「俺の彼女に本気なら…」彼女の浮気相手にこっそり会った男。相手に突きつけた異様な条件は
輝かしい経歴に、人も羨むようなステータス。そして、安定した恋の相手。
「完璧」に彩られた人生を、決して踏み外すことなく、まっすぐに歩いてきた。
…彼と出会うまでは。
地位もない。名誉もない。高収入でもない。
自由以外に何も持たない男とどうしようもなく激しい恋をした時、迷う女は、平坦な道と困難な道の、どちらの道を選ぶのか。
もし、明日が世界のおわりの日だとしたら─
◆これまでのあらすじ
一通の手紙で、真衣と塁の激しい恋は終わりを告げ2年。真衣は、直人と結婚し幸せな家庭を築いている。一方の塁は…
▶前回:夫の帰宅が遅い夜。新婚の妻が自宅で1人、楽しむためにこっそり取り出したモノとは
―2021年3月14日―
3月14日、ホワイトデー。
閉店後の片づけをしていると、カランとベルが鳴った。その音は、2年前の激動の出来事の始まりを思い起させる。
けれど、目をやった先にいたのは真衣ではない、直美だ。
「なんだ、直美か」
「なんだって、何よ。それが恩人に対して言う言葉?」
「ごめんごめん」
「私には振り向いてくれないくせに、嫌な役ばっかりやらせてさ!」
「直美はイイ女だよ」
「そんな風に軽口ばっか叩いて…」
そう言って、直美は口を尖らせる。
「ねえ、1杯だけなんか作ってよ」
「えー、今から?…1杯だけだからな」
直美のわがままにこたえ、俺が…いや、俺と真衣が一番好きだったマルガリータを作りながら、2年前に想いを馳せた。
塁と直美。その、本当の関係性とは?
「はい、どーぞ」
「ありがとう。…てか、これ真衣って子が好きだったお酒じゃない?」
「お前、そんなことよく覚えてんな…」
「てことは、塁もまだ覚えているんだね。ハァ…ほんとむかつく!」
直美は、その色っぽい外見に似合わず、実は驚くほどに素直な子だ。こっちが笑ってしまうほどに、直球ストレートで好意をぶつけてくる。彼女の辞書に、駆け引きとかいう類の文字はないのだろう。でも、それが彼女の魅力だと思う。
だけど、俺は直美の好意には答えられなかった。ふわふわとその好意を交わしながら、ここまで来ている。
「もう、俺のこと諦めろよ」
「真衣って子のことが今でも好きなんだね…。てか、じゃあ何であんな嘘ついたの?」
「ほら、俺っていい加減なやつだからさ」
こうして今日も直美からの痛い質問を交わしながら、俺もマルガリータを一口飲んだ。はじめて真衣が俺に作ってくれた、思い出の味。
…正直、今でも全然忘れることなんてできてはいない。
―本気で仕事に打ち込みたいから。
俺は手紙にそう記した。そこに嘘はない。でも、俺が真衣に別れを告げるに至った一番の理由は、真衣と出会って間もない頃にまで遡る。
◆
恵比寿で店をやっていた時代、直人が俺を訪ねてきたことがあった。
あいつは最初、客を装ってバーボンのロックを2杯たのんだ。ゆっくり時間をかけてそれを飲みほし、こう言ったんだ。
「塁。覚えているか?俺のこと」
はじめは、全くわからなかった。名前を聞いてもピンとこなかったけれど、大学時代の同期だと聞いて、記憶の片隅に微かにあった直人の残像が少しだけ蘇った。
「俺と真衣は真剣につきあっている。だから、手を出さないで欲しい」
酔いからなのか、怒りからなのか、直人は顔を真っ赤に染めあげ、俺に懇願した。
そのあと、真衣との出会いから今までの思い出を懐かしむような目で語りはじめた。聞いてもいないのに。でも、直人の真衣への愛情が本物だってことは、その目を見てわかった。
…そして。これは真衣には伝えなかったけれど、直人は最後にこう言って、俺の元を去った。
「でも…。もし、もしお前が真衣に本気なら、死ぬまで、一緒にいて幸せにしてくれ。世界が続く限り、絶対に」
―死ぬまで…世界が続く限り、絶対に。
そのあと真衣との関係はどんどん深まり、愛情は増していったけれど、この直人の言葉だけは頭から消えることがなかった。
直人からの一言に、塁が決意したこと
そして、考えたんだ。
まだまだ真衣を愛している“今”は続いているし、しばらく終わりそうにはない。けれど、数か月後はどうだろうか?数年後は?
少し先の未来でさえ、何がおこるか、何を想うか、想像できない。自分のことなのに。
もし、俺が他の人を好きになったら?真衣に対して、冷めてしまったら?真衣はどうなる?
真衣との時間を過ごすたびに、そんなことを考えつづけていた。
―そして、あのとき。
『ねえ、真衣。明日、世界がおわるなら何する?』
俺の質問に、真衣はこう答えた。
『…塁とこうして、一緒にいるかな』
その言葉だけじゃない、あのときの眼差しを見て、直感で思ったんだ。俺は、真衣の人生を背負っちゃいけないって。
本当に、明日世界がおわるのなら、俺だって迷わず真衣との時間を選ぶ。
けれど現実問題、彼女には結婚願望も出産願望もある。正式に付き合えば、ゆくゆく彼女は俺との結婚をのぞむだろう。
だけど、俺には先のことを保証することはできない。
俺はただただ、“今”を大切にして生きたい。そう思っているから。これは、俺が親父の死から学んだこと。
俺のそんなところに、真衣は惹かれてくれたんだろう。でも、皮肉な話だけれど、そんな俺だからこそ、真衣の将来を保証できなかった。
「塁、おかわり~」
直美の声に、随分と感傷に浸ってしまっていたことに気づかされた。
「1杯だけって言ったろ」
「だって、これ美味しいんだもん」
「もう1杯だけだからな」
「てか、この店のマルガリータ美味しいって、評判だよね」
「なんか知らないけど、最近やたら多いんだよな。マルガリータ飲みにきましたってお客さん」
「すっかり、看板メニューね」
直美に出した2杯目のマルガリータを眺めながら、思った。今でも、真衣に対する想いが全くもって消えていないなんて、2年前の俺は夢にも思わなかっただろうな、と。
…それでも、俺はあのとき真衣のことを本気で大切に思っていたからこそ、身を引いた。もちろん、もっと仕事に打ち込むためでもあったけど。どちらが本当の理由だったのか、いまだに自分でもよくわからない。
ちょうど恵比寿のテナントの更新時期に差し掛かっていて、新しい街で生きてみたいと思ってもいたから、そのタイミングを利用した。
最後にあのバーがあった場所を去るときは、胸が張り裂けそうだった。自分の決断とは裏腹に、真衣に対する想いが溢れてとまらない。
でも、なんとか連絡してしまいそうな衝動を抑え、その代わりに、想いを手紙にしたためた。きっぱり諦めてもらうために、直美と一緒になるという嘘まで書いた。
それは、真衣のことを本気で思っていたからこその、俺なりの覚悟だったんだ。
いまでも、カランとベルが鳴るたびに「もしかして、真衣…」と思ってしまうけれど、後悔はない。これから先もっと他の人と、真衣以上の激しい恋に落ちるかもしれない。直美に本気になるかもしれない。
人の心がどう移りゆくかなんて、誰にもわからないから。
―だから、真衣。
真衣も、何が起こるかわからないこの先の人生を、俺に縛られずに自由に謳歌して欲しい。
真衣の今の…そしてこれから先、世界が続く限りの幸せを、ここから祈っている。
Fin.
▶前回:夫の帰宅が遅い夜。新婚の妻が自宅で1人、楽しむためにこっそり取り出したモノとは