそんな環境のある家に生まれ育たなかった。砂壁と畳部屋の、ゴキブリが大量に出るボロアパートで育ってしまっている。大人になった今ですらまだソファーとベッドに憧れている現状である。なんだか令和を生きる人間とはとても思えない。
やっぱり四畳半で聴きたくなる吉田拓郎は安心
若かりし頃の拓郎
その点、吉田拓郎にはそういうイメージが全く無い。安心して聴けてしまう。だって、どう考えたってボロアパートの畳部屋でゴロゴロしながら聞くのがぴったしだ。
もちろんベッドじゃなくて敷布団だし、でっかい観葉植物なんて高くて買えないからダイソーで買ってきて大事に育ててきた名前の知らない植物だし、ソファーなんて無いから枕が座布団がわりだ。間接照明なんてもちろん無し、必要性がわからない。お昼ご飯は納豆卵かけご飯で十分だ。
しっくりくる。実にちょうどいい。(多分このイメージは吉田拓郎がまだ「よしだたくろう」だった頃のものである)
そんなこと言ってる場合じゃない、推しは推せるときに推すから楽しいんだ!
そんな吉田拓郎はもうすでに引退宣言を発表している。次に出す予定のアルバムが、予定では最後のものとなる。彼のパートナーである森下愛子はとっくに芸能界から引退しており、2人で終活を始めているのだという……。
私は思った。「時間がない」と。
自分には未分不相応、しっくりこないだとか謎の理由をあれこれつけて興味がないふりをしている場合じゃない。人間には寿命があるんだぞ!
この焦りは昨年志村けんがコロナで亡くなってしまったときにも感じたけれど、7月の吉田拓郎ANNを聞いて私は、さらに焦った。生まれたときから当たり前のように活躍している人は、永久不滅ではないということ。急に亡くなったり引退宣言したりするし、しかもそれが年齢に関係なかったりする。
そういう当たり前なことに、みんなはいつ気付くんだろう? 推しは推せるときに推せって最近聞くけど、とってもわかる。
趣味が欲しいだとか、もっと色んなことに詳しくなりたいだとか、センス良くなりたいだとか、そういう遠い目をしながら嘆く欲望ってあるあるだと思うんだけど、そういうのって手を伸ばすだけで案外すんなり手に入るものだ。手を伸ばすのがめんどくさいだけなのに、私のようにそれっぽい理由をつけて偉そうな顔する人になってはいけない。
気になったらすぐGoogleやYouTubeやSpotifyで調べちゃえば一発。読書だって本さえ開けばあとはどうにかなる。家だと集中できない映画も、映画館で観ればいやでも集中するしかない。お金があれば迷わず買っちゃえ!
しばらくしたら、「趣味が欲しい」「センス良くなりたい」なんて言ってる場合じゃなくなって、時間とお金が無限に欲しくなってるハズ。シティボーイにデキる奴だと思われたいみたいな、他人にどう見られたいなんてことがどれだけくだらないかがわかることだろう。
なんだか30歳が近づいた途端、あれこれ反省するようになってきた。
早速私はこないだ山下達郎の新しく出たレコードを購入。
部屋に好きなものが増えていく様子がすごく心地いいです。
Text/oyumi