「男できた?」久しぶりに妻と会い、驚く男。変わり果てた女の態度に思わず…
”ドクターK”と呼ばれる男は、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。
彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。
恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?
◆これまでのあらすじ
友人の明石とともに愛子の店に出向いた影山。だが、彼女はいなかった。店の女の子に、ママには援助してくれる上顧客が何人もいると聞かされ、ショックを受ける。
▶︎前回:「金のためならなんでもするのか?」エリート男が夢中になった、女の裏の顔
愛子の苦悩
影山と湘南にドライブへ行った翌週の水曜日。
私は出勤のため、身支度を整えながら彼のことを考えていた。
「今までこんなに必死に口説いたことはない。ほんとうに」
湘南で影山から伝えられた言葉は、私が長い間忘れていた感情を思い出させてくれた。
彼の目からは、嘘偽りない誠意を感じとることができる。私は年甲斐もなく、このまま時が止まってしまえばいいのに、などと思ってしまった。
こんなに胸が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に陥ったのは、一体いつぶりだろう。
今の夫と結婚したのは17年前。
15歳上の夫は私のワガママにも寛容で、子煩悩。私が夜の仕事をしている間は子どもの面倒をよく見てくれた。
山あり谷ありではあったけれど、結婚生活の大半はうまくやってきたはずだ。
しかし、一人息子が九州の全寮制の中学校に入学した頃から、少しずつ歯車がズレていったような気がする。
不動産業といっても、いくつかの事務所用ビルやマンションを所有しているだけで、毎日仕事らしい仕事があるわけではない。
側から見ていても、息子が寮生活を始めて以降、夫は時間を持て余しているようだった。
だが、ある時、興味本位でデイトレードを始め、あっという間にのめり込んでいった。
西麻布にデイトレード専用の部屋を作り、熱中するあまり私が夜中に帰宅した時に、夫は不在ということもあったほどだ。
「夢中になってて気がついたら朝だった」という夫の言葉に何も疑いを持たなかった。
しかし、昨年の秋ごろ。
夫が若い女性と連れ立って街を歩いていたことを、言いにくそうに伝えてきた人物がいた。
それが先日、湘南で偶然出会った聖菜だ。
「実際に私が見たわけじゃないんですけど…。店の女の子たちが噂していましたよ」
私は内心動揺していたが、それを表には出さないよう注意を払って言った。
「あら、そうなの?息子もいないし、私も家を留守にしがち。そのくらいの遊びも時には仕方がないわよ」
夫の不貞を報告してきたのは、店一番のこじらせ系女子
「ママって寛容ですね。私だったら耐えられないな」
若い子が言いそうなセリフだ。聖菜は27歳で、うちの店で働き始めてからそろそろ1年になる。出勤するのは週に2日ほどだ。平日は食品メーカーで営業をしているらしい。
きめ細かい白い肌に、170センチの長身。10代の頃はモデル事務所にも所属し、数々のファッション誌で活躍していたというのは、本当の話だ。
当然、店に入ったばかりの頃は「ママ、新しい子?」と太客たちも興味津々だった。
だが1年経ってもなじみが少なく、客商売に向いていないとつくづく思うのだ。
以前、店のナンバー1である玲央名からも「私のヘルプにつけないでほしい」と言われたことがある。
玲央名は店の立ち上げの時からいる子で、正統派な美人。昭和の女優を思わせるような顔立ちで、親の転勤で海外暮らしが長かったおかげか、英語が堪能だ。
その上、政治経済の知識にも長けているから、海外からのゲストを連れてくるお客様も安心して任せることができる。
「ママも気づいていると思うけど、聖菜はお客様に必要以上に近づいたり、仕事を超えた発言をしすぎ。この仕事は向いてないと思う」
玲央名が言っていることはもっともだと私が1番よくわかっていた。
彼女をなだめるように、私は言った。
「玲央名、そんなこと言わないで。経験のあるあなたが色々教えてあげなくちゃ」
嫌な言い方だが、聖菜は年齢のいった太客に気軽にシャンパンをねだる一方で、年齢の若いエグゼクティブたちには積極的にアフターを持ちかける。
その様子は、まるで結婚相手を物色しているようにも見えなくもない。
だが聖菜も、大きな失敗はしていないのだ。だから、女の子をうまく育てるのも私の重要な仕事と思い直し、彼女にはより一層指導に力を入れてきた。話し方のマナーを教え、お酒の飲み方を指導し、自分のできる事は必死にやってきた。
やれることは全てやった結果、最後に必要なのは、本人の努力とセンスなのだと私はようやく分かってきたのだった。
そして、聖菜と言えば明るく屈託がない性格である一方、人の持っているものを逐一観察し、羨ましがる子という印象だ。
「ママってピコタンをいくつ持ってるんですか?」
「シャネルのジャケットを着てみたーい!ママ、着なくなったら聖菜にお下がりして」
人の持っているものを欲しがる、隣の芝生が青く見える性格なのだろう。
店にくるお客様の中でも、医師や弁護士に執拗なまでの興味を占める聖菜。
エルメスやシャネルのように、彼のことも欲しがられてはたまったものではない。それに2人の関係を憶測した上で、ベラベラと喋られる可能性だってある。
― あの子に、カゲヤマと一緒のところを見られるなんて…。
他の顧客も一緒にヨットに出かけたと言い繕ってしまったのも今となっては後悔している。きっと聖菜は店の女の子全員に、私が誰とヨットに出かけたのか、探りを入れるだろう。
別居しているとはいえ、私には夫がいる。影山とのことは店の女の子が周知する事実にするわけにいかない。
そんなこと、分かっているのに。
湘南からの帰り際、車の中で手を絡ませ離そうとしない彼を、家の近くの路地で臆病に唇を重ねてきた彼を、私は激しく愛おしいと感じてしまったのだ。
もう彼と知り合う数ヶ月前には、引き返せない。引き返したくない…。
「週末は、2人だけで一緒に過ごそう」
湘南で交わした彼との約束が、私の心の中を仄かな蝋燭の明かりのように照らしていた。
暑い中、冷えたシャンパンを所望するお客様で大賑わいの週明けだったが、今日はまだ水曜日だ。
― 私もどうかしてるわね。週末の約束がこんなに待ち遠しいなんて…。
そう思いながら夜の営業に向け、シャワーを浴び準備をしていた時、自宅のインターホンが鳴った。
突如やってきた訪問者の横暴なふるまいに女は怒り…
私が呆然としている間にも、突然の来訪者は自分で玄関の鍵を開け、部屋に上がってきたのだった。
「えっ、どうして…?」
別居していた夫が、急に帰宅したのだ。
「びっくりした様子だね。そりゃそうだな」
久しぶりに会う彼は、以前よりも痩せ、肌艶もよく57歳という年齢よりもだいぶ若い印象さえする。
「今さら何?ここに来ることを、あなたの弁護士さんはご存知なの?」
「いや、弁護士はもう必要ないだろう?僕は愛子と別れるつもりがないんだから」
一度は離婚を切り出したのに、この人はなんと勝手なことを言っているのだ。
私は冷たく言葉を返す。
「彼女とは別れたの?あなたが自分から出て行ったのに、何を言ってるのかよくわからないわ。これから出勤だから帰って」
すると夫はまったく気にする様子もなく、つかつかとリビングに上り込むとソファに体を沈めた。
「まあ、そんなに怒ってないで、ワインでも開けてよ。ここは僕の家だろ」
彼の横柄な態度に、ますますイライラが募る。
「一杯だけ飲んだら帰って」
私は玲央名に出勤が遅れることを連絡し、キッチンのグラスハンガーからワイングラスを抜き取って、冷蔵庫にあった飲みかけのシャルドネを注いだ。
「以前なら、サイドボードからバカラを出して入れてくれたのに」
「急いでいるって言ったでしょう!」
夫のふてぶてしい態度に、つい語気が強まってしまう。
「その様子だと、男でもできたかね?」
ワインを一口飲みながら、夫は面白くなさそうに言った。
「そんな人いないわ。でも私は、もうあなたとはやっていけないと思っているの」
夫はまったく聞いている様子もなく、グラスのワインを飲み干した。
「まぁ、君も座って話をしましょう。僕は別に愛子が嫌いになって家を出ていったわけじゃない。それに僕たちの間には息子だっている。簡単に決めていい話じゃない」
夫はテレビをつけ、かつてのように何の遠慮もなくくつろぎ始めた。
店に向かわなくてはいけないのに、夫一人を置いて出るわけにもいかない。
別居し、離婚の話まで出ている夫と二人だけで話すことなどない。
私のiPhoneは時々無機質に振動し、お客様からのLINEや着信を通知する。
しかし、夫が目の前でのうのうとくつろいでいる以上、返信を打つこともかなわない。
そのうち夫はテレビを見ているうちにソファに横たわり、うたた寝を始めた。
「ねえ、いい加減にしてよ!お願いだから帰って」
しばらく待ってもまったく帰る気のない夫に、私は我慢ができず大声をあげた。
思わず電話をぎゅっと握り締めると、まるでそれに反応したかのように小刻みに振動した。
チラリと画面を見ると、着信の主は影山だった。
だが、出られずにいるうちにそれは止まり、その後「店にいる」とのショートメールの通知が届いた。
「帰ってくれないなら、警察を呼びます」
私は思わず声を荒らげ、3桁の番号をプッシュする。
その時だ。夫がいきなり体を起こし、つかつかと近づいてくると、力任せに私の手首をつかんだ。
▶︎前回:「金のためならなんでもするのか?」エリート男が夢中になった、女の裏の顔
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「離婚はしない」いきなり態度を変えた夫との関係に悩む愛子。影山との関係は?