『おおかみこどもの雨と雪』は「理想化された母親像」を押し付けてはいない

 2021年7月2日に『おおかみこどもの雨と雪』が金曜ロードショーで地上波放送される。細田守監督は今や国民的なアニメ作家だが、その作品群は往々にして毀誉褒貶が激しく、熱狂的な支持を得る一方で、激烈なまでの否定的な声もよく聞く。その中でも、『おおかみこどもの雨と雪』の「極端な母親像を理想化し押し付けられるようで嫌だ」という意見はとても切実なものだ。

 作品に対して、そこまでの「嫌い」という感情を持つことは、その人にとって相対的に大切している価値観を再認識できたということでもあるので、その意見を曲げる必要は全くない。だが、それでも本作は(少なくとも細田守監督の意図としては)理想化された母親像を押し付けるような内容ではないと思うのだ。その理由を記していこう。

※以下からは『おおかみこどもの雨と雪』の結末を含むネタバレに触れている。まだ観たことがないという方は、鑑賞後にお読みになってほしい。

排他的な行動だけでは成長も子育てもできない

 主人公の花は、次々に「排斥」をしている。年子の子ども2人を自宅で産み、おおかみ男の“彼”が亡くなった後はたった1人で育てていく。児童相談所からは虐待やネグレクトを疑われ、夜泣きやおおかみの鳴き声を気にする隣人のこともあって、田舎へと引っ越す。しかも、花は「おおかみに変身したら周りがびっくりするから」という理由で、幼い子どもたちを周りから隔絶し、保育園にも通わせなかった。現実で真摯に子育てをしている方が、排他的な行動をしてばかりの花に嫌悪感を覚えてしまうのも致し方がないだろう。

 だが、その花の排他的な行動は、劇中では間違っているもの、そのままでは「成長できない」こととしても描かれている。例えば、彼女は独学で農業を学ぶが、結局は作物を枯らしてしまっていた。だが、近所に住む韮崎のおじいちゃんは、そんな彼女に畑の作り方を1つずつ教えていく。この時に、細田守監督作品の定番のモチーフである「成長」を表す入道雲がもくもくと立ち上っている。排斥に次ぐ排斥をしてきた花が、ここでやっと成長できたことが示されているのだ。

 そして、花は田舎でご近所さんと物々交換もして交流することの大切さ、そのために畑を大きめに作る必要があったこともわかっていく。はっきりと、花は「1人で子育てはできない」、もっと言えば「1人では生きていけない」ことを学んでいる。それは子どもたちも同様で、雪は小学校で同級生の女の子たちから、雨はキツネの先生から、それぞれの世界(社会)で必要なことを教えられる。物語としては、むしろ排他的な行動を否定し、誰かとコミュニケーションを取ること、そして自分の望む生き方を選び取るという成長が描かれている。

 花は「辛いときとか苦しい時とか、とりあえずでも笑っていろ」と父から教わっており、それは「笑顔を絶やさないように子に育つように」という花という名前の由来にもつながっていた。あまつさえ、花は父の葬式の時にまで笑っていて不謹慎だと怒られていたのだが、おおかみ男の“彼”から「不謹慎じゃない」とフォローをされていた。この「無理にでも笑う花」が、「あらゆることに我慢をして子育てする母親」として描かれているようだと、不快感を覚える方も多いようだ。

 だが、花がどんな時でも笑顔でいようとすることも、しっかり劇中では批判がされている。韮崎のおじいちゃんは作物を枯らしてしまう花に「笑うな。なぜ笑う。笑っていたら何もできんぞ」と言い放っている。小動物の骨や爬虫類の抜け殻を集めていることが変なのだとわかって悩む雪も、花にクスクスと笑われて「笑わないで、真剣に悩んでいるんだから」と怒っている。そんな花は新しいワンピースを縫ってあげて、それが雪にとっては心からの救いになっていた。

 そして、転校生の草平は台風の日、母が再婚相手の子どもを身篭り、自分がいらなくなったのだと確信して、「ボクサーかレスラーになって、一匹狼で生きていく」「鍛えて、鍛えて、一人で生きる」と言った後に「ししっ」と笑う。そんな草平に、雪は「私もそうちゃんみたいに、本当のこと話しても、笑っていられるようになりたい」と言い、おおかみの姿を草平に見せて、そして流す涙を「雫だもん」と言いつつ笑顔を見せた。

 この時の雪は、(自分を育ててくれた母の花と重なる)孤独なのに強がって笑おうとする草平の苦しさを知った悲しさと(自分と違って本当のことを打ち明ける)尊敬の気持ち、そして自分のおおかみの姿を見ても(かつて草平自身が雪に傷つけられたのにもかかわらず)「秘密、誰にも言っていない、言わない。だからもう泣くな」とおおかみの姿を受け入れてもらった嬉しさ、それらを一度に感じ取っていた、だから笑ったのではないだろうか。これまでの花の「辛いときとか苦しい時とか、とりあえずでも笑っていろ」という父からの教えとは、違う理由からくる笑顔なのだ。

 そして、花が(手の届かないところにまで行ってしまうも)高らかに咆哮をする雨を「元気で、しっかり生きて!」とその生き方を肯定した時、ラストシーンで(夢の中でおおかみ男の“彼”に言われたように)立派に子どもたちを育てた自分を肯定した時……彼女は心からの笑顔であったのだろう。こうして、劇中での笑顔の理由が変わっていっている、辛い時でも無理やり笑う花はもちろん、あらゆることに我慢をして子育てすることも、むやみに肯定されているわけではないのだ。

 そんな花が劇中で肯定されていることは、「都会の人はすぐに逃げ出す」と言われるほどの厳しい田舎の生活を、決して諦めなかったこと。1人で排他的に子育てをすること、いつも笑顔でいることは批判され間違っているのだと描かれていても、その忍耐強さだけは大したものだと田舎のご近所さんに認められていたのだ。そこに不快感を覚える方はまずいないだろう。

 ちなみに、花に真っ当な批判をしていた韮崎のおじいちゃんも、「小学校に行かなかったやつは見所がある。エジソンとわしがそうじゃ」と言って、「またいい加減なことを言って!」と近所のおばちゃんに怒られるという一幕もある。「誰の価値観も絶対に正しいものではない」ことも示されているのだ。

 だからこそ、その世界(社会)でコミュニケーションをして、自分の望む生き方を選び取ることが重要なのだいう価値観が、より強固に打ち出されているとも言える。

 細田守監督は『サマーウォーズ』以降、自身の経験を踏まえた家族の姿を作品に投影しており、同時に「現代社会では家族のあり方が多様になっているから、それぞれが自分らしい家族との関わり方を見つけてもいいのではないか」という願いのもとで作品に取り組んでいる。つまり、1つの家族の“型”を押し付ける意図は全くなく、あくまでも多様な家族の例の1つを提示しているにすぎないのだ。

 例えば、7月9日に金曜ロードショーで地上波放送される『バケモノの子』では、子どもを育てるのは「ぐうたらで粗野な父親」なのだが、その悪友たちも彼のサポートをしており、子どもは文句を言いつも健やかに育っていった。「ダメな父親でも、周りの大人が子育てを助けてやったらいいじゃないか」という例が示されているというわけだ。

 『おおかみこどもの雨と雪』の排他的かつ辛い時にも笑顔でいようとした母親、『バケモノの子』のぐうたらで粗野な父親は、劇中で積極的に批判されており、「決して理想的で正しい親なんかじゃない」とはっきりと示されている。そして、子育てをしていく中でたくさんの間違いをしてしまうものの、だからこそ親として成長し、最終的には子どもを立派に育て上げた母親や父親を肯定してあげることこそが、細田守監督の目指したことなのではないだろうか。

 まとめると、『おおかみこどもの雨と雪』で描かれたのは、確かに極端な母親像ではあるが、むやみにその全てが肯定されているわけではない。多様な母親の1つの例を提示しているにすぎず、押し付ける意図はない。だけど、その「生き方」と「子どもを立派に育てたこと」は最終的には肯定してあげたい。

 細田守監督は、そんな優しさに溢れた作家であるのだろう。何より、映画は教科書通りの、道徳的に正しいことだけを描くわけではない。このような母親や父親を描く作品が、あってもいいと思うのだ。

2021/7/2 13:00

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