欧州で人気を博した美少年・徳川昭武──「プリンス昭武」と呼ばせた幕府の事情と薩摩藩との攻防

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 『青天を衝け』の前回の放送では、ナポレオン3世から贈られたという、フランス風の軍服姿の徳川慶喜が登場しました。いわゆる“ちょんまげ頭”に洋装の取り合わせは、われわれには奇異に見えますが、慶喜本人はかなり気に入っていたようです。

 後にお話することになるかと思いますので仔細は省きますが、大坂城をこっそり抜け出し、江戸に軍艦で戻ってきた慶喜は、例の軍服姿で江戸城・大奥にいた和宮に面会を求め、「和装でないと会わない」と怒られています。ちょんまげ頭と洋装のコーディネートは彼にとっては勝負服だったようですが、和宮にそのセンスは通用しませんでした。

 そんな慶喜の名代としてフランス・パリで開かれる第2回パリ万博に参加し、ついでにヨーロッパ諸国を訪問したり、フランスでヨーロッパ風の“帝王学”をはじめ、さまざまな学問を修めるべく旅立ったのが、彼の弟である徳川昭武です。慶応3年(1867年)の早春の出発でした。

 水戸藩主の家に生まれた昭武ですが、ヨーロッパでの呼び名は“プリンス昭武”です。幕府は、日本の征夷大将軍・徳川慶喜のことを(英語では)「his majesty(陛下)」と呼ぶよう、欧米人に強く求めていたからです。それゆえ、“陛下”である徳川慶喜の実弟で、後に将軍となる予定の昭武は「his highness(殿下)」と呼ばれることになったのです。これらは王族・皇族のための尊称です。

 ここで「京都の天皇のことはどう説明していたの?」と疑問を持つ方も多いでしょう。おそらく、「日本の帝は、ヨーロッパにおけるローマ教皇のようなものなので」などと幕府は内々に説明し、欧米人たちを無理に納得させようとしていたのではないか、と思われます。

 しかし、日本では征夷大将軍の弟を「殿下」と呼ぶ文化はありません。そこまで高い身分というわけではないからです。それゆえ、史実・ドラマともに、渋沢栄一たち日本人は、昭武を「民部公子(みんぶ・こうし)」と呼び、“お茶を濁していた”のでした(民部とは昭武の名乗っていた武家官位で、公子は“プリンス”の訳語です)。

 “ウソ”まで付いて、昭武の身分を幕府がより高く見せたかったのには大きな理由がありました。万国博覧会を控えたパリにはヨーロッパ各国の王侯貴族たちが集っており、彼らからバカにされることを避けたかったのです。ウソも方便とはよく言ったもので、江戸時代の日本の徳川将軍家と天皇家の微妙なパワーバランスを、海外の人々がすぐに理解できるはずもないですから。しかも、日本を出発したときの昭武は数え年で14歳の若さでした。

 シビアな話ですが、19世紀後半、欧米の国々は世界の列強となる一方、中国や日本といった東アジア諸国の政治的・文化的影響力は、確実に低下傾向にありました。白人に劣る“黄色人種”という概念が欧米に根付き始めたのは、実はこの頃です。もし、昭武がフランスに行くのが100年前、18世紀のことだったとしたら、もしかしたら、身分を偽るようなことまではしなくてもよかったかもしれません。

 18世紀中盤になって、フランスはもちろん、ヨーロッパ諸国は、中国や日本のようにカラフルな陶磁器を焼く技術を、ようやく自分のものにしたばかり。ヨーロッパよりもはるかに古くから陶磁器を作りこなしていた東アジアの国々の文化に対し、ヨーロッパ人たちは畏敬の念を抱いていました。それを反映しているかのように、中国や日本といった東アジアの人々は、18世紀の時点では“白人の一種”として扱われ、ヨーロッパ人の“親戚”のように考えられていた……などと聞くと驚くかもしれませんが、それが事実なのです(Michael Keevak”Becoming Yellow: A Short History of Racial Thinking”)。

 ただ、『青天~』の時代である19世紀後半となると、中国も日本も(そして朝鮮も)、鎖国しているうちに軍事力や科学力といったジャンルで欧米に大きく後れを取っている存在であることが、明るみに出てしまいました。そして先述のとおり、徳川昭武は数え年で14歳の少年です。幾重にも軽んじられやすい要素があったので、それだけは何としても避けたかったというのが、日本側=幕府側の本音だったのでしょう。

 しかし、そういう幕府の苦心をあざ笑うかのように、薩摩藩はイギリスなどと結託し、(薩摩藩に軍事侵略されていた)琉球王国を日本とは別の独立国家として担ぎ出し、幕府に挑むような形で第2回パリ万博に物品を出品する暴挙に及びます。

 おまけに薩摩藩に雇われていたベルギー人貴族・モンブラン伯爵は、「フィガロ」「ラ・リベルテ」などフランスの有力紙に「日本は連邦制国家だ。それぞれの小国家は藩と呼ばれ、それを大名と呼ばれる諸侯が治めている。徳川将軍家は、国王などではなく、大名たちの代表者にすぎない」といった要旨の記事を掲載させました。要するに、幕府は将軍の弟である徳川昭武を“プリンス”と呼ばせてはいるが、その身分は他の大名の家族とたいして異なるものではないという“事実”を、すっぱ抜かせたわけです。

 ただ、モンブラン伯爵の暗躍にもかかわらず、ナポレオン3世は昭武を気に入っていたからか、「大君(=徳川将軍)の政府」以外を日本国政府とは認めない、と公言してくれました。そして、琉球王国(と薩摩藩)は日本とはまた別の団体として、万博への出品だけは認めるというふうに問題を片付けてくれたのです。

 さて、今回のコラム冒頭で、欧米文化に対して抵抗感が少なかった徳川慶喜の素顔についてお話しましたが、その弟・昭武は……というと、彼も最初から、当時の日本人が料理には使わなかった牛乳やバターをふんだんに使った洋食に馴染めたようです。

 日本の横浜から目的地のフランス・マルセイユ到着までの48日間、昭武は何回も船を乗り換えました。“昭武さま御一行”は、みな一等船客だったといわれています。渋沢は会計係だったにもかかわらず、そういう情報は残さなかったのでよくわからない部分が多いのですが、一方で、よほど洋食に魅了されていたらしく、食事内容については事細かく書き留めています。

 渋沢によると、朝7時に始まる朝食から、夜の8時~9時のイブニング・ティーの時間まで、一行は数時間おきにテーブルを囲んだそうです。渋沢はバターを塗ったパンをとりわけ美味に感じました。渋沢は(ブレッドタイプの)パンにバターをたっぷり塗りつけ、一度の食事で2~3枚も食べることが常だったそうな。

 ちなみに香港で船を乗り換えた一同でしたが、このとき、短期滞在した当地のホテルの夕食のデザートとして出てきた、アイスクリームなるものが特に美味だとして評判になりました。例によって食い意地の張った渋沢は、アイスを「其味甚美なり」などと大げさに称えています。

 素直な渋沢にくらべ、昭武はさすが高貴な生まれだけあり、自分の判断が他人の判断に影響することを恐れるのか、好悪の感情や、何かについて熱心に書き留めるようなことを日記の中でもしていません。

 数少ない例外のひとつが、歓迎晩餐会のあとに催された舞踏会です。昭武は、西洋人の男女が抱き合ってワルツなどを踊る姿を「男女交りの舞」と表現し、「笑ふべし」と書いていたのでした。「笑える」というより、気恥ずかしく思ったのかもしれません。

 昭武はフランスでも、旅行先のヨーロッパ諸国でも、当地の王侯貴族から舞踏会や観劇に招待されると出かけていますが、本当に楽しんだのは、軍事訓練や、武器を製造する工場の見学だけだったそうです。単なるミリタリー・ファンなのではなく、慶喜の期待通り、徳川家の次世代として生きようとしている昭武の努力家ぶりに頭が下がる思いです。

 本心はさておき、社交もスマートにこなす昭武の姿は、フランスで、そしてヨーロッパ中で人気になりました。当時のフランスは「第二帝政」と後に呼ばれた時代です。ナポレオン・ボナパルトの甥にあたるナポレオン3世が皇帝として国のトップに立っていました。皇帝と、その妻・ウジェニー皇后は、昭武を名実ともに“プリンス”として丁寧に遇してくれましたし、昭武は彼らに慶喜からの書状を手渡し、日本とフランスの交流のきっかけをつくるという大任を果たすことができました。

 パリでの万国博覧会にも、昭武たちは何度も足を運びました。最上流の武士の儀礼時の正装である衣冠(いかん)姿の美少年・昭武の人気に後押しされるように、日本=幕府の出品コーナーにも注目が集まります。

 パビリオン内に造られた日本家屋の中で日本人の芸者がお酒やお茶でアテンドしてくれるコーナーが大受けしたこともあって、日本の出展は大成功を収めます。芸者コーナーだけで、6万5000フランも稼いだというのだから、素晴らしい。19世紀後半の貨幣価値の比較はとてもむずかしいのですが、1万フラン=現代の数千万円と考えられるため、2億円程度も儲けたことになります。ただ、600万ドルぶんの外債をパリで売るという勘定奉行・小栗忠順の当初の計画はまったくうまく進みませんでしたが……。

 華やかな生活を送る半面、昭武一行が日本から持参した27万5000フランに相当する外貨は6~7カ月のうちに使い果たされてしまいます。しかも、小栗が話を付けていたハズの銀行家フリューリ=エラールに借金を申し出ると、“用立てできるのは3万フランのみ(しかもクレーという人物との連名で)”といわれ、一行はフランス人に不信感を抱くのでした。

 その後も昭武一行は、パリに滞在中だったロシア皇帝が狙撃される事件にも遭遇するなど苦労を重ねますが、日本国内ではそれ以上に大きな嵐が吹き荒れていました。徳川慶喜の大政奉還による幕府の瓦解、明治新政府の成立、そして天皇からの帰国要請があり、昭武のヨーロッパ滞在期間は約1年半だけでした。留学生としてパリで勉学に集中できた期間はわずか約半年という短期間に終わっています。

 しかし昭武、そして彼に随行した渋沢栄一らは、他では味わえない、実に濃厚な経験を当地で積むことができたと思われます。

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  • 7/11 11:00
  • サイゾー

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