<純烈物語>テレビから流れる音楽が後上翔太のトピックとなった<第102回>

―[ノンフィクション連載「白と黒とハッピー ~純烈物語」]―

◆<第102回>若き日の後上翔太にとっての音楽は人生におけるトピックに付随してくるもの

 後上翔太にとっての音楽の源流は、ひとことで言うと「テレビ」となる。幼稚園の頃は『鳥人戦隊ジェットマン』ごっこに興じ、その主題歌を口ずさみ『ドラゴンボール』へと移っていった。

 だが小学校に入ると戦隊モノが好きなクラスメイトがおらず、見る時間帯も夕方の17時から18時、19時と次第に遅くなっていく。夕食時に家族が揃って同じ番組を楽しんだ、テレビが娯楽の王様だった時代――21時台のドラマのあとは22時より『THE夜もヒッパレ』が始まる。

安達祐実の『家なき子』や堂本剛の『金田一少年の事件簿』が放送される土曜日。チャンネルをそのままにしていると「今、話題の少女」的位置づけで安室奈美恵が登場し、自分よりちょっとだけ年上の女子4人組・SPEEDが歌っていた。

「小学3年ぐらいまでがTKサウンドの全盛期で、小室哲哉さんの曲がずっと流れていたような記憶ですよね。もうTRF、Globeの時代でTM NETWORKは“コムロが昔やっていたらしい”程度。今みたいにYouTubeを開けば……という時代じゃないから、そこはへぇーって思うぐらいで、さかのぼることもしなかったんです」

◆テレビドラマから音楽を拾った小学生時代

「そういう中で、テレビドラマから音楽を拾うように必ず何かしらと紐づけされているんですよ。家の中や日々の生活、学校での出来事、遊びと、それらに付随してくるものとしての音楽。だからアーティスト括りとか、ジャンルで分けられて好きなものから入ったという形ではなく、その時々のBGMとして追憶の中で流れている感覚ですね」

 たとえば小学生の頃、好きな女の子と映画へいくとなった時に選んだのが『踊る大捜査線』だったから、主題歌の『Love Somebody』はドラマ編よりもシネマVer.の方が今も強く残っている。また、6年時は夏期講習で塾に通い、家に帰って食卓へつくと必ず『世界で一番パパが好き』がブラウン管に映り、そこで流れるTUBEの『きっと どこかで』が好きになった。

 小学生たちは、学校でのコミュニケーションツールとしてドラマを見る。共通の話題で盛り上がるのが楽しかった。

 アーティスト目当てで音楽を聴くのは、女子の方が早熟だった。普段は学校にCDを持ってくるのはご法度だが、年に一度ほど解禁される。

 そうなると女子はV6の森田剛、三宅健、岡田准一によるComing Centuryの『夏のかけら』を教室で延々と流した。それに対し、男子にとっては悪フザケの場。CDラジカセの音量をMAXにすると、イントロが流れるまでの間に教室を飛び出し、自分たちがいなくなったところで『エキセントリック少年ボウイのテーマ』を浜田雅功よろしくダータカダッタタカタカタン!と爆音で何百回も流す。

「俺はこれが好きだし、元気になるからいいじゃん!」

 ホントにやめてよね!と怒った顔をする女子のリアクションを面白がりながら、悪ガキ翔太はニヤつきながらそう言い返した。当時の後上にとって音楽とはそういう距離感のものであり、よもやこんなにも密接な関係になるなど想像もしていなかった。

◆母親に連れられKinki Kidsのライブへ

 家にラジオを聴く習慣がなかったことからも、後上が耳にする音楽は夜8時~10時台のテレビで流れる作品がほとんどだった。それでも母がKinki Kidsのファンで、何度かライブに連れていってもらった経験がある。

「ジャニーズ好きというわけではなくて、子育てをする中で子どもが見やすい時間帯にテレビへ出てくる人という認識だったみたいで。デビュー前のKinkiを見ているはずです。小学校低学年だと、友達感覚になっちゃうんですよね、一回見ているからって。いまだにスイスイ曲が出てきます。

 中学へ入る頃はKinkiとL'Arc〜en〜Cielの『HONEY』『snow drop』『DIVE TO BLUE』、GLAYの『誘惑』『SOUL LOVE』といったところが爆発的に売れていたので聴いたんですけど、そこからアーティストのファンになるまでにはいかなかったんです。レンタルCD店にいってアルバムを借りても、全曲聴いたあとに気に入った作品が2、3曲あったらそればかり聴くタイプでした」

 アーティストそのものに惹かれれば過去のアルバムをさかのぼったり、派生した作品に手を伸ばしたりするようになるが、後上はそこまで音楽という文化にのめりこんでいなかった。このあたりは尾崎豊の世界観にハマった白川裕二郎や、BARBEE BOYSのナンバーを自分で演ってみたくなった小田井涼平と違うスタンスだ。

 中学に入ると高校1年までの4年間は、部活であるバスケットボールが中心となったように、どちらかというと文化系ではなく体育会系だった。音楽は辛うじてテレビを通じ触れていたが、絵や工作には1ミリも興味がなく映画から何かをインスパイアされることも皆無。

 そんな時間があったらスポーツを見たほうがいい。どんなに話題となった映画よりも甲子園における松坂大輔の活躍ぶりや、1998FIFAワールドカップ・フランス大会予選「ジョホールバルの歓喜」に夢中となった。

「もともとテレビっ子になったきっかけが小1の時、長嶋茂雄監督が戻ってきて松井秀喜が入団した1993年でしたから。その頃のプロ野球は月曜を除いて毎日やっているテレビ番組で、選手は一番テレビに出てくる人たちになるわけです。最初はご飯の時に映っていても興味なかったのが、そのうちそっちばかり見て『早く食べなさい!』って怒られるようになった。

◆テレビの中の松井秀喜に熱中

 子どもの自分と一番年が近くて、ルーキー時代から見ているから松井選手に親近感が湧いて応援するようになりました。野球を超えてみたいと思うようなバラエティー番組もなかったし。その中で流れるCMに使われる曲を憶えていくんですよ」

 ギャル男になりテレビを見なくなるまでは、ちゃんと継続してジャイアンツファンだったらしい。そしてバスケットボール部で体育館を走り回っている記憶を呼び覚ますと、そこにBGMなど流れていないのに場面場面の曲が流れ出す。

 2002年の日韓ワールドカップに熱狂した高校時代は、制服がない学校だったため各国代表チームのユニフォームを着て登校した。そんな風景にはDragon Ashの『FANTASISTA』が被る。

 ギャル男時代の記憶には湘南乃風の『睡蓮花』やDJ OZMAの『アゲアゲEVERY騎士(ナイト)』が流れ、大人になって小田和正の『ラブストーリーは突然に』を耳にするや、小学1年生の自分を鮮明に思い起こせた。音楽をやっていればモテるという認識から高校でお遊び程度のパンクバンドもやったが、むしろカラオケへいくために押さえているようなものだった。

「よく、メドレーを入れて歌えなかったらイッキみたいなゲームをやったんですよ。それだと歌えないとエラい目に遭うから、渋谷センター街に立っていれば有線が聴こえてくるのでそれで覚えていました。だいたい歌うのは“2004年のオリコンランキング”のような括りで。その時はレミオロメンが流行っていたかな」

 自分の年表を書き出し、節目となるトピックを抽出すると必ずそこについてくる音楽。それが後上の日常だった。

撮影/ヤナガワゴーッ!

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【鈴木健.txt】

(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxt、facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売

2021/6/26 8:50

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