80人vs1300人! 昭和の喧嘩は半端なかった 伝説の武闘派暴走族「極悪」

ニュースサイトTABLOチャンネルより

諸先輩方から比べれば、全然ひよっこなので恐縮なのですが、その中でも取材してきたアウトロー、特に不良少年について書いてみたいと思います。1970年から1980年代にかけて、子供たちの数は増加していました。その分、不良少年たちの数も増えました。分母が大きくなる訳ですから当然です。とは言え、道路交通法などで暴走族が走りにくくなりましたが、不良少年と言えばギャングでもチーマーでもない、暴走族だという時代がありました。

元々は狂走族、カミナリ族などと言われ、暴走族と称されたのは富山県の不良少年たちという説があります。そこから、暴走族は東京近郊、大阪などの大都市圏を中心に広がっていきました。因みに、横浜では、それ以前にお洒落で喧嘩も出来る「ナポレオン党」という不良少年の集団もあったのですが暴走族とは違う文脈なので、別の機会に論じたいと思います。

●超武闘派集団「極悪」とは

数えきれないほどの暴走族が出現したのですが、不良少年史の中で大きな影響を与えた、今回は「極悪」という暴走族を取り上げてみます。

僕は暴走族やチーム、ギャングなどを取材する際、あるいはライターさんに取材して頂く際、まずはなるだけ初代あるいは初代に近い年代にするようにしています。と、いうのも初代・オリジナルがあって現在があるからです。これは不良少年史に限らず、歴史を辿ろうとする場合の自分の中での基本にしています。オリジナルを取材すると今が分かるという事です。

不良少年史と不良史の違いは、公になっているか否かだと感じています。不良(ヤクザ)は例えば、山口組などは国家公安委員会が「広域暴力団に指定」した訳です。すなわち、変な言い方ですが国家が認めた集団です。公文書に記されているのでそこを当たっていけば取材できます。

が、不良少年史すなわち暴走族・ギャング・チーマーなどは古いチームになると初代が誰なのか分かりにくい場合がままあります。ですから、あくまでここでは、僕が聞いた話を綴っています。初代に辿りつくまでには、紹介の紹介そのまた紹介という事もある訳で根気が必要だなと、極悪取材当時20年以上前から感じていました。

1000人以上の連合にわずか80人で突っ込んでいった伝説の暴走族『極悪』 歴史上の事件となった「大井埠頭事件」の真相とは|ニュースサイトTABLO

極悪という暴走族を一言で表現するなら、メディアで言われていたニックネームである「走る暴力団」だと分かりやすいのではないでしょうか。そして極悪出現以前と以後では暴走族のスタイルが劇的に変わりました。

それ以前は「楽しく走ろうぜ」というノリがあったのですか、極悪の結成で暴走族は走る事よりも喧嘩に重きを置く事になっていきます。また、彼らの説ですが、特攻服は元々は戦闘服と言われており、これは極悪が最初に着たものであり、すなわち特攻服の源が極悪。これも別説があり金鹿(みなごろし・造字出来ず)が着たという説も聞いた事があります。不良少年史はこのように、これ一つ取っても難しいものです。

また、極悪の出現はチーム名にも影響を与えました。極悪は見ての通り漢字です。ですから、例えばJOKER’S(ジョーカーズ)は情可悪達にしたり、です。極悪の出現でタテ文字文化・漢字文化になったとも言えます。後述するように、国士舘高校のメンバーが創立したため、戦闘服やステッカーに日の丸や菊紋を入れるのが主流になりました。

極悪を取材したいと思ったのは、今まで誰も「初代」に取材した事がなかったからです(もしかしたら僕の勉強不足で取材されていた方がいて知らなかっただけかもしれません)。昭和の書物では各暴走族の有名人が数十人にインタビューされているものもあり、その中には町屋極悪の有名人Kさんの声も乗っていました。極悪が取材NGという訳ではなさそうです。が、極悪の初代はもう少し前の代なはずでした。

●ネットでは極悪を騙る人物も

約2000年当時、2ちゃんねるやその他の掲示板が全盛期で、極悪についても激論が交わされていました。すなわち「俺が極悪の初代だ」「いや俺が極悪だ」という具合に、です。ツイッターがその頃存在していたらもっと、凄い事になっていたでしょう。改めて言いますが、不良少年史というのはこのように取材するのが難しいものです。

僕は運よく、初代に辿りつく事が出来たのですが実は過程が確かではありません。ネットの書き込みにダメ元で直当たりしたような気もします。大体、取材過程は憶えているものですが、極悪とジョーカーズ(暴走族の方です。横浜に同じ名前の巨大バイカーチームがいました。このチームの取材記もいつか書ければと思います)の2つだけは、ハッキリとは覚えていないのです。もしかしたら紹介だったかも知れません。

極悪の初代は築地極悪、月島極悪、板橋極悪、北千住極悪の四つ。それと、ここからは、初代築地・月島極悪と二代目築地極悪、深川極悪の数名に取材した話を基調していると思ってください。初代築地極悪のメンバーTさんは今も年に一回くらい電話しますが、「築地・月島の連合かな」とも言っていました。初代月島極悪の総長が先輩だからでしょう。

月島極悪の総長Yさんは国士館高校の番を張っており、初代板橋極悪のFさんも国士館の番でした。話を聞けたのはYさんです。Fさんは数年経ってから会う事は出来たのですが、取材の話を切り出す雰囲気ではなく名刺交換だけしました。Yさんの独占インタビューは立場上出来なかったのですが話だけは聞きましたし、初代築地・築地極悪のメンバー数人からの話も取材出来ました。が、何分彼らも記憶が曖昧だったりもして、何度も言いますが不良少年史の取材は難しいです。

極悪の結成は、当時、魚河岸があった築地と隣接する街の月島。それと当時は、右翼的思想の真っただ中にあった国士館高校のメンバーであった事は確かでしょう。それと板橋極悪と北千住極悪。

総じて僕の取材経験で言うと、港町の人達は気が荒く、暴走族が派生しやすいように思います。とは言え都内で言うと世田谷、杉並も暴走族が多いので、この法則が当てはまる訳ではないのですが、少なくとも「極悪とは」を定義すると「東京の下町の不良少年たちと国士館高校のメンバーが作った」とチームだと思います。

すぐ後に荒川区を中心とした町屋極悪。浅草を中心とした三ノ輪極悪。足立区を中心とした梅島極悪が出現します。町屋極悪の初代のSさんにも話を聞く事が出来たのですが、極悪は不思議なチームでこれだけ、極悪という名前があるのに、他の暴走族と異なり、連合を組まなかった事です。

連合で有名なところでは関東連合やCRS連合、東京連合、武州連合などがありますが、極悪はなぜか組まなかったので孤高のようなイメージを取材当時は持ちました。

元々、築地極悪は結成前から「歩き部隊」と称し、近所である銀座を練り歩いて他地域の不良少年たちに喧嘩を売っていました。極悪結成前ですが既に、喧嘩チームの下地は出来ていたようです。

極悪の起こした抗争で、最も有名なのは「大井ふ頭事件」でしょう。この事件によって一気に極悪の名前が都内の不良少年たちに広がったのではないでしょうか。何せ極悪80人がCRS連合1300人(諸説あり)に突っ込んでいったという事件でした。昭和の喧嘩は規模が違いますね。

大井ふ頭は当時は、暴走族のたまり場でした。当時、CRS連合1300人がたまっており、きっかけは諸説あるものの、築地、月島、深川、板橋、北千住の極悪のメンバーが「今、大井ふ頭にCRS連合がたまっているらしいぜ。喧嘩売るか」と言い出したためとの事。CRS連合はアーリーキャッツ、ルート20、スペクターという老舗で有名3チームの連合です。

●不良少年の闘争心理

抗争を起こしたのは二代目の築地、月島、深川極悪のメンバーと板橋極悪のメンバー。北千住極悪は途中で検問にあってしまい参加出来なかったらしいです。また参加メンバーは金鹿(みなごろし)もいたと言われていますが、僕が取材しとた二代目築地、月島、深川極悪のメンバーからは名前は出ていませんでした。

北千住極悪の不参加により、極悪のメンバーは約80人。CRS連合は1300人。圧倒的不利の数の中、極悪は突っ込んでいきます。どうやって突っ込んだのかもメンバーに聞いても諸説ありで、

・板橋極悪のメンバーが突っ込んで一回はかき回したが巻き返された。

・築地極悪のメンバーが軍艦マーチを鳴らしながら、四輪で突っ込んでいった。

というもの。いずれにせよ、不意を突かれたCRS連合は散り散りになります。が、相手が少数だと言う事に気づきます。「向こうは少ないぞ。やりかえせ」。CRS連合は数に勝ります。いったんはかき回した極悪もCRSに押され、港に飛び込んでやり過ごす事になります。

さすがに80人(一説には100人)の人間が1300人を倒すと言う事はできなかったようです。やり過ごした後、極悪のメンバーは「このあとどうする」「吉野家でも食って帰るか」と帰宅したようです。

それにしてもなぜ、極悪はこんな無茶な特攻を仕掛けたのでしょう。メンバーに聞くと「初代の人にお前らすげえじゃん」と言われそれが嬉しかった、と言っていました。これは不良少年の心理の基本と言えるでしょう。

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地元意識の強さ、地元の先輩・後輩の結びつきの強さは極悪に限らず、不良少年の特徴です。極悪は(暴走族は)ヤクザになる人間が多い訳ですが、ヤクザが絶対譲れないものとして「縄張り」(シマ)があります。ヤクザの場合、それが抗争になり命のやり取りになってしまう訳ですが、暴走族の少年たちにもそれが根付いています。つまり抗争相手よりも逃げて地元の先輩にヤキを入れられ方が怖い訳です。

国士館高校OBにも同様の話を聞きました。当時は朝鮮高校との喧嘩が激化し、駅で喧嘩をして電車が止まり、新聞沙汰にもなる訳ですが、「先輩の恐怖のヤキを受けるくらいなら少数でも喧嘩してやる」という心理だったようです。

この心理は現在でも続いていると思われます。

「地元」というワードは不良少年・少女にとってパワーワードで、取材するこちら側からすれば事件が起きた時に解明のきっかけとなるキーワードにもなります。参考まで。極悪という暴走族の取材から得るものは、かなり大きかったと言えます。次回に続きます。(文@久田将義)

2021/7/3 6:00

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