「まさか…!?」金持ち夫に離婚を突きつけられた32歳女が、1年後に知った別れの真相
春・第10夜「親しげな女」
1年前に離婚したとき、私はプライドから一つのルールを決めた。
“結婚していた頃の生活を、極力変えない”
3年間という短い結婚生活とその破綻を、私の人生に起こった「ちょっとしたエラー」という位置づけにしたかったから。
私が看護師をしていたころ、交通事故で特別室に入院してきたのが彼で、大恋愛の末に結婚した。しかし、幸せだったのは束の間、夫の一方的な宣告により、捨てられた。
だけど、“32歳で金持ちの夫から捨てられて、人生がボロボロになった可哀想な佐緒里”、と人から思われるのが辛かった。
だから、有栖川宮公園に近いマンションを出たのは仕方ないとして、落ちぶれた印象を持たれぬように、慰謝料で渋谷区常盤松に1LDKの新築マンションを買った。
ここなら、そう大きく生活圏を変える必要もないうえに、南青山のほうにも行動範囲が広がり楽しい独身生活が送れそうだったから。
趣味で通っていたバレエ教室は、辞めずに続けたし、看護師としての再就職先は、ツテのお陰で難なく見つかり、離婚後の生活を順調にスタートできた。
周囲には、この東京の富裕層ではありきたりな離婚話を淡々と話すことで、プライドを保っている。
元夫とは、莫大な慰謝料をもらったあとは、事務的なやりとりをドライに続けていた。
…まさか、思わぬ落とし穴が、そこに仕掛けられているとは知らずに。
必死で平穏を取り戻そうとする佐緒里。しかし、奇妙な出来事が起こる…?
新しい友人
「では、次の発表会の準備を取り仕切ってくださるのは、佐緒里さんですね。3ヶ月頑張っていきましょう」
いかにもバレエダンサーというピリッとした雰囲気の先生の言葉に、私は笑顔で答えながらも内心ため息をついた。
年1回開かれる発表会の準備係リーダーは、順番に回ってくる。今回は私が生徒代表として、先生と連携して事務仕事を進めなければならない。
このバレエスタジオは、南麻布の閑静な住宅街の中にあり、昔は有名なバレエダンサーだった先生が10年ほど前に開いた評判の教室だ。
メインは子どもや学生だが、土日には大人向けの教室もあり、私は結婚して南麻布に引っ越してすぐに入会した。
子どもの頃に、それなりにバレエに打ち込んでいたので、多少は素養があった。だからこそ、教室選びは難しかったが、よくある大人向けの教室のようにストレッチメインではなく、踊ることができる。
土地柄なのか、バレエ教室にありがちな女同士のドロドロはなく、通っている人たち同士適度な距離感が心地よかった。
ここでは離婚したことを、まだ申告していなかったが、そんな必要もなさそうだ。
離婚やそれにまつわる孤独と後悔は、1年経った今でも、ふとした瞬間に押し寄せ息苦しくなることがある。
だからこそ、「エラー」が起きた日常を切り離せる、趣味100%の凪いだ場所が、私には必要だった。
「佐緒里さん…あの、私、初めての発表会で右も左もわからないんですけれども、係のお仕事のお手伝いをさせてください」
ロッカーで着替えていると、小柄で可愛らしい若い女性が話しかけてきた。
たしか数ヶ月前に入ってきたバレエ初心者で、レッスングループが違うから、口をきいたのは初めてだった。
華奢なのに不釣り合いなほど胸が大きくて、それはバレエには向かないなと思った記憶がある。
「あの、急に話しかけてごめんなさい。郁美と申します。佐緒里さん、ストレッチからもうレベルが違うから…いつも見惚れています。発表会のリーダーって大変そうなので、思い切ってお声がけしました」
たどたどしい口調が、親切心から咄嗟に声をかけてくれたことを表していると感じた。
「そうなんですね、ありがとうございます。お花や記念品やDVDを作ってくれる業者との細かいやりとりが、仕事なんだけど…。私、仕事もあって忙しい時もあるので、手伝っていただけたら嬉しいわ」
私の言葉に、パッと笑顔になる彼女を見て、ちょっとだけ意地悪な視線で見ていた自分を恥じた。多分20代半ばで、バレエ初心者なのに教室に飛び込んできたのだ。
私は、もともと体育会系気質があるうえに看護師なので、面倒見はいいほうなのだ。つい、嬉しくなってロッカーからスマホを取り出した。
「もしよかったら、LINEを交換しませんか?」
彼女は「もちろん」と言うと、自分もスマホを取り出した。その左手の薬指に、プラチナのリングがはまっている。
ほんの少し裏切られたような気持ちがせり上がりそうになり、私はそれを遮るために、急いで笑顔を作った。
◆
意外なことに、郁美はほんわかした雰囲気とは裏腹に、とても優秀なアシスタントになった。
次のちょっとした用事を察して、さっと動いてくれる。
そして何よりも、どういうわけか私をとても慕ってくれたのだ。年齢は8歳も違ったけれども、変に遠慮することもないので、準備係の仕事は順調に進んだ。
発表会の案内状を作成する作業を翌日に控えたある日、郁美から1通のLINEが入った。
「佐緒里さん、もしよかったらうちで作業しませんか?お教室からも歩いてすぐですし、レッスンの帰りにでも。土曜は、主人は仕事でいないので、気兼ねなくいらしてください」
佐緒里がはじめて訪れた郁美のマンションで次々に起こる、奇妙な符合が意味するものとは?
パズルのピース
郁美が住んでいるのは、南麻布の一角にある豪奢な低層のヴィンテージマンションだった。
バレエ教室を出てから、私が結婚していた当時住んでいたマンションとは逆の方向に向かったので、なんとなくホッとした。
「わあ、素敵なお部屋ね…!」
外観はシックなレンガ造りだったが、中は美しくリノベーションされていて、天井が高く広々としていた。
タワーマンションや、新しいだけで中身は取り立てて特別なところがないマンションとは一線を画す、豪華な造りだった。
南麻布でこれほどのマンションならば、いくら中古とはいえ、4~5億はするだろう。
郁美には、まだ子どもはいない。去年結婚したばかりということだったが、夫が何をしている人なのか、少し気になった。
バレエ教室では、先輩風を吹かせている私だが、一步外にでれば、しがない32歳バツイチ独身の看護師なのだ。
それに対して、郁美は、裕福で若くて美しい人妻だ。
そのことを思い知らされて、胸の奥が痛んだ。
かつては私も、郁美と同じようにいろんなことに鈍感でいられたが、それは恵まれた女の特権だったということを、今になって思い知る。
「郁美さんのインテリアセンス、すごく好き。なんだか不思議と落ち着くわ」
アールグレイのアイスティーがたっぷりと注がれたグラスを片手に、私はぐるりと部屋を見渡した。
ナチュラルで明るいスタイルは、結婚時代の部屋に少しテイストが似ている。
都心の飲食店をいくつも経営する多忙な夫が、家では完全に安らげるようにと、二人で決めたあの家。
「ほんとですか?佐緒里さんにそう言ってもらえると嬉しい。まあ、夫のセンスがいいだけなんですけれど」
「…郁美さんのご主人はどんな方なの?」
さりげなく聞こえただろうか。これほどの贅沢な暮らしを若い妻に与える男ならば、きっと郁美よりもかなり年上なのかもしれない。
「主人とは、車のショールームで働いていたときに出会って結婚しました。…まあ、ひと悶着あったんですけど、今はどうでもいいことです。でも、最近ちょっと困ったことがあって…」
「え?そうなの?」
「彼、前の奥さんに、つきまとわれてるらしくて」
「…どうしてそう思うの?」
「ときどき、電話がかかってくるんです。彼、わかりやすいから、その女の人からの電話だと、すうっとリビングから出ていっちゃう。元妻とはいえ、既婚者に電話をかけてくるなんて失礼じゃありませんか?」
私は郁美の若さ、ナイーブさを、ちょっと羨ましく思った。夫にやきもちを焼くなどという行為は、夫婦生活のほんの初期の頃にしか味わえない贅沢だ。
「そうねえ…。でもそれ、ただの事務的な連絡なんじゃないかな?」
すると郁美は、人が変わったようにこちらを鋭い視線でにらんだ。
「私、我慢ならないんです。厚かましい女は、どんなことをしても排除します」
なんだか話が変な方向に行ってしまった。所詮お稽古事仲間だ、妙に仲良くなって、教室に通いにくくなってしまっては本末転倒だ。
私は目的の招待状づくりをさっさと終わらせて、失礼しようと思った。
「あんまり素敵なお宅なので、くつろいじゃったわ。さあ、作業に取りかかろっか。郁美さん、ちょっとハサミをお借りしてもいい?」
「もちろんです!さっさと作っちゃいましょう」
郁美はソファから立ち上がると、隣の部屋から、ハサミを持ってきた。
「あれ…?このハサミ、左利き用じゃない?」
見た目はブルーの、なんということはないハサミだったが、以前うちに同じものがあったのですぐにわかった。刃の重なりが逆になっているので、右利きの私には使えない代物だ。
「あ!ほんとだ、主人の引き出しから持ってきたから…ちょっと待ってくださいね、キッチンに私のがあるはず」
そこからは二人で作業に没帳し、招待状の封入作業は1時間半ほどで終了した。
「郁美さん、本当に助かった…!私こういうの苦手だから、一人でやったらすっごく時間がかかったと思う。ありがとう」
「とんでもない。佐緒里さんにお家に来ていただくいい機会でした。もう少しゆっくりしていただけるなら、お手伝いさんが来るから、よかったらディナーも一緒にいかがですか?」
さすがにそれは、と固辞して、にこにこと愛想のいい郁美に玄関まで見送られ部屋を出た。
なぜだろう、今日は少しだけ疲れた。人の家にお邪魔するなど慣れないことはするものじゃない。ため息を一つつくと、私はマンションの内廊下を進んでいく。
途中で50歳くらいの女性とすれ違ったときに、私はハッとして顔を上げた。
― 今のって…うちに前にいたお手伝いさん、じゃない?
振り返ったときには、私が今出てきた郁美の部屋に入っていくところだった。
「まさか…」
その時、さまざまなことが脳裏をよぎり、私は立ちすくむ。
夫から、もう気持ちがなくなったと告げられたとき、なけなしのプライドから深くは追及しなかった。
しかし、原因は…新しい女だったはずだ。
思えばその少し前、ポルシェを購入していた。夫は一人でディーラーで試乗を繰り返していた。
彼は、成功の証だと、港区のこの界隈に住むことに固執していた。
ナチュラルな西海岸テイストのインテリアが好きな男で…。
さっきすれ違ったあのお手伝いさんは、気働きがいいと、彼が探してきた人。
そして…元夫もまた、左利きだった。
口の中の水分がすっかりなくなって、息苦しさを覚え、追われるようにマンションのエントランスを飛び出した。
一転、外は緑があふれ、初夏の風が吹いている。
速足で、タクシーに乗るために坂を下りながら、郁美がどういうつもりで近づいてきたのかを必死に想像した。
しかし、その途中で、私は気がつく。何かを明らかにしたところで、それが何になるというのだろう。
所詮は、男と女と、そして滑稽にもはみだしたもう一人の女の、東京によくある話ではないか。
私に必要なのは、真実じゃない。凪だ。
これ以上の嵐は御免だった。
発表会が終わったら、きっぱりと教室を辞め、この界隈と決別しようと心に決めた。
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