大谷翔平より前に「二刀流」実現の可能性も…日米170勝の怪物が引退!松坂大輔「栄光の23年」軌跡
大好きな野球を続けたい。その一心で現役にこだわった男がマウンドを去る。平成の名投手「伝説」の裏側!
日米通算170勝。“平成の怪物”こと松坂大輔( 40 )が、7月7日、引退を表明した。
「21世紀初の沢村賞の受賞や、ベストナイン3回、メジャー挑戦1年目でのワールドシリーズ制覇などを成し遂げた、名投手の引退は寂しいものがありますね」(スポーツ紙デスク)
彼は、現役生活23年の間に、数多くの伝説を残している。今回は、関係者のみが知る、「知られざる真実」をお届けしよう。
松坂の名を全国に知らしめたのは、1998年の甲子園。その年、エース松坂を擁する横浜高校が、甲子園で春夏連覇を果たす。
中でも記憶に残るのは、夏の準々決勝で延長17回・投球数250球という熱闘を制した翌日の明徳義塾戦だろう。松坂は腕にテーピングを巻き、左翼手として出場して人々のド肝を抜いた。投手が明徳打線に打ち込まれ、6点差になると、驚きの行動に。
「横浜の攻撃中、松坂がブルペンで投球練習を始めたんです。球場の空気が一変しました。その回4点を返したんです。9回表、松坂が登板して打者3人で抑えると、その裏に3点を奪って逆転サヨナラ勝利。さらに決勝戦で松坂はノーヒットノーランを達成。準々からの3試合は“3度の奇跡”と呼ばれています」(スポーツ紙記者)
その“奇跡”を松坂にもたらした原点は、高校2年の夏にあるという。当時の横浜高校監督・渡辺元智氏が、当時を振り返る。
「今でも思い出すのは、その年の県大会ベスト4。最終回を1点リードで迎えたんですが、松坂が暴投して一塁ランナーまで返して、逆転負け。彼はベンチでもロッカーでも号泣して、立ち上がれませんでした」
このとき松坂を激しく叱責した渡辺氏だが、後日、そのことを後悔したという。
「あの暴投は、スクイズで三塁ランナーが走り出すのが見え、瞬時に力を抜いてボールを外そうとして失敗した結果でした。もちろん何度も練習しているプレーですが、失敗を恐れて試合ではできない選手も多い。だから私は逆に、実戦でやろうとした意欲を褒めるべきだと気づいたんです。松坂は松坂で、自分一人で勝ち上がるという、驕りを反省する経験になったのではないかと思います。彼は敗戦後の合宿で、今まで以上にきつい練習に耐え、スクイズ外しについても、もう失敗しないと思えるまで、成長するしかないと考えたんでしょう」
まさに“怪物”が覚醒した瞬間だ。
■長嶋茂雄「打者としても一流」
その後の大活躍で、ドラフトでは3球団競合の末、西武に入団。
「松坂は意中の球団は横浜と公言していた。彼が西武入りを決意したのは、当時の東尾修監督から、投手時代に200勝した記念ボールを渡されたことなんです。東尾氏は“オレにとって大切なボール”“代わりに200勝した際にはボールをよこせ”と松坂に託したんです」(前出のデスク)
超高校級の才能を発揮していた松坂には、ミスターこと長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督もぞっこんだった。スポーツジャーナリストの江尻良文氏がいう。
「第2次政権のミスターは、松坂のドラ1指名を熱望していたそうです。しかし、すでに巨人は上原浩治の指名を決めていた。実現しなかったとはいえ、ミスターは松坂の才能を買っていたようですね」
プロ入り後もミスターは“松坂ファン”を公言。
「監督辞任後も、西武のキャンプへ行くというのでついていったら、やっぱり目当ては松坂。彼が投げると長嶋さんはかぶりつきで見ていましたよ」(前同)
松坂の才能を、ミスターはこう評したという。
「もちろん、投手としても20勝する実力はあるが、打者としても一流。バネがあるし、彼にショートを守らせて、3~4番を打たせたら面白いと思うんだ」
巨人入りしていたら、大谷の前に二刀流・松坂が誕生していたかもしれない。
■松坂の球威を信頼!WBCでの直球勝負
「松坂は記録こそ170勝ですが、170球投げても150キロ台のストレートを投げられるのは彼だけでした。まさに不世出の投手ですよ」(江尻氏)
そのストレートは日本にとどまらず、世界でも通用した。
日本が2連覇を果たした第1回、第2回のWBCでは、ともに3勝を挙げ、2大会連続でMVPを獲得。第1回のメキシコ戦でバッテリーを組んだ、元ロッテ捕手の里崎智也氏が語る。
「忘れられないのは、1死三塁のピンチから8球連続で内角ストレートのサインを出したこと。危険な配球ですが、相手のバットの出方と大輔の球の威力を考えると、絶対に打たれないと思っていました。大輔が、その配球に一度も首を振らかったのは僕の勲章ですよ」
記録にも記憶にも残る名選手。永遠の野球少年として、その雄姿は野球ファンの脳裏に残ることだろう。