「セクハラやパワハラに、なぜ嫌だと言わないの?」と思う人に伝えたいこと

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 過去に受けたセクハラやパワハラを明かす人が、少しずつ増えている昨今。それに対して、「なんで今さら?」「なぜそのときノーと言わなかった?」という声が必ず上がります。特にセクハラは、そのとき黙っていると「嫌がってなかった」と誤解されたりします。

 でも、ひどい扱いに対して「怒る」ことは、誰もができるわけではないのです。DVやブラック企業を体験してきたフリーライターの吉川ばんびさんが、「怒れない」気持ちを綴ります(以下、吉川さんの寄稿)。

◆ひどいことをされた、と認めるまでに時間がかかる

 覚えている限りでは昔からそうだったのだけれど、私の怒りはいつも遅れてやってくる。「これ、怒っていいのでは?」と思うのはだいたい事が起こってから時間が経ち、最悪の場合、数年経っていたりもするので、怒りゲージがMAXに達して文句を言いたいときには相手との縁が切れているか、今更になって蒸し返すのもいかがなものか、と自分でも思ってしまうほど怒るタイミングを逃し続けている。

 仕事関係の飲み会で隣に座った男から太ももをひたすらに揉み続けられ、抱きつかれ、体の色んなところを触られた日ですら、私は「え……ちょっと……」くらいしか言葉を発せず、なぜか男性たちがギャハギャハと笑っている空気を壊してはならない気がして、強く抵抗できなかった。朝、始発の新幹線に乗って帰路につきながら、悔しくて悔しくて涙が止まらなかったのをよく覚えている。

 あれから3年ほど経った今なら、あの男の顔に酒を浴びせてやればよかったとか、いっそぶん殴っておけばよかったとか後悔の念が次々と湧いて出てくるのだが、どうしても「その場」「そのとき」に怒りを爆発させることができないでいる。

◆自己肯定感の低さ、自信のなさがカギ

 こうした経験をなんども繰り返しているうち、おそらく人間が「怒り」の感情を持てないことや、怒るまでにタイムラグが発生する要因には、自己肯定感や、自分に自信を持つことが大きく関わっているように思えてきた。

 まさに自分がそうであるが、私は自己肯定感が低く、自信もないため、その瞬間に自分が感じた”感情”そのものにさえ、自信が持てない。だからこそ、トラブルに巻き込まれている最中には他人の顔色ばかり気にしてしまって、そもそも「これは怒っていいのでは」というような「自分の意見や不快感を主張する」発想や選択肢すらなく、感情は後回しに、その場をやり過ごすことを最優先にしてしまう。そういう悲しい生き方をこれまで、三十年近くくり返してきてしまった。

 幸い最近は、ある程度の社会経験や修羅場をいくつもかいくぐってきた成果のおかげか、人並み程度の自信を持つことができるようになった。私は生育環境が悪く、家庭で親からの虐待や兄からの家庭内暴力があったため、自己肯定感はほとんどないも同然のまま大人になってしまった。

◆自分の感情を尊重できるようになること

 しかしながら、数年間の精神科への通院とカウンセリングの効果もあり、少しずつ、自分を大事にしようという気持ちや、自分が感じたことを、自分がそのまま尊重してあげようという意識を持てるようにまで回復できたように思える。

 そうすると不思議なもので、「理不尽な扱いを受けた」と思ったらその場で相手に言い返したり反論したりすることが、以前よりもいくらかマシにできるようになったように思う。しっかりと相手に「傷付いた」と伝えられるようにもなったし、相手の感情を無条件に優先する思考パターンから解放されたおかげで、無駄に精神を消耗することが少なくなったのは自分にとって大きな財産であるように思える。

 だからこそ最近は、特に自分よりも若い人たちが理不尽な状況に遭遇して「怒っていいのかどうか」悩んでいるとき、それが正当であると思うものについては、なるべく「怒ってもいいと思うよ」と言うようにしている。あるいは本人が希望する場合のみ、代理で口を挟むことも多々ある。

◆怒れない私を守ってくれた先輩女性

 誰かに「怒ってもいい」と言ってもらえることが、これまでの私にとって背中を押してもらえるきっかけになったことが何度かある。自分のなかにある”怒り”の感情を第三者から認めてもらうことは、自己肯定感を取り戻すことや、自信を付けることにおいて非常に重要なプロセスである。

 二十代前半、まだ私が会社員だった時代に、とても頼れる女性の先輩がいた。彼女は管理職であったが、いつも下の立場にある社員たちに目を向けてくれていて、私たちがセクハラやパワハラ、その他諸々の被害に遭っているのを見るにつけ、「あんたは今ひどい目に遭わされている。だから、私が戦って守ってやる」と怒り心頭で先陣を切って相手に切り掛かってくれる、勇者みたいな人だった。自分に自信を持てずに沈黙を貫くしかなかった私はいつも、彼女の勇気と行動力に救われていたように思う。

 今年、私は三十になる。当時の彼女とだいたい同い年くらいになった。彼女のように、とまではおこがましくてとても言えないが、自分の後進ともなる若者たちのために、自分が救われたあのときのように、少しでも力添えをしたいと思っている。

<文/吉川ばんび>

【吉川ばんび】
1991年生まれ。フリーライター・コラムニスト。貧困や機能不全家族、ブラック企業、社会問題などについて、自らの体験をもとに取材・執筆。文春オンライン、東洋経済オンラインなどで連載中。著書に『年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声』 twitter:@bambi_yoshikawa

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この記事のみんなのコメント

2
  • 脱走兵

    8/8 23:30

    人生懸けて取った金メダルをキモいオッサンに噛まれたりな(笑)。

  • いや、「嫌だ」と態度や顔には出ているよ。加害者側が「またまた~♪」な態度で汲み取ろうとしない以上は「自分がしている行為はかつて母や伯母叔母、祖母に姉や妹、果てはいとこすらもが受けた行為かも?」と考えない限り、変わらない。

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