“孤高の鬼才”門田博光が振り返る野村克也との関係「確執とかそんな単純なもんやない」

 大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?

 第1回では“孤高の鬼才”と呼ばれた男、門田博光の光と陰に迫る。

◆フルスイングを追求……野村克也への反発と“求道者の孤独”

「引退後、友人はいません。一匹狼やったからね。勝負の世界はひとりでいい、プロならば周囲になんと言われようとも成績を残すことだけを突き詰めればいい。“19番”との一件から、そう思って一切人を寄せつけてこなかった。でも、引退したら横の繫がりがないから大変やね。話し相手もいないし……」

 73歳の門田博光は、静かな笑みを浮かべながら息を吐くようにそう言った。’70~’80年代に南海、オリックスで活躍した往年の大スラッガーの絞り出した吐息はあまりに儚く、切なかった。

 日本にプロ野球が誕生して約1世紀、幾多の偉大な記録が生まれた。バッターにとっての最大の醍醐味は、何と言ってもホームランだ。言わずと知れた歴代通算ホームラン数第1位は、868本を放った“世界の王”こと王貞治。第2位に選手としてだけでなく名将とも謳われた野村克也の657本が続き、第3位に門田博光の567本が食い込む。

 また好打者の条件と言える歴代通算打点数を見ても、1位に王貞治(2170)、2位に野村克也(1988)、そして、ここでも3位に門田博光(1678)が名を連ねている。

 ホームラン数、打点数ともに歴代3位の記録を残しながら、門田は引退後、監督はおろかコーチもやっていない。王、野村の引退後の功績が華々しい一方、門田は引退後、テレビ中継の解説者としてたまに見かける程度で、次第に世捨て人のように音沙汰を聞かなくなっていった。

 人間は、他者との出会いによって人生が大きく動かされることがある。門田にとってのそれは、冒頭の発言の“19番”、ほかならぬ野村克也との出会いだった。それほど門田と野村は、蜜月というより確執に近い複雑な間柄だった。

◆何を言われようが結果を残すことがプロの仕事

 現役時代から、門田には「変人」「偏屈」というレッテルが貼られ続けた。当時のプロ野球の世界には厳しい縦社会が色濃く残っており、ベテランに対しては「こんにちは」「はい」「わかりました」としか口を開けない時代。

 そんな時代に門田は、上に対してもしっかりと物言う性格だった。だが、周囲からは感心というより、呆れた目で見られるのが常だった。

 社会人野球「クラレ岡山」からドラフト2位で南海に入団した’70年は、球団にとっても節目となった年である。34歳の野村克也がプレイング・マネジャーとなり、監督兼キャッチャー兼4番という重責を務めることになった、いわゆる「野村丸」の出航元年だった。

「あのおっさんとはよう喧嘩した。まあパワハラ教育ですよね。嫁と姑の関係のようで、いろいろと耳が痛かったというのがホンネ。チームにも、今の選手のようにバラエティ番組に一緒に出たり、ともに自主トレをするような空気感は一切なかった。シーズンオフでも『外に出るときはタキシードを着ろ』と締め付けが厳しい時代ですわ。家に帰るまで、笑い声がひとつも出せなかったですから」

 ひとりの独裁者が規律をつくり、他が従うことでチームの求心力を構築し、プラスアルファのパワーを生み出す。そんな野村体制のもとでも、門田は己の心に従って真摯に野球道を邁進し続けた。

「プロは何があろうと自分の仕事をして、成績を残すことがすべて。そして、自分の仕事はとにかくフルスイングしてホームランを打つこと。そう信じとったんです。無茶な振り方してましたわ」

◆「ヒットなんか興味ない。狙うのはホームラン」

 当時、野村は門田を走攻守揃った2番打者に育てるつもりだった。しかし、門田は頑なに拒否した。誰がなんと言おうと、自分の仕事だと信じたフルスイングをやめようとはしなかった。

 野村が「お前は3000本安打、もしくは4割を狙えるんだからヒットを意識したスイングをしろ」と言っても、「ヒットなんか興味ない。狙うのはホームランです」と堂々と言い張り、野村を困らせた。

「2年目に3番を打たせてもらったんだけど、ノーアウト3塁だと三振しなくちゃならんかった。後ろの“19番”の仕事を取ったらあかんのです。最初、それがわからなくてヒットを打ったら、“19番”が怒るんです。ホームランを打っても『違う!』と言い放たれる。『俺はなんのために仕事をすればいいんですか?』と聞くと、『お前は俺の打点稼ぎのために打っとったらええねん』と平気で言われたんです。信用なんかできへんでしょ」

◆「確執」の真相

 当時のマスコミも、ともにチームの主軸である門田と野村の確執をこぞって取り上げた。今、門田の口から明かされるエピソードを聞いても、まさに「確執」と呼ぶにふさわしい憎しみに似た感情が門田の中で渦巻いていても無理はない。しかし、当の門田は「そんな単純なもんやない」と繰り返す。

 ’78年、当時野村と愛人関係にあった“サッチー”こと沙知代の度重なるチームへの口出しが噂され、チーム内は野村派と反野村派の真っ二つに割れていた。球団は、監督の野村を解任する動きを見せるが、投打の柱である江夏、柏原が野村の住居である刀根山マンションに籠城しながら徹底抗戦し、チーム内は泥沼状態となった。

 そんななか、当の門田はあえて静観していた。結局、野村は球団を去ることになる。

「おっさんが辞めるというんで、恐る恐る電話したんですわ。『いろいろとお世話になりました。みんな(他のチームメイト)からも連絡きてますか?』と尋ねると、『いや……連絡してきたんはお前だけや』と言うんです」

◆野村を“おっさん”“19番”と呼び続ける門田

 監督として、4番として、捕手として。文字通りチームの要を担っていた野村が球団を去る間際、餞別の連絡を入れたのは、衝突の絶えなかった門田だけだったのである。こうして監督と選手、3番4番というクリーンナップの関係は8年間で終止符が打たれた。

「あのおっさんはロッテ、西武に行って’80年に引退したけど、その後の講演でようけ儲けたらしい。講演で話した内容は、俺や江夏、江本の悪口ばっかりらしい。それで田園調布に家を建てたんだから。たまったもんじゃないよ」

 今もこう嘯き、野村を“おっさん”“19番”と呼び続ける門田。そこにあるのが、憎悪や恩讐ではなかったのならば……憧れと嫉妬が入り交じった、弟が兄に抱くような血が滾る情念だったのではないだろうか。

 しかし、野村との関係はここで終わったわけではなかった。(第2回に続く)

【門田博光】

’48年、山口県生まれ。左投左打。’69年にドラフト2位で南海ホークスに入団。2年目にレギュラーに定着し打点王を獲得。’81年には44本の本塁打を放ち初の本塁打王を獲得した他、晩年も打棒は衰えず40歳にして本塁打王、打点王を獲得。「不惑の大砲」と呼ばれた

<取材・文/松永多佳倫 撮影/荒熊流星 写真/産経新聞社>

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

2021/6/21 8:53

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