「優しいから、つい…」孤独なアラフォーが受け入れてしまった、敏腕経営者からの甘い誘惑とは
文化・流行の発信基地であり、日々刻々と変化し続ける渋谷。
渋谷系の隆盛から、ITバブル。さらに再開発を経て現在の姿へ…。
「時代を映す鏡」とも呼ばれるスクランブル交差点には、今日も多くの男女が行き交っている。
これは、変貌し続ける街で生きる“変わらない男と女”の物語だ。
◆これまでのあらすじ
渋谷で出会い、別れと再会を繰り返す梨奈と恭一。
ついに恭一からブラジル支局への赴任をきっかけにプロポーズされるも、梨奈は仕事を選び、渋谷に居続けることを選択するのだった。
▶前回:最愛の恋人から交差点で突然のプロポーズ。38歳女がすぐに即決できない理由とは
2021年5月
まさか新型コロナウィルスの影響で、世の中がこんなに変わるとは思ってもみなかった。
去年のこの時期は渋谷から人が消え、まるでゴーストタウンのようだった。現在は、未だ緊急事態宣言中でありながらも「慣れ」なのか、だいぶ人の動きも戻りつつある。
私は今、ミヤシタパーク内のホテルで書籍執筆のため缶詰状態だ。しかしなかなか筆は進まず、窓の外のまばらな人の流れや街並みを見ながら、あの人のことを考えていた。
「恭一は、元気でいるかな…」
すぐ連絡を取ってしまいたくなるから、3年前の別れた翌日、連絡先もSNSもすべて消去した。
ネットや新聞で彼の写真が目に入ってくることもあるが、気にしないようにしていた。
しかし、1年前からそれどころじゃなくなってきたのだ。
彼は異動していなければまだサンパウロにいるはず。ブラジルは新型コロナウィルスでの累計死者数が、米国に次ぐ世界2位だと聞いている。
以来、私の中を不安が支配しているのだった。
ふと心配になって、恭一の所属する通信社のニュースサイトを見る。
彼の記事や写真はここ数ヶ月、一切掲載されていない。Facebookも密かに覗いたが、去年以来、更新がされていないのだ。
不安が募る梨奈。そんなとき、珍しい人物から一本の電話が…
渋谷のハチ公
「なんだか、ハチ公みたいだな」
3年前、別れたときの恭一の言葉が妙に引っかかっている。渋谷駅前に銅像となっている忠犬ハチ公は、亡くなった飼い主をいつまでも渋谷駅で待ち続けていたという。
縁起でもない、と思いながらも気になってしまう。
原稿も終わり、ホテルをチェックアウトした帰りに、私はなんとなくハチ公口までやってきた。ここに来るのは数年ぶりだ。
最近の移動はもっぱらタクシーだし、電車を使うにも観光客ばかりのハチ公口は使わない。
― 恭一にプロポーズされたとき以来だな。
当時を思い出しながら、ハチ公の銅像前に立った。こうやって近くでじっくり向き合うのは、初めてのような気がする。
「すみません、お話しよろしいでしょうか」
ハチ公にシンパシーを感じてしまいジッと見ていると、暇人だと思われたのか、テレビ局の腕章をつけた男性が突然私にマイクを向けてきた。
勢いに乗せられ「あ、はい」と答えてしまう。
「今日は、なぜここに来られたのですか?」
「…え、なんとなくですけど」
ふと“このご時世に渋谷に出てくる不届き者”のレッテルを貼られる予感がした。渋谷在住とアピールしつつ、逃げるようにその場を立ち去る。
サングラスとマスク姿であるものの、作家と気づかれずマイクを向けられることに多少のショックを受けてしまった。
まだまだ頑張らなければと気を引き締めつつ「なぜここに来たか」の単刀直入な質問に、少しドキッとする。
― 本当に何をしに行ったのかな、私。
気がつけば、恭一の事を思い出してしまう。
別れて以来、彼のことを考えないよう仕事ばかりしてきた。しかし、このご時世だ。時間ができ、ひとりが余計身にしみる上に、恭一の消息も分からず不安しかない。
― 新しい恋をするのが一番かもしれないけど…。
だが、私はもう41歳。このご時世で出会いもなく、世間で少々名が知られているゆえに、アプリや婚活には手を出しにくい。
一生ひとりと覚悟を決めながらも、どこかで恭一と戻ることを期待している自分も嫌だ。
― もしかしたら、渋谷にいるからなのかも。
この街には、彼との思い出が多すぎる。以前の世界だったら、目まぐるしい渋谷の波にのまれ、仕事と遊びで面白おかしく生きられたのかもしれない。
しかし、今はひとり。ナーバスに考える時間がありすぎる。
「ついに、ここを離れるときが来たのかな…」
その夜。近所の買い物帰りに246沿いを歩きながら、道の終点にある実家の沼津へ帰ることを考える。
リモートワークが推進され、拠点を郊外や地方に移す友人や仕事仲間も増えている。
渋谷スクランブルスクエアなど、新しい施設は続々とできているが、それらを思い切り楽しむ機会もない。…刺激を求めて渋谷にいるのに、それを実感できないこの街は、私に必要なのだろうか。
そんなことを考えていたとき、スマホが振動していることに気づいた。表示されていたのは珍しい電話番号だ。
仕事だと思い、慌てて電話を取る。
「もしもし?久しぶり」
電話をかけてきた男の正体とは…
渋谷の支配者
突然の着信は、以前勤務していた会社の社長・北見さんからだった。彼は私をニュースで見て心配し、電話をかけてきてくれたらしい。
案の定、放送では渋谷在住のところはカットされていたようだった。
「酷いよね。メディアって…」
「北見さんもそっち側の人じゃないですか」
「はっはっは。言うねー」
昔からの口癖「言うねー」に、心がちょっと温まった。
北見さんは会社をさらに成長させ、今は在京キー局と共同出資し、新しいメディアを立ち上げる取り組みを行っているそうだ。
積もる話もあり、帰宅後にオンラインで会話をすることになった。
画面に映る北見さんの背後には、まるでモデルルームのようなモダンなインテリアが並んでいる。そこは、大きな窓の外に広がる夜景がまぶしい部屋だった。
当然だがそれは仮想背景ではなく、紛れもない本物である。彼は今、公園通りにできたばかりのタワーマンションの最上階に住んでいるのだという。
「ひとりには広すぎる部屋だよ」
「あれ、ご家族は?」
「別れたよ。3年前にね」
妙に納得している自分がいた。彼は昔から仕事も遊びも全開だ。出会った頃は独身だったが、結婚後もその勢いは変わらず「よく奥さん許してくれているなぁ」と陰ながら思っていたものだった。
「女の子とばかり遊んでいるからですよ」
軽く指摘すると、彼はまた「言うねー」と苦笑いをした。
「ま、でも最近の子は質が悪いんだよ。梨奈ちゃんの頃とは大違い。集まってくる子も金しか頭になくてさ」
後ろめたさを抱えつつ、あの頃のような愛想笑いを久々にした。
― 自分も昔は、お金のことしか考えてなかったけど。
しかしながらあの社交場で、私は今に至る生きがいと天職を見つけられた。違う世界を見たことで、上流の感覚も身に付けられた気がする。
「その節は本当にお世話になりました」
「いやいや。話も面白いし、頭の回転もいいし、なんでこんな子がフリーターなのかって疑問で。何とかしてあげたかったんだ」
照れくさそうに微笑んで、手元のグラスを飲み干した北見さん。持ち上げ上手な人だとはわかっているけど、そこまで言われると、私も照れてしまう。
「周りからはミーハーで軽いヤツと言われていましたけど…」
「若かったからそう見えても当然さ。こんな有名な作家先生になるなんて、僕の目は確かだったよ。また本、出すんだろ」
「有名なのは社長には及びません」
「さすが、僕が惚れた数少ない女性だ」
久々にこんな口説かれ方をした。年上男性からこんなに優しくされるのも久々だ。せっかくだからもう少し、この場を楽しんでみようと思う。
「あの頃の君は彼氏もいたから、諦めて僕結婚したんだよ。でもいつの間にか別れていて、社内恋愛してたし…。ずっとすれ違っていたよね」
「北見さん、酔うの早すぎです」
「これ、麦茶。嘘だと思うなら、確かめに来る?」
北見さんはウイスキーグラスの透明な茶褐色を指さして笑う。わかりやすいお誘いの無邪気さに、思わず私は微笑んでしまった。
「ふふ。じゃあ、行こうかしら…」
そしてすぐ、彼のマンションへタクシーを走らせたのだった。
心の片隅にいつまでも居座り続けている恭一の存在を意識しないようにしながら、胸を弾ませる。
このドキドキは何に対してなのか、自分でもよくわからなかった。
▶前回:最愛の恋人から交差点で突然のプロポーズ。38歳女がすぐに即決できない理由とは
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次週ついに最終回。恭一のいない渋谷で、梨奈が選んだ道とは…?