日本プロ野球の“分裂の象徴”交流戦・セVSパ「70年戦争のウラ真相」

 プロ野球は、今年で16回目となるセ・パ交流戦のまっただ中。連日好ゲームが展開しているが、実はこの「交流戦」は、日本プロ野球界の“分裂の象徴”でもある。

「セ・リーグとパ・リーグに分かれた1950年以降、両者は足並みをそろえることさえ至難の業。DH制はもちろん、今では当たり前の予告先発も、当初はパが取り入れた独自策でした。風向きが変わったのは、2004年の“球界再編”。それまでのセ各球団にとっては“もってのほか”の最たるものが、他ならぬ“交流戦”でしたからね」(在京スポーツ紙元デスク)

 かつて「人気のセ」「実力のパ」と称された12球団の勢力図。長きにわたるセ・パ70年の“暗闘”の歴史を、当事者の証言とともにひもといていこう(一部・敬称略)。

「昔のプロ野球はセ・パというより、単純に“巨人と、それ以外”の図式。まして、私が現役だった頃の巨人は、かの“V9”全盛期。人気はもちろん、実力も抜きん出ていましたしね」

 こう語るのは野球解説者の江本孟紀氏。V9時代の巨人は、パの各球団にとって、まさに“巨大な敵”。「打倒・巨人」が大きな目標となっていたのだ。

 当時、野村克也選手兼監督率いる南海の一員だった江本氏。1973年の日本シリーズでは、第1戦で完投勝利を挙げるも、最終的に眼前でV9を成就されるという屈辱を味わっている。

「あの頃は、大阪球場に1年で一番、お客さんが入るのも巨人とのオープン戦だったからね(笑)。すでにONに勝るとも劣らない実績を残していた野村さんなんかには、当然、“なにくそ”という思いもあったはず」(前同)

 パの各球団が“打倒・巨人”に執念を燃やす中でも、特に野村がONに強いライバル心を持っていたのは有名な話。それが「球宴ガチンコ勝負」につながる。

「オールスターで野村さんは、自らのリードで王(貞治)さんを27打席無安打に抑え込んだ。それも、なんとかして自分の存在価値を上げてやろうという意識の表れでしょうね」(同)

■オールスターゲームでは、明らかにパ・リーグのほうが実力は上だった

 ONを含むセのスター選手が一堂に会するオールスターゲームは、人気で劣るパの選手にとって“顔を売る”絶好の機会。ガチンコだったのは、野村だけではなかった。

「いつもガラガラのスタンドでプレーしていたパの選手にとって、球宴は晴れ舞台。セの選手はお祭り気分でしたが、元祖“オールスター男”といわれた山内一弘さんを筆頭に、パの選手はみんな、真剣勝負でしたね」(当時を知る元記者)

 パの選手にとって、球宴は単なる“宴”ではないプロとしての見せ場。その背景には、プロとしての矜持があった。江本氏も、「明らかにパ・リーグのほうが実力は上だった」と語る。

「なにしろ、(阪神に移籍した)私が通用したわけだから(笑)。少し球速を落として、四隅を突くコントロールを意識してやれば、軽く抑えられた。強打者ぞろいの豪快なパ・リーグ野球に慣れていた自分からすると、正直“こんなもんか”とは感じたね」

 ちなみに、阪神の人気に火がついたのは、社会現象ともなった85年の日本一以降。江本氏が在籍した当時は、人気の面でも巨人の後塵を拝するローカル球団でしかなかったという。

「甲子園でもふだんはガラガラ。巨人戦以外はアルプスを閉めて客を入れないこともあったからね。“珍プレー”なんかじゃ、ロッテ時代の川崎球場がよく流れたけど、大洋対広島戦あたりも、そんなに変わらなかったと思うよ」(前同)

 5月31日発売の『週刊大衆』6月14日号ではセ・パの間に起こった10の事件を掲載している。

2021/5/30 7:00

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